ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

榛(はしばみ)の繁みで(三)個人季刊誌『ヒーメロス』21号2012年7月20日発行より

2012年08月19日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品
榛(はしばみ)の繁みで(三)
小林 稔

   六、虚妄


暗闇の、
そこだけ明るんでいて、
とつぜん一匹の犬が横切った庭。
病棟の裏手の木戸を越えて、
(そう、きみの家は町医者だった! )
縁側から入ろうとするぼくを
迎えるように、
廊下をすたすたと走って、
ぼくはきみの放つ言葉に
うなずいて首を動かした。
口が語りかけているのに
きみの声が聞こえない。
ぼくはきみが好きだ、
と心で何度も叫んだ。
必死で叫んだが
きみにとどかないぼくの声。
きみは丸い檜の浴槽に首までつかり、
飛び出すと母がきみの体を
石鹸の泡でいっぱいにする。
ずっとぼくにほほえみかけて、
ぼくをこんな暗闇の庭で待たせておくなんて! 

あれから二十数年の年月
きみは何を見て何をし、
何を欲したのだろうか。
その狭間でぼくは
誰かに魂を奪われ、
誰かに唆され、
誰かを傷つけ、
どこかを彷徨い、
どんな生を夢見た?
洪水が肩まで押し寄せ、
ぼくを倒してしまう寸前かもしれないのに。

陰と陽。動と静。
目じりの切れ上がったきみと
目じりの垂れ下がったぼくと
性格の何もかもが反対のきみを
利かん坊だったきみをぼくは見ているだけ、
あこがれを
そっと財布の底にしまっておけなくて、
きみはぼくの何? 
おとうと、兄、親友だった?
幼年期を通り過ぎて一度も会うことはなかったぼくたち!

昔だったら人生半ばと呼んでいたころ、
きみがバイクを車に突っ込んで
死んだらしい、といううわさが
ある日近所の人からぼくの耳に届いた。

それから三十年が過ぎた。
幼年のきみはぼくの白昼夢にたびたび闖入して、
その敏捷でしなやかな四肢でぼくを悩ませる。
(もう、ぼくの胸の中できみを独り占めだ! )
生殖を怠り、この世に分身を残さなかった
ぼくの記憶の中枢で右往左往するぼくの肉体に、
いくつものぼくが増殖しつづける。

やがてぼくが最期の旅支度を始めるとき
枕辺には、ぼくの記憶に生きながらえたきみと
触れ合ったいくにんかの少年たちがつどい
よろけそうになる、老いさらばえたぼくを支え、
かれらと旅立つのだろうか、ぼくは
この世の虚妄から紐とかれて。



注・『ヒーメロス』21号の発表時とは異なる箇所があります。


copyright 2012 以心社 無断転載禁じます。

すでに発表された連作
「榛(はしばみ)の繁みで」
一、死
二、空
三、闇
四、使者
五、摂理
六、虚妄

ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(つづき)小林稔個人季刊誌『ヒーメロス』19号

2012年08月19日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十一)(中篇)



38 ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(つづき)


司牧者(牧人)の権力の初期キリスト教での進化
 司牧者の権力が紀元後数世紀の間のキリスト教の文献の中でどのように現れてきたかをフーコーは検討している。クリュソストモス、キプリアヌス、アンブロシウス、ヒエロニムス、カシウス、ベネディクトスたちのテキストからフーコーはヘブライ的テーマがキリスト教において変容する四つのレベルを挙げる。
一、責任についての問題。牧人は個々の羊に心を配ることを先で述べたが、キリスト教ではすべての行動についての善と悪について羊たちに心を配るようになる。さらに罪と善行の交換、交流のシステムを設けているとフーコーはいう。最後の審判の日に羊飼いは返答を強いられることになる。あるいは群れが救いの道に至るのに手を貸すことで牧人自身の救いを見出すということになる。群れと牧人の強い精神的なきずなは、生命だけでなく、個人の行為の細部にまでかかわってくることをフーコーは指摘する。
二、従属ないし従順に関する問題。神はすなわち牧人であるというヘブライ的考え方では、従う群れは神の意志と神の法に従っている。キリスト教では、牧人と羊との関係を個別的かつ全体的な依存関係としてとらえているとフーコーはいう。ギリシア思想では従わなければならないのは、法であり、シテの意志であるからである。特定の人の意志に従うことがあるとしても、その人の理性に説得されたからである。キリスト教では、個人的な服従が問題になるのである。牧人の意志は法とは関係ない。カシウスの『共住修道制度』の中に、上司の無意味な命令に従うことによって自らの救いを見出すという話が多くあり、従属は徳と考えられた。対自的に行使される意志から解放してくれるものを、ギリシアのキリスト教ではアパテイアと呼び、個人が理性の力を借り自己の情念に対して行使する影響力のことをギリシアではアパテイアと呼んでいる。
三、牧人と羊たち一頭一頭の間の個的な面識関係。羊の群れの状態だけでなく、羊の一頭一頭についてどんな状態にあるか知っていなければならない。キリスト教において以前の牧人制を増幅したものが現れた、つまり、群れの一人ひとりの物質的欲求を知ること、群れの中で何が起こり各構成員が何をしているかを知っていること、各構成員の魂に中で何が起こっているのかを知り、隠された罪を知り、聖性への道にきちんと進んでいる
かを知ることが羊飼いに求められたとフーコーはいう。さらに、ギリシア世界で使われていた良心の究明と良
心の指導がキリスト教は採用したとフーコーは指摘する。良心の究明は、ピュタゴラス派、ストア派、エピクロス派の間では善と悪の日常的な貸借表を作成する手段として受け入れられていた。それを変質させて採用したのであり、それによって、克己心と自己の情念の統御への道にどのくらい進んだかを測定できるのである。良心の指導は、悲嘆に暮れているときや運命の急転に苦しんでいるときにアドヴァイス与えたのである。それは恒常的になされ、羊は四六時中導かれる状態にあった。指導者に魂の奥底まで開いてみせることが求められていたとフーコーはいう。紀元一世紀の苦行僧や修道僧のテキストに数多くみられ、またそれら技術の存在がすでにギリシア・ローマ文明の中に特異な現象として現れていたことをフーコーは注記している。
四、キリスト教の技術といってよい、良心の究明、告白、指導あるいは従属には、自己の抑制に向けて努力するように導くという目的があったとフーコーはいう。抑制とは死をさすものではなく、現世と自己の放棄のことであり、「一種の日常的な死」、「もうひとつ別の世界での生に道を与えるとされる死のこと」であるとフーコーは説明する。ギリシア思想の献身とは全く相違し、「キリスト教的な抑制とは自己対自己の関係のかたちのことであり、キリスト教にとって不可欠な部分であるとフーコーはいう。このような二つのゲーム、つまりシテとその市民のゲームおよび羊飼いと群れのゲームの両方をヨーロッパの近代国家と呼ぶものの中で巧みに結合させることによって、ヨーロッパ社会は悪魔的な社会になってしまったとフーコーは主張する。ヨーロッパの文明は複雑な知の体系(精神医学、医学、犯罪学、セクソロジーおよび心理学など)と、ソフィストケートされた権力(精神病院や刑務所、個人の統制にかかわるすべての制度の中で行使される権力)の構造を発展させてきたが、狂気、苦痛、死、犯罪、欲望、個別性といった根源的な経験はどのようなかたちで、知や権力と結びついているのかと問い、答えは見つからないが問題の提起を諦めるべきではないとフーコーは主張する。

 祭司、王、預言者
 先に司牧者の権力の特徴を示し、キリスト教によってどのように変容したのかを、フーコーの『全体的なものと個別的なもの』という書物に基づいて考えてみたが、ここで古代イスラエル国家の特殊性について、中山元氏の『賢者と羊飼い』(フーコーとパレーシア)などを参照しながら明確にしてみよう。
 関根正雄氏の論考『イスラエルにおける政治と宗教』によると、ダビデ・ソロモンによる王国形成以前のイスラエルは十二士族の連合としてのアンフェクチオニー(宗教連合)の形をしていたが、そのようなイスラエルに神ヤハウェを王とする思想があったかどうか、また王国拒否の思想が王国成立前にどのような意味で存在したのか、また王国滅亡後にそれらがどのような影響を与えたのかは中心的な問題であるという。
 イスラエル社会の誕生の記憶は、アッシリアと新バビロニアによる捕囚から民を故郷へと導いた後に聖書の「出エジプト記」が書かれていることから、脱エジプトをひとつの「メタファー」と考えるべきかもしれないと中山元氏はいう。神政国家のエジプトからの脱出を伝説化することで、自らのアイデンティティを構築したかもしれないと中山氏は述べる。例えばイスラエルは羊を犠牲にするが、農耕するエジプトでは禁じられていた。初期のイスラエルはポリスを形成し民主政治をするギリシアとも異なり、「支配者」が劣者に対して思いやりを持つ司牧者的な社会であったと中山氏はいう。

 イスラエルの司牧者である統治者は三つに分類することができると中山氏は指摘する。裁判人としての祭司と王と預言者である。モーセの律法では政治的主体は裁判人である。『申命記』にある「レビ人である祭司およびその時、任に就いている裁判人」という記述がある。レビ人とはヤコブ(イスラエル)とレアの子であり、イスラエルの十二部族の一つを形成し、その子にはモーセとアロンがいる。中山氏の説明によると、モーセは預言者であり律法を与える者であり王に相当する地位にあった。モーセの率いる共同体では政治的な指導者と宗教的な指導者の区別はなく、神政的な統治の下にあった。やがて『出エジプト記』に「祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子らすなわち、ナダブ、アビラ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい」とあり、モーセの兄弟アロンを神は祭司とするこ
とでモーセの神政一致的な地位に亀裂を与えたことになると中山氏は指摘する。やがてレビ一族が祭司として
裁判を引き継いでいくことになる。彼らは、神の怒りが自然の災害や政治的な不運をもたらすと考えていたの
で、どのような契約を違反したのかを解明するのが祭司たちであった。つまり、個人の罪に対して共同体の連帯責任が問われるということである。マックス・ウエバーが『古代ユダヤ教』で述べているように、古代イスラエルの連合法が極めて倫理的に方向づけられる理由に、このことがある。連帯責任といっても、祖先への責任と共同体の成員の連帯責任があった。「ヤハウエというひとりの神との間で、神の命令に従うという契約を締結しているために、すべての信徒の〈魂のみとり〉が、政治的に重要な意味をもつ」と中山氏はいう。人々が切望したのは犠牲の奉納ではなく、「ヤハウエの意志と、この意志に反しておこなわれた過誤とを探求することだった」し、それが祭司の務めであったと中山氏はいう。また祭司は神の怒りを静めよ方法を知るため訪れる人々に、罪のカタログを用意して訊問し、「告白と懺悔とあがないを求めた」という。「祭司は共同体のすべての成員の利益のため、個々の信徒の魂に配慮し、律法に違反した者がいないかどうかを監視しつづける。違反した者がいた場合には、共同体全体に被害がおよばないように、その者を罰し、あるいは犠牲を捧げることで贖罪させる」、そのような任務を負った者が第一の司牧舎である祭司なのだと中山氏はいう。
 二番目の政治的主体として王の存在がある。モーセは王のような地位にあったが、預言者として死んだ。死後、自分の子供を指導者の座を継がせられなかったことから明らかであろうと中山氏は指摘する。イスラエルの共同体は規模の小さい国家であったので王は置かれず、士師が統治と戦争を指揮した。しかし内部の対立が激化しぺリシテ人との戦いがつづくとイスラエルも国家形成を進め、王朝を必要とするようになったと中山氏は説く。王の資格は、イスラエルの同胞から選ばれること、銀や金を大量に蓄えないこと、律法のすべての言葉と掟を守り、「この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つこと(『申命記』一七章見二〇)である。しかし王を戴くことは人々が王の奴隷になることであると預言者が伝えていた。ユダヤの民はあくまで王国を望んだと中山氏はいう。サムエルは預言者として信頼を得、のちに祭司として、さらに士師してペリシテ人に勝利した。サムエルが年老いたとき、イスラエルの民は王制を求め始める。王制を望まなかったサムエルであったが、神の命令によってサウルという人物を探し出す。サウルに油を注ぎ王にしたサムエルであったが、自分の言葉に従わないサウルを見限り、ダビデに油を注いだのであった。ダビデは巨人ゴリアトのいるペリシテ軍との戦いで勝利した。サウルは嫉妬からダビデの命を狙うが、サウルの息子であるヨナタンとは友情で結ばれていた。サウルがペリシテ人との戦いで死んだ後、ユダの王になり、sの後、統一イスラエルの王になったのである。ダビデは軍の編成のため人口調査をしたが、「聖なる戦いにあっては勝敗を決めるのは神だから」、「聖戦の義に反する」ので、神はダビデを罰するためにイスラエルの民に疫病を下した。「ご覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしに父の家に下りますように」(『サムエル記 下』二四章一七)。王は神から羊たちを預けられた司牧者であり、自分自身を羊たちの幸福のためには犠牲にする覚悟を求めらてていたと中山氏は指摘する。
 第三の政治的主体は預言者である。神の言葉を聞き取る人であり、アッシリアによる前八世紀の捕囚のとき、ホセア、アモス、イザヤが、バビロニアによる前六世紀の捕囚のとき、ゼファニア、ハバクク、エレミア、エゼキエルが現れる。つまり、歴史の大きな「切れ目」のとき、預言者が神の言葉で民に警告を与えるのだと中山氏はいう。王の命令は律法に反するときもあり、民はそれにいつも従うとは限らずなかったが、預言者の命令には、神の絶対的な服従を命じるものであるから、預言者は王より高い地位に置かれるときがある。民が預言者の言葉に従うとは限らず、神が民の心をかたくなにし、預言者の言葉を聞かないようにすることもある、そのことを理由に民に罰を与えつづけることもあると中山氏は指摘する。何より特徴的なことは、神と直接に交流することができるが、その反面、自分の命を差し出してでも民の命を救おうとすることもある。
 預言者はどのようにして預言者になるのか。『エレミア書』では、神が特定の人を預言者として選び、拒むことができない様子が描かれている。主に命じられたことを語ると人々は預言者を恨み、迫害しようとすることがある。「預言は生命を賭した行為」であり、アテナイの民会で自己への配慮を怠っていることを非難するソラ
テスと、罪を告発するエレミアは命を危険にさらしてまで真理を主張することにおいて、二人ともパレーシア
ステースとして、民の改心を目指す姿は似ていると中山氏はいう。両者ともに、人々は耳を傾けようとしない。バビロニアの軍隊にエルサレムを包囲された住民に降伏を勧告する。ソクラテスに死刑を勧告する。中山氏はギリシアのパレーシアとヘブライの預言では大きな違いがあるという。ソクラテスは沈黙を選ぶことができるときにも道徳的な促しから真理を語ろうとする。裁判において真理を語るように強制された者はパレーシアステースと呼ばれないように、預言者は神から口に言葉を入れられ、強制のもとで真理を語るのであるから、エレミアはパレーシアステースとみなすことはできないと中山氏は主張する。
 改心することは、「預言者の資格を決定する」大きな目印となるというマックス・ウエーバーの指摘を、中山氏は引用する。また、ウエーバーによると、預言者は自分が救世主であるとか、模範的な宗教的達人であるというようなことは語らず、すべての人に課せられた倫理的要求と少しも変わることがないという。エレミアにとって、「予言されたことを実現させるのは、断じて予言者のじぶんの意志ではないのであって、むしろ肉声によって予言者に伝達されたヤハウエの決断、つまりヤハウエの「言葉」なのである」とウエーバーは述べる。古代キリスト教団とは異なり、預言者は自分を神の命令の道具や奴隷にすぎないと思っている。政治的民族共同体にいて、その運命こそが関心事であり、祭儀的ではなく倫理的に関心を持っていたとウエーバーは指摘する。むしろ古代末期密儀集団の影響が古代キリスト教にはあったのであろうと彼は指摘する。

 ユダヤ教の成立
 アッシリア帝国が勢力を拡大し、北イスラエルは前七七二年ごろ、首都サマリアが陥落し滅亡する。隣りの南ユダ王国は脅威を感じ、預言者イザヤの反対を押し切ってエジプトに支援を求めアッシリアに応戦するが、アッシリアのセンナケリブ王は大軍をパレスチナに派遣し首都エルサレムを包囲する。このとき預言者イザヤはエルサレムを守り救うという神の言葉を告知したが、預言が実現、神の御使いが現れ、十八万のアッシリア軍を撃ち、エルサレムは解放された。また「暴虐無法」なアッシリア軍には神の審判が下ると預言し、前六一二年ごろ、アッシリア帝国は新バビロニアによって滅亡したのであったが、まもなく南ユダ王国に新バビロニアによる滅亡の危機が訪れる。この時期に預言者エレミアが活躍することになる。前五九七年、新バビロニア帝国のネブカドネツァル王がエルサレムを占領し、第一回のバビロニア捕囚が始まる。南王国ユダの支配者や知識人、上流階級の人々だけであったと中山氏は述べる。『列王記 下』二五章一二に記述されているように、貧しい民の一部はブドウ畑と耕地に残されたのであった。前五八七年にエルサレムが陥落し、第二回バビロニア捕囚があり、前五八〇年ごろ第三回のバビロニア捕囚がある。アッシリア捕囚のときはさまざまな場所に離散させられたが、バビロン捕囚のときはバビロンにまとめて居留させられたのである。バビロニアはかつてのユダ王国をそのままにして入植させなかったので、捕囚者たちは故国を思い帰還できる日を待ち望んだ。捕囚印同士の絆はヤハウエの教えである。異国での生活の中で、自らのアイデンティティを明確にすることが求められた。割礼の慣習や安息日などの儀礼が「契約のしるし」として尊重されたのである。国を失った民は、宗教によって同一性を保ち続けたのである。前五三八年、新バビロニア帝国はペルシャ帝国に滅ぼされ、キュロス王によって捕囚民はエルサレムへの帰還を許されたのであった。ペルシャ帝国はそれぞれの民族が持つ宗教を重んじていたことによる。三度にわたるバビロニア捕囚によって古代イスラエルの宗教はユダヤ教へと確立していくのである。第一回バビロニア捕囚民の中にいたエゼキエルは、バビロンのケベル川の辺で召命を受け預言者になった人である。その生涯の大部分をバビロンで過ごし、故国の運命を憂えたのであった。先述したようにバビロニアはユダ王国に他の民の入植をしなかったので、望みをもつ捕囚民に対してユダとエルサレムの滅亡を告げていた。しかし、絶望に打ちひしがれた捕囚民を救済すべくイスラエルの復活を語る。
 前五三八年から捕囚民たちがつぎつぎに帰還し、前五一五年にようやくエルサレムが再建されたが、前四四五年ごろネヘミアが、前三九八年ごろエズラが、エルサレムに帰還し改革に着手して始めて宗教的かつ社会的な秩序が構築されるに至ったのであった。つまり、エルサレム神殿とユダヤの古い律法を軸にしてユダヤ教を確立していったのである。中山氏によると、ネヘミアは「異民族と混血の住民の排除」をし「イスラエルの純
潔を確保」し、さまざまな宗教的な改革をした。エズラはモーセの律法の書を会衆の面前で朗読したり、異民
族との結婚が「ユダの民が犯した最大の悪事である」とし、彼もまた「イスラエルの純血を高めるための作業を遂行した」と中山氏は指摘する。このように「純血のユダの人々の間で、閉じられた教団宗教としてユダヤ教が形成されて」いったのである。ペルシャの支配下においてアイデンティティの根拠となったのは、「安息日、割礼、食物規定を中心とする律法の体系は、その後さまざまな異民族によって支配されながら、どこにおいて
も、ユダヤ人がユダヤ人であり続けるための基盤となった」と『聖書時代史旧約篇』で述べる山我哲雄氏の言葉を引用している。二度にわたる捕囚によってユダヤ人として集結したのであったが、他の民族から孤立する「不気味な存在」(ラート『旧約聖書神学Ⅰ』)の国家を形成したのである。

 旧約聖書の記述は捕囚修了後に書かれたと一般的には信じられている。ユダヤ民族としてのアイデンティティを歴史の形態で書き、それらを思い起こすことで未来の時間を、民族の進むべき道を過たずに見つめたのである。それにしても、聖書のエクリチュールは、特に預言者の記述はこれまで論じてきた古代ギリシアのエクリチュール、例えばプラトンのそれとは何という違いであろう。哲学と宗教の違いとして見過ごすわけにはいかない。文学表現として『エレミア書』や『エゼキエル書』などを読むとき、想像力に富む言語力に圧倒されてしまうのである。このようなエクリチュールをなしえたユダヤ性とはどのようなものなのか。
 マックス・ウエーバーは『古代ユダヤ教』の「第一章イスラエル誓約共同体とヤハウェのまえがき」において、ユダヤ人の独自性は、社会学的に見ればパーリア民族()であることに由来するという。とは社会的環境世界から遮断されている客人民族のことであり、「環境世界に対するユダヤ人の態度の本質的諸特徴……(略)……自由意志によるユダヤ人居住区の存在や対内・対外道徳という二重道徳のつかいわけはすべてこの存在から由来すると見られる」と主張する。意識と旧約に見られる選民意識とは表裏一体のものではないかと私は思う。ウエーバーは、第二章で「ユダヤ的パーリア民族の成立」という表題でになった歴史を捕囚前と捕囚後に分け論じている。メソポタミアやエジプトのような巨大な国家が拡張政策を開始すればイスラエルは不安に駆られる。シリアやアッシリアが行った冷酷無情な戦争は、預言の神託の中に政治的な地平線を陰鬱に色取っていく。古代のすべての王は政治的決断を神託によって決定するが、宮廷内の問題であり、民衆に向かって語るものではなかったが、都市国家エルサレムにおいては事情は異なるとウエーバーはいう。預言の多くは国家や民族の運命を相手とし、時には王と敵対することもある。
 ウエーバーは預言者(翻訳では予言者と表示されている)の神託は無報酬であったことを指摘する。それゆえ完全な精神的独立を勝ち得たのであり、「預言者がその時として戦慄すべき神託を聴衆に投げつけるのは、主として誰の依頼も受けずに内面から押し動かれておこなう、ひとの依頼に応じてなされるのはまれなのである」。また、ウエーバーはホセア、イザヤ、エレミア、エゼキエルなど大部分の捕囚前の預言者は、エクスタシスにおちいる者であり、私的生活行状からして彼らは奇人である、禍が切迫しているという理由でヤハウエの命令で独身を通したエレミヤ、ヤハウエの命令で娼婦と結婚したホセア、ヤハウエの命令で女子預言者と交わったイザヤが解読できると指摘する。

ユダヤ教における分派の出現
 マケドニアがフィリッポス二世のもとで軍事的統一国家を形成し、アレクサンドロス三世に引き継がれると、世界帝国の建設に着手していった。前三三三年ごろ、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロスの死後、エジプトにプトレマイオス一世は新しくマケドニア人王朝を開きプトレマイオス朝を統治する。パレスチナはその支配下に入るが、シリアを支配するセレウコス朝との対立に巻き込まれていく。このような中でパレスチナはヘレニズムが浸透していくのであった。やがてユダヤはローマのポンペイウスによって征服され、ヘロデ王がエルサレムを占領しユダヤの王となる。このことでユダヤは完全にヘレニズム的な君主国家の支配下に置かれる。中山氏によると、ユダヤ教の内部でトーラー(律法)をめぐって諸派に分裂し競う合うようになったという。国家を経済的に支え、ヘレニズムを受け入れようとした貴族的な上流階級をサドカイ派と呼ばれる教義を
信じていた。トーラーは神によって選ばれた聖所で祭司を定期的におこなうことを主張した。ファリサイ(パリサイ)派は中産階級に支持があり、ユダのヘレニズム化に抵抗していた。霊魂が不滅であると信じていて、彼岸での善行の報いをうけることができるという考えは「キリスト教の復活の思想と響きあうところがあると中山氏は指摘する。サドカイ派は神はユダヤのものだけではないと考えていたという。「すべての人類の神としての神」を認め、「個人の魂が生き残り、あの世で応報をうけることを信じた」というイジドー・エプスタイン
の『ユダヤ思想の発展と系譜』を中山氏は引用している。エッセネ派は律法を完全に守ることを重視し、穢れた人々から遮断されて荒野で暮らす流派であると中山氏はいう。フィロンの『観想的生活・自由論』によると、エッセネ派は成人男性だけの未婚者の集団で、女性は男性の心の統一を乱すものとして敬遠する。魂を神と結びつけ瞑想して暮らすテラペウタイという集団もあったという。彼らはギリシア的なものにある純粋性を求めるようになったと中山氏はいう。ギリシアのオルフォイス教団のような霊魂観を持っていたらしいというから、ヘレニズム化の影響が認められるということであろう。その他にはゼーロータイという流派があった。神はヤハウエだけであり、ヘレニズム化に反対を唱える流派である。「アウグストゥスが元首に即位した前二七年、ヘロデはフェニキアに港湾都市を建造したが、その中央の小高い丘にはカイサルの神殿が建っていて、その中にローマの像やカイサルの像が遠望できたという。ユダヤ人には皇帝崇拝は忌まわしいものであり、拒否を通すことで自らの神学的根拠を付与したのだが、しかしゼーロータイは終末論をユダヤの政治的空間に持ち込みユダヤ国家の滅亡をもたらしたと中山氏は説明する。このユダヤ戦争にエッセネ派も加わり、結局姿を消していったのである。残ったのはファリサイ派の一派で、後のユダヤ教のラビの伝統の端緒となったと中山氏はいう。

 

コンコルド広場、小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊より

2012年08月17日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』
小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊より

コンコルド広場
小林稔


セーヌの岸に沿って歩いて行くと、グランパレ、プチパレの円蓋が見え、さらに先にエッフェル塔の遠景がある。

                    私たちが引き寄せられるように向かうのはコンコルド広場だ。マリーアン

トワネットが処刑された地点にオベリスクが立っている。荒れ狂う海原に屹立し渡った、アレク

サンドリアから航海した記憶を夕陽の射したその切尖に留めて。

      この街の地下墓地の十字路には夥しい数の死者が葬られて、その間隙に、ミシェランの性能の良いタイヤ

が地下鉄の線路を、猛スピードで回転し続けている。

   
           突如、ショパンの楽曲が、今はマーラーの『シンフォニー四番』ではなくベートーベンの『皇

帝』でもない、私たちの脳裡を疾走したのはショパンの『バラード一番 』。

      青春の矜持は咲き乱れる紅い薔薇、終息することのない夢は海に注ぎ込む銀色の大河のように。

                    めくるめく音階を滑り降りて駆け上がり、息をついて再び駆け上がる高み

で、意を決して一段一段と降り、加速させ転がり落ちて行く。この街と私たちが別れる時は近づいている。

           
                生涯に再びこの地に立つことがあるだろうか。


 離れる私たちの後ろでオベリスクは一瞬、傾いたように見えた。

夏の微風に包まれ、夕暮れの空に聳え立つ金字塔、オベリスクよ、かつて無名の詩人がこの街で、ある時は哀しみに心

を裂き、ある時は夢に燃えた青春のあったことを永遠に記憶せよ。

                               私たちの視線の先、シャンゼリゼ通りの真ん中に

凱旋門が悠然と立つ。街灯が光を放ち、闇をいっそう深くしていた。



copyright 2003 以心社
無断転載禁じます。

パリとの再会、小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』(旧天使舎)以心社刊より

2012年08月16日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社


パリとの再会
小林稔

 


スコットランドの旅から戻り再びロンドンに着いた時、この都会に親

しみがいっそう強く感じられ、このまま滞在したら好きになるだろうと

思った。四月はもうすぐ終わる。一ヶ月のイギリスの旅に終止符を打ち、

パリに戻らなければならない。コート・ダジュールに沿ってイタリアに

抜ける目論見であった。先の旅を思うと心が逸るばかりで、惜しみなが

らもロンドンを去った。ドーバー海峡を渡り列車でパリに向かった。

地下鉄に乗り換え、サン・ミシェル駅から地上に出た。樹木は青々と

した葉を風にそよがせ、通りのカフェでは観光客が色とりどりの服装で、

にぎやかに会話をしている。私の知っているパリではなかった。夏を思

わせるほどの暑い一日であった。冬を越したこの街は、私にとって旅の

寄留地に過ぎなかったのだろうか。それにしてもパリは私に消えること

のない刻印を押してしまったに違いないのだ。ヨーロッパのさまざまな

土地で感じ入ったことが、この街に集約されていた。エジプト、イラン、

モロッコのような異文化でさえ取り込まれてしまっている。屋根裏部屋

を引き払ってしまった今となれば、私も一人の旅行者に過ぎない。カル

チェラタンにある安宿にいく日か居を定めたが、パリは春とともに若返

って、私を再び拒んでいるように感じられた。六ヶ月前の、初対面のパ

リは老いて私の若さを拒んでいた。今は逆にパリの若さと華やかさに拒

まれているのであった。


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ガザーリーとアヴェロイスの論争、連載エセー⑨井筒俊彦『意識と本質』解読。

2012年08月13日 | 井筒俊彦研究

連載エセー⑨井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。
連載/第九回
小林稔


ガザーリーとアヴェロイスの論争。
ギリシアの哲学的思考と一神教の神がどのように共存できるか。



P99-P105
意識の垂直的方向からの考察と水平的方向からの考察。

 意識に表層・深層という二重構造を措定して、前回見た宋儒の「脱然貫通」や禅の説くメタ意識としての無-意識を考えるとなると、意識という語の意味領域を拡大し、意識でなくなってしまうところまで押し進めなければならないが、しかし意識の意味領域から排除せず、それを含めて意識(、、)を総合的(、、、)に構造化(、、、)しなおすことによってはじめて新しい東洋哲学の意識論が基礎づけられると井筒氏はいう。もちろんこれは意識の垂直的方向からの考察のことである。例えば、禅の説く「無心」。それは消極的な否定論ではなく、むしろ「有心」の極限であるという。意識と存在の究極的原点。『意識と本質』を読み進めるにつれて禅の考察が深められていく気配を感じ、期待するところが大きい。
 また、井筒氏は意識の水平方向からの考察として文化意識の問題を取り上げる。文化共同体が根源的には一つの共通言語に支えられた言語共同体であるという。つまり文化テクスト間の相違によって、人間意識もさまざまな類型学的差異を示し、さらにいかなる角度から、どの単位に認識証明を与えるかが文化ごとに相違すると井筒氏は説明する。例えば、イスラーム「原子論」論争を「本質」論の観点から述べてみたいと井筒氏はいう。
 イスラーム的意識の顕著な特徴は「神中心的な意識である」。「コーラン」に描かれたアラーは万物の創造主、天地の主宰者であり、それを否定するイスラーム哲学はないと井筒氏はいう。もし、前回に説いた宋儒の「理」体系をセム的一神教の文化構造に持ち込むとたいへんな危険思想になりかねないと井筒氏はいう。実際、「理」体系に対応するアリストテレスの「本質」体系の思想がイスラームに流入してきたとき、「原子論」論争が起きたのである。つまり多神教の文化に育まれたギリシアの哲学がイスラーム哲学の形成に与えた問題である。文化間の衝突といえよう。


P106~116
ガザーリーの偶然性の哲学とアヴェロイスの因果律の実在性

 イスラームの「原子論」が、かの古代ギリシアの「原子論」とどのような相違があるのかは資料を読み込まないと今の私には理解できないが、井筒氏によれば、普遍的「本質」の実在性を認めるか否かという立場の対立に帰着するという。つまりイスラーム的意識がギリシア哲学の「本質」概念とどのように抵触するかということである。宋儒の「理」体系は事物の一つ一つに普遍的「本質」という存在根拠があるということとギリシア哲学とは受け入れられものであろう。この点においてイスラームには問題になったと井筒氏は指摘する。イスラームの思想家がギリシア哲学を取り入れたのはアリストテレスの哲学を通じてであった。その第一のものは因果的思考方法であるが、因果律で統一された存在秩序としてのコスモスが、一度イスラームの意識に持ち込まれたとき、宗教的世界像に大きな問題を投げるのだ。すなわち因果律的存在観は、天地の創造主、主宰者である全能の神の否定につながるものだからである。因果律の世界は永遠不変の偶然性を否定する動きのとれない世界とイスラームの原子論者は考え、神の介入を許さない世界と映ったのである。イスラームの原子論者は偶然主義の立場を取り、「全存在界は、互いに鋭い断絶によって分離された無数の個体の一大集積として表象される」と井筒氏は説く。無限定な世界だからこそ神が奇跡を起こすことができる。もちろん原子論者と呼ばれる以上、経験界の一切の事物を、それ以上分割できない不可視の微粒子にまで分解する。しかし、それらの複合体として現象するすべての経験的事物の間に、空間的・時間的な隣接ということ以外に連結を認めないという井筒氏の指摘を考えれば、ギリシア哲学の原子論者たちとは自ずと異なる。
 「原子」とはそれ以上分割できない「実体」を意味し、その「無特質性」とは不変の性質や属性をもたないということであり、それらによって構成されると考える経験的事物もまた無記的であり不変の性質や属性をもたないとイスラームの原子論者は考えたのだという。一切存在者の無作用性、無力性という思想を展開し、その上での経験界の因果律の無効を主張したと井筒氏はいう。つまり「本質」否定に直結することは明らかである。井筒氏はそれに繋がる西暦十二世紀のガザーリー(原子論を哲学的に大成した人)とアヴェロイス対決について説明している。

 まずガザーリの考えを井筒氏の記述から理解してみよう。
 この世に存在するすべてのものは何ら働きをもたない。事物固有の働きを認めない。しかし実際は「火に触れれば紙が燃える」のはどうしてか。それは「自然の慣習」であり、「偶然の出来事」であると彼は考える。なぜそういう慣習はあるのか、「神の恣意」、「かくあれ!」で決められるのだという。神から独立した因果律というものはない。因果律はなく慣習に過ぎない。それを破るのが奇跡であると彼は考える。
 存在界は偶然性の世界である。人間から見ればそう見えるだけであり、偶然に支配されたように見えるこの世界が存続可能であるのは、「神の瞬間的創造」のおかげなのだという。「神の瞬間的創造が間断なく連鎖するので存在は存続しているように見える」のだとガザーリは考えていたと井筒氏は説明する。ガザーリの因果律否定は「本質」否定ではなかったが、アヴェロイスは「本質」否定の何ものでもないと批判したのである。
 アヴェロイスとはどんな人なのか。井筒氏によれば、アヴェロイスは、ガザーリの因果律否定は「本質」否定と直結し、それは「理性的動物」と定義される人間の間化にほかならないという主張であり、人間とは、本来己の理性(ロゴス)を自由に行使して事物の理(ロゴス)を把握する」存在であるという主張である。アヴェロイスは気性の激しい人であったと井筒氏は著書『超越のことば』でいう。両者ともにアリストテレスの考えを継承しているのだが、アリストテレスの哲学を歪曲し批判するガザーリーの態度が気に入らなかったし、「一者からいかにして多者が出てくるか」、そしてその絶対一者がいかにして「世界を創造するか」というイスラーム思想の核に当たる箇所を、ネオ・プラトニズムの「流出」論に求める哲学的解釈にアヴェロイスは批判的であったと井筒氏は指摘する。
「そもそもどのような具体的事情で、イスラームの中に突然「哲学」が生起し、興隆し、やがてトマス・アクイナスをはじめ中世期の西洋哲学者たちを驚嘆させるほどにまで合点したのだろうか」と井筒氏は問題提示をし、ガザーリーとアヴェロイスの前の世代のアヴィセンナという人物を考えなければこの論争の実像は見えてこないという。詳しくは『超越のことば』を参照されたい。アヴィセンナを考えるには、イスラームと哲学の本来的な関わりを把握しなければならないのである。イスラームにとって哲学はまったく異質な世界であった。ギリシアの「地中海的人間の思惟感覚」の「ギリシア的ロゴスの哲学」と、「人格的一神教の宗教思想」とは相容れないものであった。八世紀半ばのイスラーム世界の統一というアッパース朝の興隆に応じて、ギリシアに対する関心が高まったといわれている。そこで「アリストテレスを中心とする古典ギリシアの哲学書が次々にアラビア語訳されていった。イスラーム文化のギリシア化のこの傾向は、第七代の教皇アマムーンに至って絶頂に達する」と井筒氏は『超越のことば』で記述する。さらに続けて、「八三〇年、アマムーンはバグダード(アッパースの首都)にギリシア学術研究センター「智の家」を創設する。ここではギリシア哲学・科学の基礎的研究が、主として原典翻訳という形で強力に推進されたという。これは中国においてなされた仏典漢訳状況に匹敵するほどの「驚嘆すべき組織性をもって行なわれた」という。このようにして「イスラーム的宗教性のコンテクストの内部で」「ギリシア的思惟を独創的なイスラーム的哲学に変貌させていった」と井筒氏は解釈する。このようなイスラーム哲学創出の動向は十世紀のファーラービーという哲学者の出現で顕著になる。井筒氏によれば、彼の哲学は「アリストテレスの論理学と形而上学を基礎に据え、プラトンの思想をそれに協調するような形で解釈しながら、両者の合一点に己の立場を定め、さらにそれをイスラームの伝統的宗教思想に合致するような方向に展開させた」のである。それを完成に導いたのがアヴィセンナであると井筒氏はいう。
 井筒氏の『イスラーム哲学』によると、アヴィセンナはイスラームのスコラ哲学を初めて体系化した人である。彼の父親は教育に熱心に人物で、息子の優れた天分を見つけると、算術、代数、幾何学を幼い時期に習得し、彼の家にイスマーイール派の思想家が出入りしていたので、そこから多くの影響を受けた。ファーラービーの著書を通じてギリシア哲学を学び、後にアリストテレスの『形而上学』を何度も読み、それでも理解したという気になれなかったが、アヴィセンナはファーラービーの『アリストテレス形而上学の基本概念』を読んで完全に理解した。彼の後半生は波乱続きのもであった。政治的勢力に巻き込まれ、牢獄、監禁、陰謀などに満ちた生活であったという。しかしこの動乱の時期以後に彼の哲学は大成した。伝記的な事柄は井筒氏の書物に任せ、ここでは彼の思想がいかなるものであったのかを考えてみよう。もちろんそれも井筒氏に頼らざるを得ないのであるが。『超越のことば』で井筒氏は、アリストテレス哲学にネオ・プラトニズム的思惟が全面的に混入していることが第一の問題であるという。つまり「一者」から経験的存在世界の階層的発出を説く典型的なネオ・プラトニズム的『流出』哲学であったし、むしろイスラーム的宗教思想の哲学的再構築を積極的に可能ならならしめるものとして受け取られるようになったと井筒氏はいう。ガザーリーにとっては「流出」論的世界像は、神の絶対自由意志による世界創造と全面的に対立するものであり、アヴェロイスにとってはアヴィセンナの考えはアリストテレスの歪曲として映ったのである。両者ともアヴィセンナを批判した。
 アリストテレスは全存在世界には時間的な始まりがないと考える。これはイスラームの世界創造説を否定することになる。『コーラン』ではある特定の時の一点において、世界が存在し始めると考える。「ある特定の一点」を考えることは、それ以前の時間が、「何一つない空虚な時間」があることになる。しかし「アリストテレスのいうように時間は運動の尺度で、動くもののまったくない、つまり、神学が想定するような世界の存在以前の状態にあっては、時間は存在しえないはずである」。だから「世界の創造以前の時間があるとするなら、それは時間以前の時間ということになろう」。哲学者からすれば、神と世界の間に時間観念を導入なしに原因論的、つまり因果関係的前後関係でなければならないと井筒氏はいう。アリストテレスの形而上学的体系では、神は万物の第一動力因として定位され、自らは動くことなく、他の一切の存在者を衝き動かす究極の原因であり、アヴィセンナは神を、このアリストテレス的第一動力因を存在現出の絶対原因、あるいは第一原因として捉えなおしたと井筒氏は解釈する。またこのように捉えた神は時間とは無関係であると井筒氏はいう。しかしイスラームの立場からすれば困難な結論を導く。まぜなら、神がある、それと同時に世界はある。少しのずれもないはずである。神が永遠的存在者であれば世界も永遠的存在者である。では「創造」はどのように捉えるべきか。無時間的事態でしかありえない。神の存在そのものが、絶対的必然性の結果として世界を存在させる。このように哲学者は神の天地創造を、無時間化し変質して、「創造」の事実を正当化しようとする。
 ガザーリーは「創造」の形象に固執する限り、時間概念の導入は不可避的であると考えた。「神は有った、しかし世界はまだなかった」という創造以前の状態を述べる命題には、Aの有とBの無、のほかにCという時間の第三の要素が不可避である。第三の要素がなければ「存在した」は「存在するだろう」と違わないことになる。ガザーリーのこの所論にアヴェロイスは賛成する。しかし、Aを世界、Bを世界と考えるところにヴァザーリーの考えに間違いがあるとアヴェロイスはいう。神は元来、無時間的存在であり、時間の中にはないからである。「神は世界なしに存在した」や「神は世界とともに存在した」という場合に無時間的に解さなければならないとアヴェロイスはいう。しかしガザーリーは、時間とはまったく純粋に主観的な形式に過ぎないと考え、存在の客観的事態とは無関係である考えると井筒氏はいう。それに対してアヴェロイスは、「時間的先行・後行を、神と世界との間の関係に適用することはできない」と彼の書物で述べている。つまり、時間はジュン主観的な直観の形式ではなく、客観的に存在論的な基礎を持つ、リアルなものだという立場を取ると井筒氏は説く。「創造以前の時間」も客観的実在性を持つ以上、神学者がいうような意味での「創造」を理解することができない。したがって無時間的事態としての「創造」以外に「創造」なるものをアヴェロイスは認めることができないのだと井筒氏はいう。
一般に、一神教では「無からの創造」は、何も無いところから存在世界が創り出される、つまり「創造」以前には何も無く、神の「あれ!」の一声で世界が出現する。有の出現の素材となるべきものの絶対的不在を意味するが、アリストテレス系のイスラーム哲学は徹底的に否定すると井筒氏はいう。アリストテレスの考えでは、何かが生成するのは、必ず何かから生成すると考える。絶対的無からは生成しないとするが、「創造」が行なわれるには先行する何かが無ければ起こりえないのである。そこで哲学者は相対的な無を考え、「質料」と呼んでいる。この「質料」(素材)をアヴェロイスは「相対的無の状態における有」、すなわち「潜勢態における存在」(存在可能性)と規定する。したがって「創造」とは潜勢態における有を、現勢態における有に移行されることであり、それを生成と呼ぶ。「質料」を現勢的有に転換させるものが「形相」であると井筒氏はアヴェロイスの考えを要約する。
このように「無を相対的有と考え、創造を可能的存在者(質料)の現実的存在者への転換と考える」アヴェロイスの考えは、『コーラン』的存在生成観と本質的に相容れないものであったと井筒氏は指摘する。
 アヴェロイスの思想は、中世ユダヤ最高の哲学者マイモニデスのラテン語訳と通じて十二世紀、西欧カトリック思想界に持ち込まれ、大きな波紋を起こしたと井筒氏はいう。その影響は大きく、カトリック教会は一二七七年、アヴェロイスに対して異端宣告をした。事物がそれぞれ「本質」をもち、内在的ロゴスの指示のままに作用するのであれば、歴史的展開のプロセスに神の自由意志の介入する余地が無くなるということでイスラームの原理主義者たちから危険視されたのだと井筒氏は解説する。
 哲学が一神教の神学に融合するときに生じる問題を論じてきたのであるが、神学が信仰としての宗教を締め出し、科学的思考を促進してきたといえるのではないかと私は思う。
ともあれ、井筒氏がここで述べたかったのは、「本質」の有無が文化的な枠組み次第で、重大な問題を引き起こすということであろう。また文化的パラダイムにおける意識のあり方によって「本質」の問題性がさまざまにかわると井筒氏はいう。「意識はいろいろ違った仕方で意識でありうる」というメルロ・ポンティの言葉を、この章の冒頭にもってきた意味が理解されるのである。

(第十回につづく)

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