翌日、友人MクンはBELAちゃんの職場の片付けにも手を貸してくれた。
「お役に立ちまっせ~」とぐんぐん動いていた。
なんだか見舞いというよりは、さらに踏み込んで災害ボランティアになりきってます・・・。
やがて彼は仙台駅から再び新潟経由で横浜へ帰っていった。
彼にはどうやってお礼したらいいのか。
多分、支援物資やら旅費などでかなり出費だったはず。(彼とともに支援してくれた人たちもね・・・。)
震災からたった一週間。ライフラインも交通システムもすべてダウンしているこの街に、万難を排し単身乗り込んできた彼の行動は「勇気」といってもいい。震災以後、こういう人のことを「英雄」と呼ぶ(笑)。こーいうカッコよさって自分にはないもんなぁ・・・。
考えてみれば、「勇気」を以って「震災からの復興」を呼びかけている人が震災直後から存在していた。
銭湯で「重油がなくなるまで営業する!」と思い切ったことをしたひとがいる。
震災翌日、石油の供給が完全にとまっている最中に、である。
お店の小麦粉と燃料が尽きるまで菓子を焼き続けていたひとがいる。
食糧事情が全く見通し立たない中で、あえて生産者の責任を果たそうとしたのである。
灯油の在庫をすべて吐き出す覚悟で売り続けていたひとがいる。
抱え込むのではなく、わずかでも希望の糧となるように。多くの人が明日を考えられる心地になれるように。
震災からの1ヶ月は、津波の被災地に「飢えと寒さ」を、そして地震のみの被災地には「恐慌」をもたらした。
インフラが破壊された。流通も封じられた。そして物資が入ってこない。見込みすらなかった。結局お店は「供給の予定は無い」と言ってさっさと閉めてしまう。または窓をいちめん新聞紙で覆った。
このことが僕らの恐怖をかきたてた。
人口の多い地域だから、この恐怖はますます増幅してゆく。
・・・これが「恐慌」なんだ。限定地域かもしれないが、その中に閉じ込められた人にとって、これは「恐慌」と呼んでいい。
僕らは閉じ込められ、置き去りにされた。そう思い込んでしまった。
信号の消えた町をうろつき、あっちの行列、こっちの行列、物がありそうなところを捜してまわり、わずかな品物を求めてまわる。
その瞬間、品物にありつけることが死活問題だった。これを「恐慌」と呼ばずしてなんと呼ぼう?
だけど、「恐慌」に負けない強い気持ちを示して僕らを励ます人がいる。
横浜という遠いところから、直通のアクセスも寸断された状況で、山のような物資を担いで彼はやってきた。
― オイ、忘れるな、ひとりじゃないだろ ―
恐怖し絶望した僕らに「希望すること」を思い出させてくれる人は、やっぱり「英雄」と呼びたい。
友人の支援はその後も続いた。
食料、トレペ、コンタクト用品、娯楽用品にいたるまで、深慮が伺える物資が届くようになった。
高速道路が解禁になってからは直接クルマでお魚やモチを届けてもらった。
この「英雄」は疲れをしらない。
あれから、「復興」という言葉について考えている。
「復興」・・・。3.11の震災の直後から、この言葉はすでに心の奥でかぼそい声を上げていた。
けれどもそれはあまりにも現実味がなさすぎた。被害状況があまりに甚大だったからだ。
けれど、多くの英雄が示していた「復興」は、「日常生活に帰ろう」という願いだったように思う。
日常生活、そうか「日常生活」でいいんだ。
知ること、考えることから始まり、話すこと、歩くこと、治すこと、買うこと、笑うこと、
寝ること、食べること、まとめること、しまうこと、、
耐えること、譲ること、守ること、愛でること、
読むこと、聴くこと、さらに考えること、そして、また笑うこと。
いつか誰かを助けられるように、自分自身が力をつけて、関わってゆこう。
支援物資は、知っている人とも分けあった。
並んで手に入れた肉や魚も、誰かと分けあった。
水も、断水している地域へ何度も運んだ。
関われる限り、力とアブラの限り。でもってムリは決してしない。
第一に大事なことは家族を守ること。これがイチバンの「復興」だと信じて・・・!
「お役に立ちまっせ~」とぐんぐん動いていた。
なんだか見舞いというよりは、さらに踏み込んで災害ボランティアになりきってます・・・。
やがて彼は仙台駅から再び新潟経由で横浜へ帰っていった。
彼にはどうやってお礼したらいいのか。
多分、支援物資やら旅費などでかなり出費だったはず。(彼とともに支援してくれた人たちもね・・・。)
震災からたった一週間。ライフラインも交通システムもすべてダウンしているこの街に、万難を排し単身乗り込んできた彼の行動は「勇気」といってもいい。震災以後、こういう人のことを「英雄」と呼ぶ(笑)。こーいうカッコよさって自分にはないもんなぁ・・・。
考えてみれば、「勇気」を以って「震災からの復興」を呼びかけている人が震災直後から存在していた。
銭湯で「重油がなくなるまで営業する!」と思い切ったことをしたひとがいる。
震災翌日、石油の供給が完全にとまっている最中に、である。
お店の小麦粉と燃料が尽きるまで菓子を焼き続けていたひとがいる。
食糧事情が全く見通し立たない中で、あえて生産者の責任を果たそうとしたのである。
灯油の在庫をすべて吐き出す覚悟で売り続けていたひとがいる。
抱え込むのではなく、わずかでも希望の糧となるように。多くの人が明日を考えられる心地になれるように。
震災からの1ヶ月は、津波の被災地に「飢えと寒さ」を、そして地震のみの被災地には「恐慌」をもたらした。
インフラが破壊された。流通も封じられた。そして物資が入ってこない。見込みすらなかった。結局お店は「供給の予定は無い」と言ってさっさと閉めてしまう。または窓をいちめん新聞紙で覆った。
このことが僕らの恐怖をかきたてた。
人口の多い地域だから、この恐怖はますます増幅してゆく。
・・・これが「恐慌」なんだ。限定地域かもしれないが、その中に閉じ込められた人にとって、これは「恐慌」と呼んでいい。
僕らは閉じ込められ、置き去りにされた。そう思い込んでしまった。
信号の消えた町をうろつき、あっちの行列、こっちの行列、物がありそうなところを捜してまわり、わずかな品物を求めてまわる。
その瞬間、品物にありつけることが死活問題だった。これを「恐慌」と呼ばずしてなんと呼ぼう?
だけど、「恐慌」に負けない強い気持ちを示して僕らを励ます人がいる。
横浜という遠いところから、直通のアクセスも寸断された状況で、山のような物資を担いで彼はやってきた。
― オイ、忘れるな、ひとりじゃないだろ ―
恐怖し絶望した僕らに「希望すること」を思い出させてくれる人は、やっぱり「英雄」と呼びたい。
友人の支援はその後も続いた。
食料、トレペ、コンタクト用品、娯楽用品にいたるまで、深慮が伺える物資が届くようになった。
高速道路が解禁になってからは直接クルマでお魚やモチを届けてもらった。
この「英雄」は疲れをしらない。
あれから、「復興」という言葉について考えている。
「復興」・・・。3.11の震災の直後から、この言葉はすでに心の奥でかぼそい声を上げていた。
けれどもそれはあまりにも現実味がなさすぎた。被害状況があまりに甚大だったからだ。
けれど、多くの英雄が示していた「復興」は、「日常生活に帰ろう」という願いだったように思う。
日常生活、そうか「日常生活」でいいんだ。
知ること、考えることから始まり、話すこと、歩くこと、治すこと、買うこと、笑うこと、
寝ること、食べること、まとめること、しまうこと、、
耐えること、譲ること、守ること、愛でること、
読むこと、聴くこと、さらに考えること、そして、また笑うこと。
いつか誰かを助けられるように、自分自身が力をつけて、関わってゆこう。
支援物資は、知っている人とも分けあった。
並んで手に入れた肉や魚も、誰かと分けあった。
水も、断水している地域へ何度も運んだ。
関われる限り、力とアブラの限り。でもってムリは決してしない。
第一に大事なことは家族を守ること。これがイチバンの「復興」だと信じて・・・!
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