ペリーの来航以前に、異文化と接触し大きな衝撃を受けた藩がある。
1つは、佐賀藩であり、もう1つは、水戸藩。
佐賀藩の場合は、〈フェートン号事件〉*で英国軍艦の圧倒的武力格差に衝撃を受けている。
*1808(文化5)年8月イギリス軍艦フェートン号が、フランス軍艦を求めて長崎港に侵入、オランダ商館員を捕らえ、食糧や薪水などを得て退去した事件。佐賀藩を初めとした日本の警備陣は、武力のあまりの格差に抵抗を諦め要求に応じた。その責任を取らされ、佐賀藩主鍋島斉直は逼塞処分を受けた。その結果として、佐賀藩は反射炉を建造し、洋式武器の自藩製造への道を歩むことになる。
一方、水戸藩の場合は、大津浜(現北茨城市)にイギリス捕鯨船員が上陸した事件である。
1824(文政7)年、イギリス船2隻が出現、乗組員12名が上陸し薪水を求めた、というもの。
「このときは、水戸藩に十分の武備があり治安がたもたれていたから、漁民たちが禁令をやぶって密かにイギリス人に薪水・食料を売っても、それが争乱や混乱にむすびつくことはなかった」(松本健一『日本の近代1 開国・維新』)が、その際に筆談役となった会沢正志斎は、海防の必要性に目覚めて一書を記すことになる。
これが、幕末攘夷運動のバイブルと言われた『新論』である。