東北太平洋沿岸で、過去もっとも規模の大きかった津波は、「貞観の大津波」(西暦869年・「三代實録」より)だったと言われている。
このときの津波は、陸奥国の城(多賀城のことか?)にまで到達したという。死者(溺れ死んだことになっている)は1000人余り、と伝わっている。ただしこれは正確に数えたものかどうかは不明。
このことについて、研究者たちは実際に多賀城周辺を発掘。実際に大津波の痕跡を発見しているそうだ。
最大で海岸から5キロメートルの内陸部にまで達する大津波。被害域もさぞかし広範囲であったことだろう。
多賀城周辺では、さらにその下にも大津波の痕跡を示す砂が三層にわたって確認され、おおよそ800~1000年の周期でここを大津波が襲ってきていたことが判っている。(この周期は諸説あり、定かではない)
東日本大震災での津波も、最大で海岸から5キロメートルの内陸部に達したという。
「貞観の大津波」から実に1142年。まさに千年に一度の大津波だった。
犠牲者は東北(太平洋側)のみならず、北は北海道、南は茨城、千葉でも出てしまった。
被害域はもっと広い。なんと沖縄でも津波が観測されている。
仙台でも貞山堀向こうの防風林をはるかに超える高い津波が襲ってくる瞬間の写真がある。
これは地元の河北新報一面のブチ抜き写真だった。
なまじ鮮明な写真だけに、見た瞬間、衝撃だった(撮っていたヒト無事だったのかしら?)。
同じ河北新報のコラムで「浪分神社(なみわけじんじゃ)」について書いているのを見つけた。
過去の津波でここまで波がきた、という。この波がまさに生死の境であった。
神社はその「しるべ」であり、鎮魂の碑であり、教訓そのものでもあるという。
しかし、現在はそこからはるか荒浜に至るまで多くの住宅がならび、しかもその先には、むき出しの海岸だった。
筆者は、「なぜ過去の教訓が生かされなかったのか」と嘆きを隠せない。
津波に関する警告はここ数年、識者から繰り返し発信されていた。自治体も資金の確保さえ進めば、という思いであっただろう。
- 震災があと数年遅ければ -
嘆いても命は戻らない。
ひとつ気になったことがある。「浪分神社」だ。
最近どこかで聞いたか見たか、どういうわけだかその名称に覚えがあった。
はて、どこだったっけ?
さっそく「若林の散歩手帖」(木村孝文・著 宝文堂)をひもとく。
すると、荒浜から七郷、霞の目と続く道沿いにある神社であることが記されていた。
はた、と思い出す。
震災のほんの2ヶ月まえに、ここを通っている。
田子(たご)で用事を済ませ、ドライブ半分ランチ半分のつもりで東進したものの蒲生(がもう)付近で道に迷い、なぜか七郷(しちごう)に出て、浪分神社から横綱・谷風の墓碑前をすぎ、バイパスに戻ってレストランでランチした。
あの神社だ・・・。すこし狭い通りの脇に一坪建てのお社があったっけ。そうだ「浪分神社」って書いてあったっけ。
もしもあのとき震災に遭っていたら・・・。背筋が寒くなる。
閖上(ゆりあげ)の朝市、荒浜の海浜緑地、新港のイベント会場・・・。考えてみれば同じ仙台だもの、海辺にはしょっちゅう出かけていた。そのとき津波がもしもきていたら・・・。恐ろしくて考えられない。
僕たちは、もしかして「命びろい」したのだろうか。
僕たちは、もしかして「誰か」の命をもらって生きているのだろうか。
千年に1回の大津波が僕らの町にやってきた。
このことを、千年伝える方法を見つけなければならない。
このときの津波は、陸奥国の城(多賀城のことか?)にまで到達したという。死者(溺れ死んだことになっている)は1000人余り、と伝わっている。ただしこれは正確に数えたものかどうかは不明。
このことについて、研究者たちは実際に多賀城周辺を発掘。実際に大津波の痕跡を発見しているそうだ。
最大で海岸から5キロメートルの内陸部にまで達する大津波。被害域もさぞかし広範囲であったことだろう。
多賀城周辺では、さらにその下にも大津波の痕跡を示す砂が三層にわたって確認され、おおよそ800~1000年の周期でここを大津波が襲ってきていたことが判っている。(この周期は諸説あり、定かではない)
東日本大震災での津波も、最大で海岸から5キロメートルの内陸部に達したという。
「貞観の大津波」から実に1142年。まさに千年に一度の大津波だった。
犠牲者は東北(太平洋側)のみならず、北は北海道、南は茨城、千葉でも出てしまった。
被害域はもっと広い。なんと沖縄でも津波が観測されている。
仙台でも貞山堀向こうの防風林をはるかに超える高い津波が襲ってくる瞬間の写真がある。
これは地元の河北新報一面のブチ抜き写真だった。
なまじ鮮明な写真だけに、見た瞬間、衝撃だった(撮っていたヒト無事だったのかしら?)。
同じ河北新報のコラムで「浪分神社(なみわけじんじゃ)」について書いているのを見つけた。
過去の津波でここまで波がきた、という。この波がまさに生死の境であった。
神社はその「しるべ」であり、鎮魂の碑であり、教訓そのものでもあるという。
しかし、現在はそこからはるか荒浜に至るまで多くの住宅がならび、しかもその先には、むき出しの海岸だった。
筆者は、「なぜ過去の教訓が生かされなかったのか」と嘆きを隠せない。
津波に関する警告はここ数年、識者から繰り返し発信されていた。自治体も資金の確保さえ進めば、という思いであっただろう。
- 震災があと数年遅ければ -
嘆いても命は戻らない。
ひとつ気になったことがある。「浪分神社」だ。
最近どこかで聞いたか見たか、どういうわけだかその名称に覚えがあった。
はて、どこだったっけ?
さっそく「若林の散歩手帖」(木村孝文・著 宝文堂)をひもとく。
すると、荒浜から七郷、霞の目と続く道沿いにある神社であることが記されていた。
はた、と思い出す。
震災のほんの2ヶ月まえに、ここを通っている。
田子(たご)で用事を済ませ、ドライブ半分ランチ半分のつもりで東進したものの蒲生(がもう)付近で道に迷い、なぜか七郷(しちごう)に出て、浪分神社から横綱・谷風の墓碑前をすぎ、バイパスに戻ってレストランでランチした。
あの神社だ・・・。すこし狭い通りの脇に一坪建てのお社があったっけ。そうだ「浪分神社」って書いてあったっけ。
もしもあのとき震災に遭っていたら・・・。背筋が寒くなる。
閖上(ゆりあげ)の朝市、荒浜の海浜緑地、新港のイベント会場・・・。考えてみれば同じ仙台だもの、海辺にはしょっちゅう出かけていた。そのとき津波がもしもきていたら・・・。恐ろしくて考えられない。
僕たちは、もしかして「命びろい」したのだろうか。
僕たちは、もしかして「誰か」の命をもらって生きているのだろうか。
千年に1回の大津波が僕らの町にやってきた。
このことを、千年伝える方法を見つけなければならない。