一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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今日のことば(100) ― 玉虫左太夫

2006-02-25 09:32:37 | Quotation
「貌列志天徳(プレジデント)ノ居宅ナレドモ、城郭ヲ経営セズ、他ノ家ニ異ナラズ(中略)花旗(アメリカ)国ハ共和政事ニシテ一私ヲ行フヲ得ズ、善悪吉凶皆衆ト之ヲ同(おなじく)シ、内乱ハ決シテ、ナキコトトスルナリ」
(『航米日録』)

玉虫左太夫 (たまむし・さだゆう、1823 - 69) 
仙台藩士玉虫平蔵の七男として生まれる。幼名は勇八。藩校養賢堂に入学すると、頭角を現し、藩士荒井東吾の娘を娶り養子となる。1846(弘化3)年、脱藩して江戸に走る。江戸では大槻磐渓(おおつき・ばんけい、1801 - 78)に認められ、大学頭林復斎の元で修業、やがて昌平黌の塾長となり、江戸仙台藩校順造館に復職。
1857(安政4)年、幕府箱館奉行堀利煕(ほり・としひろ)にしたがい蝦夷地に入り、「入北記」という記録を残す。1860(万延1)年、日米修好通商条約の批准書交換のための幕府使節一行にしたがい、アメリカ合衆国に渡る。この時残した記録が『航米日録(こうべいにちろく)』である。

左太夫は、アメリカでその共和政事(政治)に驚く。一つは、当時の日本の「門閥制度」がないこと(幕府高官は、かえってそれに反撥を感じ、国務長官を訪ねても茶の一杯もださない、などと批判している)。
このことが、左太夫に民主的な政治体制がどのようなものかに、目を開かせる元となった(ちなみに、"republic" に「共和」の語を当てたのは、左太夫の師磐渓である)。

戊辰戦争が始まり、軍務局頭取に任じられた左太夫は、「東日本政権」にも民主的な政治体制を取り入れようとしたが、仙台藩は新政府軍に降伏、その責任を取らされて切腹することになる。
「人心ヲ和シ上下一致ニセン事ヲ論ズ」
「和ハ天下ヲ治メルノ要法ナリ、此要法ヲ失ヒ、何ヲ以テ人心帰属セン」
とのことばを記したメモが、仙台の玉虫家に残されているとのこと。
そのメモでは、言論の自由、賄賂の禁止、賞罰の明確化を挙げ、
「その上に立って軍艦を建造し軍備を整え、他国の侵略を防ぐ。蒸気機関によって産業を興し、外国人を雇い技術の導入をはかる。万国と交易し、国を富ませる」(星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』)
という方策が述べられているそうである。

従来「奥羽越列藩同盟」ひいては「東日本政権」は、改革派(明治新政府)に対抗するだけの守旧的な体制である、と断じられてきたが、はたしてそうだったのか。
玉虫左太夫のような人物を見ることによって、もう1つの「明治」を考えることができるような気がする。

参考資料 星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』(中央公論社)
     佐々木克『戊辰戦争―敗者の明治維新』( 同 )
     小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える』( 同 )