1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

いよいよ高校野球

2015-03-31 16:43:46 | 高校野球の記録
本年度も今日で終わり。
一年前、息子は病院から退院し、ようやく日常生活ができる程度に回復した頃ではなかったか。
あれから一年、早いものだ。

いよいよ、息子も高校生だ。もちろん野球は続ける予定だ。
進学先は熊本では一応進学校ということになっている濟々黌高等学校だ。
私の母黌であり、手前味噌だが野球部も含め「名門」である。
最近では平成24年の夏と25年の春に甲子園に出場している。

志望校についてブレはなかったかと言えばウソになるが、志望校を強く決定づけたのは、やはり、甲子園出場を果たした大竹投手(現早大野球部)と直接会って話をしたことだろう。中2の晩秋だったと思う。

ただ、その頃の本人の学業成績はどうだったかというと、それほどかんばしいものではなく、相応の努力が必要な状況であった。

そして、中3になった春、彼は全てにおいて自信を無くしていた。
無理もない。野球に復帰できるかもわからない、そんな状況だったからだ。

親として、ここで野球を諦めさせ、受験のために勉強をさせるという選択肢もなくはなかった。
復帰できるかどうかもわからないたかが少年野球のために、リハビリやトレーニングに時間や金を割くことは、バカバカしいことだと見られるムキがあったことも事実だ。

だが、我が家の選択は、結果がどうなろうと、とにかくシーズンが終わるその日まで野球をちゃんと続ける、そして、その後、受験勉強に邁進する、というものだった。
実のところ、親としての本当の心配は、野球を中途半端で終われば、その後の受験も中途半端で終わるかもしれないということだった。

ただ、受験勉強が本腰になったのは晩秋~暮頃だったように思う。
成績も一進一退で、志望校がどうにか射程圏内に入ったのは年明けだった。

息子は近所の私塾に通っていて、同じ志望校で野球をやっていた友人が少なからずおり、彼らと切磋琢磨することは彼の楽しみでもあったようだった。
しかし、願書提出日が近づくと、それまで同じ目標で頑張っていた友人たちの多くが志望校を下げはじめ、結局、中学から濟々黌に願書を提出した男子は息子一人だけになってしまった。

そういう友人の選択に対して息子は何一つ語らなかったが、その無口な様子が彼の心情を雄弁に物語っていた。一緒に頑張る仲間がいなくなったことを心配したが、それは杞憂だった。
例え一人になっても最後の最後まで諦めない。それが一匹オオカミの宿命だった。

合格のお祝い(次女は県立大学に合格)として、家族旅行で週末USJに行ってきた。
そして、甲子園で選抜高校野球ベスト8戦(準々決勝)4試合を観戦した。

いよいよ、息子の高校野球が始まる。
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