放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

ほんとうにうけいれてほしかったもの

2014年01月04日 01時13分39秒 | 東日本大震災
新年があけました。

歳末にもいろいろなニュースが飛び込んできて、思わぬ訃報なんかもあったりして、
あと、紅白を「あまちゃん」がジャックして茶の間まで盛り上がっちゃったりして、結構テレビでも東北弁をよくきくな、と感じた一年でしたが、

そういったざわめきが、ひと段落すると、不思議と心にわきあがってくるのは「某ちゃん」のことを書いたというドラマ「ラジオ」(NHK仙台放送局)でした。
これは全国版でやったのかどうかはわかりませんが、観たのは歳末だったもので、こっちは完全に大掃除の手が止まってしまい、そのあとがタイヘンでした。

ドラマは簡単に言うと東日本大震災で被害を受けた宮城県石巻市女川(おながわ)というところにあるFM局「女川さいがいラジオ」と、そこで感じたことをブログに書き続けた高校生Dj「某ちゃん」のお話。

ドラマの進行は淡々としたものでしたが、それゆえにリアルで、ときどき胸をわしづかみにされたような痛さがありました。

あれは災害の多面的なところのほんの一面にすぎない、とは思うのですが、その一面に、明確な答えと希望がなかなか訪れないことに打ちのめされ、「某ちゃん」とともに泣いていました。
考えても、考えても答えの出ない宿題。

被災地とは何なのか。

仙台在住、しかも内陸部に在住する人々は、時々「こっちは天国だね」と言われました。
「東部道路」という堤防を境にして、東はサラ地となり、西は無傷の高層ビルが以前と変わらず並んでいました。
現在も、仙台の東と西は同じ時間が経過したとは思えないほど状況に差があります。

それでも、あのとき、僕らも寒さに震え、食べ物を求めてさまよい、並び、わずかなものを分け合ったのです。
そして救援物資や燃料は僕らの横を通り過ぎ、みんな東へと向かったのです。

僕らは自分に出来ることは何か、ずっと考えてきたはずです。
あの時は、東へ向かう救援物資を見送ることが、精一杯の支援でした。
すこしずつ、できることを、送れるものを探しながら・・・。

いつか被災地への関心は薄れてゆくでしょう。またどこかで被災地が生まれるかもしれないから。
そのとき、近くにいる東北の僕らはかわらず自分にできる何かを探し続けていたいのです。

「せめて生きているモンが明るくしていなきゃ」
「あまちゃん」で「ナツばっぱ」が行っていたセリフです。

今年が、おだやかで、明るい一年でありますように。

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