烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

『西田幾多郎 <絶対無とは何か> 』

2006-12-03 23:58:21 | 本:哲学

 『西田幾多郎 <絶対無とは何か> 』(永井均著、NHK出版刊)を読む。『マインド・クエスト』を読んでから、「私」の経験の成立について考えていたところでこの本を読んだ。川端康成の『雪国』の冒頭の文章を例にとり、その経験の主体を考えることから本書は始まる。トンネルを抜けたところに広がる雪国を経験するのは、西田幾多郎の用語を用いれば、主客未分の「純粋経験」であったと著者は指摘する。この独特の哲学用語は実は日本語を使っている私たちにとっては、日常的な事態であり、英語的理解のしかたとは異なっている。前著に引き続き本書を手に取ったのは、偶然であるが西田哲学からニューラルネットワークを考えてみるのも面白いと感じた。
 「私」が成立する以前における対象(「対象」という概念でとらえられる以前の対象)との出会い、というより衝突が起きる「場所」こそが私なのである。デカルトは、意識に上る様々なことをまるで夾雑物である砂利をふるい落とすようにしながら我という意識主体である金を取り出すのであるが、西田のいう我はそれらを篩いつつある水のようなものといった感じであろうか。端的に「無」の場所である。アリストテレスが個物を主語になり述語にならないものとして位置づけ、さまざまな一般的性質(属性)を付け加えることで述語の枠をどんどん狭めていき、このものとしての個物にいたる方向で主語たる実体を規定していくのに対して、西田哲学では逆にどこまでも述語となって主語とならないものという方向で考えた。

概念は外から質を規定するのではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定してくわけである。すなわち「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化さrていない音声を自ずと分節化させていく力と構造が、l経験それ自体の内に宿っていることによってなのである。

第二章の場所についての論述の結語であるが、西田のアプローチとウィトゲンシュタインのアプローチとは同じ核を目指して反対方向から切り込んでいく営みのようの思われる。