放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災~The Life Eater9~

2011年04月04日 01時22分01秒 | 東日本大震災
 震災後、ライフラインが寸断され、物資の補給も断絶する―という事態は、おそらく多くの日本人が想定していただろう。
 この想定は、16年前の「阪神・淡路大震災」のときに教訓として伝えられた。
 以後、識者たちは異口同音に家庭内での備蓄を呼びかけていた。

 -水、食料、懐中電灯、ラジオ、そして電池。
   これらを非常持ち出し袋に詰めて、いつでも持ち出せるようにしておくこと。-
 
 宮城県沖地震の発生が予測されていた昨今は、特にこの呼びかけが繰り返されてきた。
 けれど、今回の地震は、その破壊規模が大きく、妨害要素も依然として大きい。だから、より長期化する恐れがある。

 仙台でも、食料品店の前にえんえんと並ぶ長蛇の列を見かけるようになった。
 東北の3月はまだまだ寒い。放射冷却の朝、さんさんと雪の降る朝、みんなじっと耐えて並んでいる。

 初めの二三日はほとんど何も手に入らなかった。
 お店の人にきくと、「補給の見通しは全然立ちません」とのこと。
 そりゃそうだろう。
 震災直後、交通手段はすべてマヒ。ガソリンすら手に入らない。港も空港も津波で全壊。流通は完全に死んでいた。
 さらに県内の生産者でさえ、漁業、畜産、農作ともに続けるどころの話ではない。保管していたものでさえ停電の影響で保冷していられなくなっていた。

 供給の見通しが立たないから、食料品店でもとりあえず数量を制限をしてなるべくお客さんに行き渡らせるようにする。だから必然的にお客は一列に並ぶことになる。肉も魚も大豆食品も乳製品も貴重な食材だ。震災に遭ってあらためて思い知らされる。
 まるで逃れられることのできない悪夢のようだ。

 ガソリン、軽油、灯油、重油の供給も、同じ悪夢の中にあった。
 まず仙台新港の石油コンビナートが津波で破壊。さらに重油に火がつき、なんと四日間も燃えつづけていた。
 このときの煙は、仙台市西部の通称「仏舎利峠」からもよく見えた。
 このため、ガソリンスタンドでは、小出しにガソリンを販売(一回につき2000円分とか)。その後はぱったりと販売を止めてしまった。

 僕たちは震災により、ここに封じ込められてしまった。とくに宮城県は、その観が強い。
 かろうじて繋がっていたのは山形方面へのルートだけ。こちらも高速道路が封鎖されていたので、下の道で山越えするしかなかった。
 山形県は他の自治体に先駆けて支援を表明してくれた。僕たちは少なからずその表明で救われ、幾分かでも冷静になれた。
 
 この(一時的に)閉鎖された環境の中で、ラジオと新聞はいつも情報を届けてくれる。
 特に地元の河北新報が、この状況でも毎日発行されていたことは驚きである。
 もちろん、明るいニュースは望むべくも無いのだが・・・。
 
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