ヒーメロス通信


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スカイ島、小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』(旧天使舎)以心社2003年刊より

2012年08月03日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』
小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』(旧天使舎)以心社2003年刊より

スカイ島
小林稔



グラスゴー、エジンバラ、ヨークと宿泊して足跡を残し、さらに北の

インバネスへ行き、そこからバスで、カイル・オブ・ロハルシュという町

に着いた時には、陽は低く落ちて辺りは暗くなり始めていた。スコット

ランドの北端に位置するこの土地を選んだのは、空に浮かぶ島の影像が、

スカイ島という名で脳裡にもたらされたからである。道を歩いている中

年の土地の男に、ユースホステルのある場所を訊いて、男の指差した海

沿いの道を私たちは足早に歩いて行く。受付を済ませ、二段ベッドが部

屋いっぱいに配置された寝室にリュックを置いて、食堂に駆けつけた時

には、十数人の宿泊客たちが夕食を終えたらしく、話をしたり、庭に出

たりしていた。窓硝子の方に視線を投げた時、いちめんに広がった藍色

の空があった。すでに陽は地平線に沈んだ後で、海面に突き出した島々

の輪郭が朱色に象られていたが、空は茜色に変貌して、みるみるうちに

紫色のグラデーションを描き、濃さを増していく。その下で、怪物のよ

うな島々が息をひそめ待機しているようであった。
 

宿舎の庭に少年たちの一群があった。リーダーと思われる少年が立ち、

本を掲げて声を上げて読んでいる。彼を取り囲むようにして他の少年た

ちが岩に腰を降ろしうつむいている。私と友人は彼らの後ろに立った。

歯切れのいい英語の響きが頭上を越え、闇に吸い込まれていくようであ

った。それはまぎれもなく聖書の一節であった。

時にかれ(ヤコブ)は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、

その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。


空は濃紺色に変って宿舎の食堂からこぼれる灯火が、かろうじて少年

たちの存在を知らせている。宿舎に戻った時、好奇心できらきらした瞳

が、私たち二人に向けられた。聖書を日本から携えていた私は、寝室の

リュックから取り出し彼らのいる食堂に戻った。求められ最初の数行を

日本語で朗読した。聞き入っている少年たちの背中が、闇を遮っている

硝子窓に脱け殻のように映っている。時間は瞬く間に過ぎ去って、消灯

の時間になった。彼らとともに寝室に向かった。彼らはいっせいに衣服

を取り始めた。身体の揺れで金色の髪が波打ち、小麦色したうすべった

い胸板と、くびれた胴体、細い脚と腕がいくつも入り乱れ、シーツに滑

り込むと、ベッドが軋む音を立てた。私たちも裸になり寝具に包まった。

さっき見た夕日に染まった空の色が閉じた目蓋に浮び上がった。灯りが

消えて、部屋に闇が満ちて静寂が深くなる。しばらくして誰かの呼気が

私の耳たぶに注がれた。湖面の方から射してくる細い光で小さな顔がか

すかに浮び上がったが、夢の汀を越えてしまったのか、それは水面で自

らの重さに耐えられず沈み込むように、眠りの底に落ちて行った。
 
目を醒ますと、開け放たれた寝室の窓から青空が飛び込んで来た。少

年たちの姿はなかった。出発したのだろう。私たちだけで朝食を素早く

済ませ、フェリーに乗ってスカイ島に渡り、そこからバスに乗ると、向

かいから来るバスからあの少年たちが顔を出し私たちに呼びかけている。

引き返して、カイルから山腹をバスで辿り、停留所で降りてしばらく歩

いて行くと、次の宿舎が木立の中に見えた。ロビーでは、昨夜の少年た

ちのリーダーが、同じ年頃の少女に凭れて肩に頭を載せ、私たちがいる

ことに気づくことなく、夢を見ているような人の視線を中空に彷徨わせ

ている。夏の訪れを知らせる光が、彼らの足元に射し込んでいた。




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アンブルサイド、小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊より

2012年08月03日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』
小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊


P104~107
アンブルサイド




 ウインダーミア湖の北岸にアンブルサイドという村がある。ユースホ

ステルのまえでバスを降りた。潅木の茂みの下に湖水がきらきらと光を

反射させている。湖岸に辿る斜面にユースホステルの建物があり、受付

を済ませ私たちのあてがわれた部屋へ行くと、六つのベッドが配置され

てあった。廊下を歩くにつれ、この建物の大きさが分かってきた。最下

位にリビングがあった。庭を挟んで湖岸が近くに見えた。壁際のソファ

ーに若者たちが座ったり立ち上がったりして、ここで初めて出逢ったで

あろう見知らぬ者たちが会話を楽しんでいる。あちらこちらと歩き廻っ

ていた三人の中学生が、私たちのいるソファーのところにやって来た。

一人が十二歳で、あとの二人は十四歳であることがやがて話から知れた。

私のこれからの旅程を話すと、とても信じられないといった表情で眼を

剥いた。食堂で夕食を済ませ、またリビングに戻り、庭に出て暮れてい

く岸から対岸の、さほど高くない山々を見た。リビングに帰ると宿泊客

は寝室に戻って行ったらしく、数少ない若者たちがいた。私たちが寝室

に戻ると、ベッドに入り本を広げて読んでいる者、すでに眠りについて

いる者もいた。決められた消灯の時間まで一人一人自由な時間を楽しん

でいる。うつ伏せになって私はノートにペンを走らせ、疲労を感じて目

蓋が重くなって、そのまま眠ってしまったのかもしれない。

目を覚ました。部屋の電灯は消えて真っ暗闇であった。どこからか声

がかすかに聞こえる。切れそうな糸を紡ぎ出しているような声。扉のカ

ーテンの合わせ目から光が部屋に射し込んでいる。月の光だろうと思っ

た。声を引き寄せようと耳をこらした。窓際の、外から射して光が床に

落ちている辺りから声がする。抑えられずにこぼれる声は、すすり泣く

声であった。私は戸惑いためらったが、思い切って起き上がり、ベッド

を抜け出し、部屋の隅で行き場をなくしている声を探り当てようと、そ

っと歩いて行った。闇に慣れてしまった私の眼が、泣き声の主のいるベ

ッドを辿るのに、それほど多くの時間を必要としなかった。



 闇におびえ光を放っている両の眼があった。子兎のそれをすぐに連想

したが、ほんとうは人間の子供の、涙に濡れた眼差しであった。この眼

差しには見覚えがある。そうだ、さっきリビングで話をした一番幼い少

年だ。いつの間にか私の背後に友人がいて、少年を覗き込んでいる。

「どうしたの? 」と小声で友人が少年に訊くと、「歯が痛いんだ」とい

う返答があった。友人は自分のベッドに戻り、リュックからビニール袋

を取り出したらしく持って来た。「日本の薬だよ」、と小声で言って少年

に渡した。私が水を差し出すと、素直に少年は薬を口に入れ、それから

水を飲んだ。少年の顔の近くに顔を寄せて、私たちは、あどけない少年

の面差しを見つめていた。薬が効いたのだろうか、それとも安堵からか

少年は涙で濡れた枕に頬を沈めて目蓋を閉じた。寝息が、眼前の闇で細

い糸を曳いているようであった。



 翌朝、さらに北にあるグラスミア湖を訪れるため、なだらかな丘陵を

歩いた。詩人ワーズワースの家を見てから、樹木に被われた古い民家が

軒を並べている村道を、観光客に紛れ込んで歩いて行った。



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