烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

知恵の悲しみの時代

2006-12-04 22:14:10 | 本:文学

 『知恵の悲しみの時代』(長田弘著、みすず書房刊)を読む。プロローグは、9.11テロの起きた2001年から始まる。次いで日本の近代的飛躍の段階となった日清戦争の起きた1894年から1945年の終戦の年までをその時代背景を教えてくれる書物とともに一歩一歩進んでいくエッセーである。引用されている文章や詩句がいちいち鮮明であり、読み進めていくにつれてまるでジグソーパズルのピースを一つ一つしっかりとはめ込んで全体像(すなわち本書のテーマ)が浮かび上がるような経験をすることができる。
そのピースのいくつかを挙げる。
『リンカーン演説集』でのthe peopleという言葉の概念をめぐって、それを日本語にどう訳すかというエッセーでは

「the people」という普遍を表す主語が、日本語にすると立場を示す主語、もしくは国籍をもつ主語になってしまう難しさと危うさ。
「人びとを、人びとが、人びとのために」

という一節がひどく気になった。

わたしたちの法の現在をささえるのは、法によって権力がしばる法治国家という国のあり方でなく、法によって権力をしばる、「法というルール(rule of law)」をもつ国のあり方です。
「理解せよ、忘れるな」

 法という存在は、それを解釈されることによって初めてその時代で生きたものになる。したがって最も畏れるべきは、その法自体よりもそれを解釈する人であり、ある解釈を許容する時代ではないだろうかとそのエッセーを読んで思う。

 一人の兵士の残した妻への手紙から著者が知ったラヴェッソンという人の『習慣論』という本のことを読んでみる。彼はその本を読むことができなかった。彼が妻に遺した手紙を読むと、戦争という文化を否定する野蛮の中での日々の読書という行為が祈りのように思えてくる。

読書は、読書という習慣です。「習慣は、単に状態であるのみならず、素質であり能力である」。戦争に読書の習慣をうばわれた或る読書家の短い人生を思いださせるのは、彼の読むことのできなかった『習慣論』にある、その言葉です。
「或る読書家の短い人生」

 「戦争に必要なもの」というエッセーでは、一見戦争とは無関係に思える樟脳という資源が語られる。戦争という国家的な規模の活動の中で樟脳という小さなものが、次のような言葉の中で強いリアリティをもって迫ってくる。

戦争ほど、声高に大義を語りつづけて、後になればまっさきに明らかな問題を、そのときはまっさきに問題の外に遠ざけてしまうものはありません。やみくもな破局に至ったこの国の昭和の戦争を最後までなやました問題も、本当はまっさきに明らかだった、しかし最後まであえて問題の外におかれた問題だったにちがいありません。樟脳の問題もたぶんその一つです。

エピローグでは静かなしかしずっしりと重たい次の言葉が記される。

何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。しばしば戦端をひらいてきた言葉です。何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。戦争の終わりにつねにのこされてきた言葉です。
 一九四五(昭和二十)年、真夏の青空の下の敗戦で終わった、それまでの戦争を基とした時代の後に、この国はじぶんから戦争をしないことを選んで、留保する自由を選びました。しかし、忘れないようにしたいのは、それからずっと、みずから留保する自由を選びつづけてきた最初の理由が、いまに至るまで、この国の自立の最後の根拠となってきたし、なっている、という事実です。