放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災~The Life Eater33~

2011年07月25日 01時25分13秒 | 東日本大震災
 仙台から国道4号線・6号線を南進し、阿武隈川を渡る。
 そのまま南進すると亘理町に至る。
 
 時期が時期であるならば、通りの脇には「いちご狩り」の「のぼり」がはためき、海産物の案内もさかんにやっていた。
 今年は打って変わって、なんともさびしいかぎり。

 悠里館(JR亘理駅舎)の近くを通り、鳥の海へとつづくにつれて、風景に不思議な「ひずみ」が浮かんでくる。
 
 家々の生け垣がみんな枯れている。竹林もすっかり黄色くなっている。
 家と家とのあいだにガレキが積み上げられている。
 船が道端にひっくり返っている。
 
 そしてその先には、がらんとした荒地が出現した。どこを見ても薄茶色だらけの世界だった。
 こりゃあ、安否確認どころではないな・・・。

 このあたりから角田へ避難してきた人がいる。
 義父が管理している家の半分をその家族へ提供することになっていた。
 それなりに話を聞いてはいたが、想像を絶する被害である。イチゴ農家もほとんどがやられたという。
 亘理のイチゴブランドはダメかもしれない・・・。
 やむなくその日は仙台空港方面へと引き返した。

 後日、ちょっとびっくりするニュースが入ってきた。
 
 北海道の伊達市が亘理町のイチゴ農家を誘致する、というのだ。

 へぇええ。

 そもそも、北海道の伊達市の礎を築いたのは亘理伊達氏の家臣だった。
 戊辰戦争で敗れ、亘理の伊達氏(よーするに仙台伊達氏の分家ですな)は新政府にその知行を没収。北海道の警備・開拓を示唆されたという。
 亘理の領主であった伊達邦成(くにしげ)公をはじめ、家臣団は数回にわけて北海道は有珠山のふもとの荒野を目指した。
 辛酸のはてに拓いたの地がいまの伊達市というわけ。
 その伊達市が故地・亘理の産業復興に名乗りを挙げた。亘理の土地が潮で使えないなら、北の大地で栽培はできまいか?と。
 これもまた「絆」なのかしら・・・。

 温暖な亘理とくらべ、やや日の翳りがある北の噴火湾。それでも亘理イチゴの再生を期する「ゆりかご」となるかどうか。
 挑戦してゆく農家の人々、受け入れる人々、どちらにも開拓魂を見た気がした。  
  
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