ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

異国に死す、小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社より

2012年08月21日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社より
異国に死す 
小林稔



 引き潮で姿を見せた一本の道が海に伸びて、空を突き刺すように尖塔

が聳える教会のある、モン・サン・ミシェル島を繋ぎ、車を降りた人た

ちが歩いている。浜辺のぬかるみに足を取られながら、大声ではしゃい

で沖に歩いて行く高校生の集団があった。私たちもそうしたい誘惑に駆

られたが、事後の処理を考えればこの道を歩くしかない。入口から土産

屋と、シードルを飲ませ、クレープを食べさせる店が並んでいる。要す

るにここは観光地なのだ。潮が満ちれば俗世間から隔てられ、厳しい修

道生活をしたのは昔のこと。今は脳裡に一つのロマネスクを思い描くし

かないのだ。重く垂れた雲と、歳月にさらされたであろうが、それでも

昔を偲ばせる教会の外観を見て。それが観光の唯一の恩恵である。

 
 なんの知識もなく立ち寄った、サン・マロの海水浴場。カルカソンヌ

の城塞都市。マリアのお告げを受けた少女がいたという伝説のルルドを

めぐり歩いたが感慨がなかった。感動というものは訪れる者との交感な

のだから、不発に終わることだってある。エクス・アン・プロバンスは

セザンヌで知られた街である。ここまで来ると日差しが明るいことは一

目瞭然。アルルまであと少しだ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが日本

を感じた街だ。狂うように光を求めた彼の情熱とは一体なんだったのだ

ろう。オランダは北の国なのだ。レンブラントの描く闇と、ヒエロニム

ス・ボッシュの寓意を生んだ土壌に命を授けられたヴィンセントが、フ

ランスという異国に身を浸し、そこで死んだ。彼の希求した光は、内面

の闇が欲したものではないか。激しく夢を見、激しく絶望した三十七年

の生涯を思った。アルルに着いたら、彼の足跡を追うのは止めよう。あ

の光と空気に触れることでいい。知識を確認してなんになろうか。


 スペインの田舎町を思わせるような静かな街である。ローマ時代の遺

跡が残されている。円形競技場を見て、路地をいくつか折れたところに

あるペンションを見つけ宿泊することにした。古いクローゼットとベッ

ドが二つ置かれている部屋。長い年月に耐えてきた建物であることはす

ぐに分かった。この落ち着いた街に似つかわしく、私たちの心を和ませ

てくれた。ヴィンセントもこの土地がずいぶんと気に入って生活を始め

たに違いない。パリから友人の画家たちを招こうと思った。彼のまっと

うな芸術への信念を打ち砕いたのは、彼と取り結ぶ人たちの無理解であ

った。共同生活を始めたゴーギャンが彼を見棄てた時、ヴィンセントの

手には剃刀が握られていた。襲いかかろうとした友の瞳に映る、殺意を

燃やした他者、もう一人のヴィンセントを見て恐れおののき、自分に殺

意の刃を向けた。自分の耳を切り落とし放免されることを願った。



ヴィンセント 

ヴィンセント

一直線の熱情が

あなたの筆跡を炎に変える

ヴィンセント

美のイデアは

あなたの瞳に映る世界の表層にあった



だから見つづけた

見つづけることによって

薄い皮膜を剥いでいく

哀しいまでの藍色とむせかえるような黄色

ヴィンセント

あなたを苦しめた精神の発作

神々から授かった狂気

だがひとたび画布に向き合えば

氷のように冷えた脳髄で

火のように燃える激情をナイフで重ねていく

ヴィンセント

あなたもまた忘れられた祖国を夢見た人

椅子の上の蝋燭は友を待ちつづける



オーベールの七月

自らの心臓を逸れた銃弾

カラスの群れ飛ぶ白昼の麦畑

あなたの見えない魂を空の深海に探るたび

大砲のような音が私の耳を打ち砕く

ヴィンセント

あふれる光に目つぶしされ闇を見透した

見えるものはすべてむなしい




copyright 2003 以心社

無断転載禁じます。