放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

怨恨と好き嫌い

2012年09月14日 11時27分25秒 | Weblog
 この辺はちゃんと区別しましょうよ、という話し。


 日本と韓国、中国、台湾、ロシアなどと領土問題が噴出し続けている。
 この問題は離島であるから発生したわけではない。
 資源などのオイシイ話しがあればどこの国も節操をなくすということが問題なのである。

 歴史的資料はいくらでも歪曲できる。
 いわずもがな、歴史的認識、歴史教育も。

 すなわち、「オキナワ」「ホッカイドウ」は日本に不法占拠されている、などという理論すら容易に筋立てができるのである。

 これは民族解放などというリクツを持ち出しても可能なことである。

 しかしその背景には漁場の奪い合い、アホウドリなどの乱獲、地下資源の独占などの目的があり、さらには国や軍の面子までもカブってくる。

 極東は、今も昔も火薬庫なのである。
 怨恨は怨恨を生み、それは誰かの血を求め、それがまた新しい怨恨を生む。

 このところの国内の報道は、(特に)中国、韓国に対し、よくない感情を抱かせるように出来ている。

 いつの間にか隣国を嫌悪し、恨みを感じてしまう。
 自身の中に生まれてきた「嫌い」の感情は、その90%以上がマスコミによって醸成されている。気をつけなければならない。特に、個人の財産、身体、生命が侵されていないうちから「恨み」を持つことだけは避けなければならない。

 人間は弱いから、弱いからこそ攻撃的になる。
 「好戦的」という言葉があるが、何の動機もなく他者を侵すことをためらわない人間はほとんどいないだろう。何らかの不安や、怖さが人に「攻撃」を思い立たせるのである。
 いま自分が心に飼ってしまった「嫌い」の感情は、容易に「攻撃」に孵化できるだろう。これは自分が弱いからである。不安や怖さに弱いからである。

 極東にすむ人々は、この弱さに押し流されない気持ちを作るところから国際感覚を磨かなくてはならないのではないか。
 個人的に、僕は隣国の人々を恨まないように心がけなければならない。
 経済的有利だとか、面子だとか、そういう価値観に自身が踊らされないように戦わなければならない。
 「好き嫌い」と「怨嗟」は別なのである。別にしておかないと、いつまでも仲良くなれない。

 ある反日活動家のコメントを新聞で(またマスコミかよ)読んだことがある。
 「自身は反日分子だが、個人たる日本の人を恨むことは、もう、しないだろう。」

 東日本大震災で被災者が取った人道的な行動、またはガマンする姿を評価しての発言だったようだ。


 
 


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