一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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近代天皇制における権威と権力 その1

2006-02-01 12:07:37 | Essay
錦旗
島津佐土原藩に下賜された「錦旗」。

戊辰戦争当時の天皇は、どの程度の権威を持っていたのだろうか。

「江戸期の天皇は、鎌倉や室町以上にシステムのなかに織りこみずみのようにみえる。武家の首長(ないし候補)を将軍に任官し、大小の武家に官位を授与する手続きは無論のこと、東照大権現という武家の祖神形成まで、神号授与・例幣使というかたちで天皇が関わっている以上、天皇なる存在は、武家政権の不可欠の補完物であったと断定せざるをえない。」(今谷明『武家と天皇―王権をめぐる相剋』
そのシステムが機能しなくなるのが、19世紀初めから始まる外国勢力の圧力である。
「この事件(一風斎註・ロシアによるサハリンやエトロフ島の攻撃)が契機となって、幕府はみずからの軍事力に自信を喪失したとき、天皇の権威に依存するという体質が、ふたたびあらわれたのである。」(今谷、前掲書)

江戸幕府は「天皇の権威」というパンドラの箱を自ら開けてしまったのである。
幕府の思惑以上に天皇に権威を取り戻させようとする、「天皇権威の回復運動」(尊王運動)が、このようにして始まる。

しかし、天皇の存在自体が、一般民衆に知られていなかったことは、記憶しておくべきであろう*。
さもないと、〈鳥羽伏見の戦い〉における「錦旗」のように、戊辰戦争時、天皇権威に一斉に日本全国がひれ伏したかのような誤解をするからである。
*明治2(1869)年、明治新政府(太政官政府)は、天皇という存在を知らしめるべく、全国に告諭を発した。ここでは、一例として東北地方へ出された「奥羽人民告諭」を挙げておく。
「天子様は天照皇太神宮様の後子孫様にて、此世の始より日本の主にましまし、神様の御位正一位など国々にあるも、みな天子様より御ゆるし被遊候わけにて誠に神様より尊く、一尺の地も一人の人民もみな天子様のものにて、日本国の父母にましませば……」
続く