ヒーメロス通信


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ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(つづき)小林稔個人季刊誌『ヒーメロス』19号

2012年08月19日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『自己への配慮と詩人像』(十一)(中篇)



38 ユダヤ教の成立と初期キリスト教への変容(つづき)


司牧者(牧人)の権力の初期キリスト教での進化
 司牧者の権力が紀元後数世紀の間のキリスト教の文献の中でどのように現れてきたかをフーコーは検討している。クリュソストモス、キプリアヌス、アンブロシウス、ヒエロニムス、カシウス、ベネディクトスたちのテキストからフーコーはヘブライ的テーマがキリスト教において変容する四つのレベルを挙げる。
一、責任についての問題。牧人は個々の羊に心を配ることを先で述べたが、キリスト教ではすべての行動についての善と悪について羊たちに心を配るようになる。さらに罪と善行の交換、交流のシステムを設けているとフーコーはいう。最後の審判の日に羊飼いは返答を強いられることになる。あるいは群れが救いの道に至るのに手を貸すことで牧人自身の救いを見出すということになる。群れと牧人の強い精神的なきずなは、生命だけでなく、個人の行為の細部にまでかかわってくることをフーコーは指摘する。
二、従属ないし従順に関する問題。神はすなわち牧人であるというヘブライ的考え方では、従う群れは神の意志と神の法に従っている。キリスト教では、牧人と羊との関係を個別的かつ全体的な依存関係としてとらえているとフーコーはいう。ギリシア思想では従わなければならないのは、法であり、シテの意志であるからである。特定の人の意志に従うことがあるとしても、その人の理性に説得されたからである。キリスト教では、個人的な服従が問題になるのである。牧人の意志は法とは関係ない。カシウスの『共住修道制度』の中に、上司の無意味な命令に従うことによって自らの救いを見出すという話が多くあり、従属は徳と考えられた。対自的に行使される意志から解放してくれるものを、ギリシアのキリスト教ではアパテイアと呼び、個人が理性の力を借り自己の情念に対して行使する影響力のことをギリシアではアパテイアと呼んでいる。
三、牧人と羊たち一頭一頭の間の個的な面識関係。羊の群れの状態だけでなく、羊の一頭一頭についてどんな状態にあるか知っていなければならない。キリスト教において以前の牧人制を増幅したものが現れた、つまり、群れの一人ひとりの物質的欲求を知ること、群れの中で何が起こり各構成員が何をしているかを知っていること、各構成員の魂に中で何が起こっているのかを知り、隠された罪を知り、聖性への道にきちんと進んでいる
かを知ることが羊飼いに求められたとフーコーはいう。さらに、ギリシア世界で使われていた良心の究明と良
心の指導がキリスト教は採用したとフーコーは指摘する。良心の究明は、ピュタゴラス派、ストア派、エピクロス派の間では善と悪の日常的な貸借表を作成する手段として受け入れられていた。それを変質させて採用したのであり、それによって、克己心と自己の情念の統御への道にどのくらい進んだかを測定できるのである。良心の指導は、悲嘆に暮れているときや運命の急転に苦しんでいるときにアドヴァイス与えたのである。それは恒常的になされ、羊は四六時中導かれる状態にあった。指導者に魂の奥底まで開いてみせることが求められていたとフーコーはいう。紀元一世紀の苦行僧や修道僧のテキストに数多くみられ、またそれら技術の存在がすでにギリシア・ローマ文明の中に特異な現象として現れていたことをフーコーは注記している。
四、キリスト教の技術といってよい、良心の究明、告白、指導あるいは従属には、自己の抑制に向けて努力するように導くという目的があったとフーコーはいう。抑制とは死をさすものではなく、現世と自己の放棄のことであり、「一種の日常的な死」、「もうひとつ別の世界での生に道を与えるとされる死のこと」であるとフーコーは説明する。ギリシア思想の献身とは全く相違し、「キリスト教的な抑制とは自己対自己の関係のかたちのことであり、キリスト教にとって不可欠な部分であるとフーコーはいう。このような二つのゲーム、つまりシテとその市民のゲームおよび羊飼いと群れのゲームの両方をヨーロッパの近代国家と呼ぶものの中で巧みに結合させることによって、ヨーロッパ社会は悪魔的な社会になってしまったとフーコーは主張する。ヨーロッパの文明は複雑な知の体系(精神医学、医学、犯罪学、セクソロジーおよび心理学など)と、ソフィストケートされた権力(精神病院や刑務所、個人の統制にかかわるすべての制度の中で行使される権力)の構造を発展させてきたが、狂気、苦痛、死、犯罪、欲望、個別性といった根源的な経験はどのようなかたちで、知や権力と結びついているのかと問い、答えは見つからないが問題の提起を諦めるべきではないとフーコーは主張する。

 祭司、王、預言者
 先に司牧者の権力の特徴を示し、キリスト教によってどのように変容したのかを、フーコーの『全体的なものと個別的なもの』という書物に基づいて考えてみたが、ここで古代イスラエル国家の特殊性について、中山元氏の『賢者と羊飼い』(フーコーとパレーシア)などを参照しながら明確にしてみよう。
 関根正雄氏の論考『イスラエルにおける政治と宗教』によると、ダビデ・ソロモンによる王国形成以前のイスラエルは十二士族の連合としてのアンフェクチオニー(宗教連合)の形をしていたが、そのようなイスラエルに神ヤハウェを王とする思想があったかどうか、また王国拒否の思想が王国成立前にどのような意味で存在したのか、また王国滅亡後にそれらがどのような影響を与えたのかは中心的な問題であるという。
 イスラエル社会の誕生の記憶は、アッシリアと新バビロニアによる捕囚から民を故郷へと導いた後に聖書の「出エジプト記」が書かれていることから、脱エジプトをひとつの「メタファー」と考えるべきかもしれないと中山元氏はいう。神政国家のエジプトからの脱出を伝説化することで、自らのアイデンティティを構築したかもしれないと中山氏は述べる。例えばイスラエルは羊を犠牲にするが、農耕するエジプトでは禁じられていた。初期のイスラエルはポリスを形成し民主政治をするギリシアとも異なり、「支配者」が劣者に対して思いやりを持つ司牧者的な社会であったと中山氏はいう。

 イスラエルの司牧者である統治者は三つに分類することができると中山氏は指摘する。裁判人としての祭司と王と預言者である。モーセの律法では政治的主体は裁判人である。『申命記』にある「レビ人である祭司およびその時、任に就いている裁判人」という記述がある。レビ人とはヤコブ(イスラエル)とレアの子であり、イスラエルの十二部族の一つを形成し、その子にはモーセとアロンがいる。中山氏の説明によると、モーセは預言者であり律法を与える者であり王に相当する地位にあった。モーセの率いる共同体では政治的な指導者と宗教的な指導者の区別はなく、神政的な統治の下にあった。やがて『出エジプト記』に「祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子らすなわち、ナダブ、アビラ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい」とあり、モーセの兄弟アロンを神は祭司とするこ
とでモーセの神政一致的な地位に亀裂を与えたことになると中山氏は指摘する。やがてレビ一族が祭司として
裁判を引き継いでいくことになる。彼らは、神の怒りが自然の災害や政治的な不運をもたらすと考えていたの
で、どのような契約を違反したのかを解明するのが祭司たちであった。つまり、個人の罪に対して共同体の連帯責任が問われるということである。マックス・ウエバーが『古代ユダヤ教』で述べているように、古代イスラエルの連合法が極めて倫理的に方向づけられる理由に、このことがある。連帯責任といっても、祖先への責任と共同体の成員の連帯責任があった。「ヤハウエというひとりの神との間で、神の命令に従うという契約を締結しているために、すべての信徒の〈魂のみとり〉が、政治的に重要な意味をもつ」と中山氏はいう。人々が切望したのは犠牲の奉納ではなく、「ヤハウエの意志と、この意志に反しておこなわれた過誤とを探求することだった」し、それが祭司の務めであったと中山氏はいう。また祭司は神の怒りを静めよ方法を知るため訪れる人々に、罪のカタログを用意して訊問し、「告白と懺悔とあがないを求めた」という。「祭司は共同体のすべての成員の利益のため、個々の信徒の魂に配慮し、律法に違反した者がいないかどうかを監視しつづける。違反した者がいた場合には、共同体全体に被害がおよばないように、その者を罰し、あるいは犠牲を捧げることで贖罪させる」、そのような任務を負った者が第一の司牧舎である祭司なのだと中山氏はいう。
 二番目の政治的主体として王の存在がある。モーセは王のような地位にあったが、預言者として死んだ。死後、自分の子供を指導者の座を継がせられなかったことから明らかであろうと中山氏は指摘する。イスラエルの共同体は規模の小さい国家であったので王は置かれず、士師が統治と戦争を指揮した。しかし内部の対立が激化しぺリシテ人との戦いがつづくとイスラエルも国家形成を進め、王朝を必要とするようになったと中山氏は説く。王の資格は、イスラエルの同胞から選ばれること、銀や金を大量に蓄えないこと、律法のすべての言葉と掟を守り、「この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つこと(『申命記』一七章見二〇)である。しかし王を戴くことは人々が王の奴隷になることであると預言者が伝えていた。ユダヤの民はあくまで王国を望んだと中山氏はいう。サムエルは預言者として信頼を得、のちに祭司として、さらに士師してペリシテ人に勝利した。サムエルが年老いたとき、イスラエルの民は王制を求め始める。王制を望まなかったサムエルであったが、神の命令によってサウルという人物を探し出す。サウルに油を注ぎ王にしたサムエルであったが、自分の言葉に従わないサウルを見限り、ダビデに油を注いだのであった。ダビデは巨人ゴリアトのいるペリシテ軍との戦いで勝利した。サウルは嫉妬からダビデの命を狙うが、サウルの息子であるヨナタンとは友情で結ばれていた。サウルがペリシテ人との戦いで死んだ後、ユダの王になり、sの後、統一イスラエルの王になったのである。ダビデは軍の編成のため人口調査をしたが、「聖なる戦いにあっては勝敗を決めるのは神だから」、「聖戦の義に反する」ので、神はダビデを罰するためにイスラエルの民に疫病を下した。「ご覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしに父の家に下りますように」(『サムエル記 下』二四章一七)。王は神から羊たちを預けられた司牧者であり、自分自身を羊たちの幸福のためには犠牲にする覚悟を求めらてていたと中山氏は指摘する。
 第三の政治的主体は預言者である。神の言葉を聞き取る人であり、アッシリアによる前八世紀の捕囚のとき、ホセア、アモス、イザヤが、バビロニアによる前六世紀の捕囚のとき、ゼファニア、ハバクク、エレミア、エゼキエルが現れる。つまり、歴史の大きな「切れ目」のとき、預言者が神の言葉で民に警告を与えるのだと中山氏はいう。王の命令は律法に反するときもあり、民はそれにいつも従うとは限らずなかったが、預言者の命令には、神の絶対的な服従を命じるものであるから、預言者は王より高い地位に置かれるときがある。民が預言者の言葉に従うとは限らず、神が民の心をかたくなにし、預言者の言葉を聞かないようにすることもある、そのことを理由に民に罰を与えつづけることもあると中山氏は指摘する。何より特徴的なことは、神と直接に交流することができるが、その反面、自分の命を差し出してでも民の命を救おうとすることもある。
 預言者はどのようにして預言者になるのか。『エレミア書』では、神が特定の人を預言者として選び、拒むことができない様子が描かれている。主に命じられたことを語ると人々は預言者を恨み、迫害しようとすることがある。「預言は生命を賭した行為」であり、アテナイの民会で自己への配慮を怠っていることを非難するソラ
テスと、罪を告発するエレミアは命を危険にさらしてまで真理を主張することにおいて、二人ともパレーシア
ステースとして、民の改心を目指す姿は似ていると中山氏はいう。両者ともに、人々は耳を傾けようとしない。バビロニアの軍隊にエルサレムを包囲された住民に降伏を勧告する。ソクラテスに死刑を勧告する。中山氏はギリシアのパレーシアとヘブライの預言では大きな違いがあるという。ソクラテスは沈黙を選ぶことができるときにも道徳的な促しから真理を語ろうとする。裁判において真理を語るように強制された者はパレーシアステースと呼ばれないように、預言者は神から口に言葉を入れられ、強制のもとで真理を語るのであるから、エレミアはパレーシアステースとみなすことはできないと中山氏は主張する。
 改心することは、「預言者の資格を決定する」大きな目印となるというマックス・ウエーバーの指摘を、中山氏は引用する。また、ウエーバーによると、預言者は自分が救世主であるとか、模範的な宗教的達人であるというようなことは語らず、すべての人に課せられた倫理的要求と少しも変わることがないという。エレミアにとって、「予言されたことを実現させるのは、断じて予言者のじぶんの意志ではないのであって、むしろ肉声によって予言者に伝達されたヤハウエの決断、つまりヤハウエの「言葉」なのである」とウエーバーは述べる。古代キリスト教団とは異なり、預言者は自分を神の命令の道具や奴隷にすぎないと思っている。政治的民族共同体にいて、その運命こそが関心事であり、祭儀的ではなく倫理的に関心を持っていたとウエーバーは指摘する。むしろ古代末期密儀集団の影響が古代キリスト教にはあったのであろうと彼は指摘する。

 ユダヤ教の成立
 アッシリア帝国が勢力を拡大し、北イスラエルは前七七二年ごろ、首都サマリアが陥落し滅亡する。隣りの南ユダ王国は脅威を感じ、預言者イザヤの反対を押し切ってエジプトに支援を求めアッシリアに応戦するが、アッシリアのセンナケリブ王は大軍をパレスチナに派遣し首都エルサレムを包囲する。このとき預言者イザヤはエルサレムを守り救うという神の言葉を告知したが、預言が実現、神の御使いが現れ、十八万のアッシリア軍を撃ち、エルサレムは解放された。また「暴虐無法」なアッシリア軍には神の審判が下ると預言し、前六一二年ごろ、アッシリア帝国は新バビロニアによって滅亡したのであったが、まもなく南ユダ王国に新バビロニアによる滅亡の危機が訪れる。この時期に預言者エレミアが活躍することになる。前五九七年、新バビロニア帝国のネブカドネツァル王がエルサレムを占領し、第一回のバビロニア捕囚が始まる。南王国ユダの支配者や知識人、上流階級の人々だけであったと中山氏は述べる。『列王記 下』二五章一二に記述されているように、貧しい民の一部はブドウ畑と耕地に残されたのであった。前五八七年にエルサレムが陥落し、第二回バビロニア捕囚があり、前五八〇年ごろ第三回のバビロニア捕囚がある。アッシリア捕囚のときはさまざまな場所に離散させられたが、バビロン捕囚のときはバビロンにまとめて居留させられたのである。バビロニアはかつてのユダ王国をそのままにして入植させなかったので、捕囚者たちは故国を思い帰還できる日を待ち望んだ。捕囚印同士の絆はヤハウエの教えである。異国での生活の中で、自らのアイデンティティを明確にすることが求められた。割礼の慣習や安息日などの儀礼が「契約のしるし」として尊重されたのである。国を失った民は、宗教によって同一性を保ち続けたのである。前五三八年、新バビロニア帝国はペルシャ帝国に滅ぼされ、キュロス王によって捕囚民はエルサレムへの帰還を許されたのであった。ペルシャ帝国はそれぞれの民族が持つ宗教を重んじていたことによる。三度にわたるバビロニア捕囚によって古代イスラエルの宗教はユダヤ教へと確立していくのである。第一回バビロニア捕囚民の中にいたエゼキエルは、バビロンのケベル川の辺で召命を受け預言者になった人である。その生涯の大部分をバビロンで過ごし、故国の運命を憂えたのであった。先述したようにバビロニアはユダ王国に他の民の入植をしなかったので、望みをもつ捕囚民に対してユダとエルサレムの滅亡を告げていた。しかし、絶望に打ちひしがれた捕囚民を救済すべくイスラエルの復活を語る。
 前五三八年から捕囚民たちがつぎつぎに帰還し、前五一五年にようやくエルサレムが再建されたが、前四四五年ごろネヘミアが、前三九八年ごろエズラが、エルサレムに帰還し改革に着手して始めて宗教的かつ社会的な秩序が構築されるに至ったのであった。つまり、エルサレム神殿とユダヤの古い律法を軸にしてユダヤ教を確立していったのである。中山氏によると、ネヘミアは「異民族と混血の住民の排除」をし「イスラエルの純
潔を確保」し、さまざまな宗教的な改革をした。エズラはモーセの律法の書を会衆の面前で朗読したり、異民
族との結婚が「ユダの民が犯した最大の悪事である」とし、彼もまた「イスラエルの純血を高めるための作業を遂行した」と中山氏は指摘する。このように「純血のユダの人々の間で、閉じられた教団宗教としてユダヤ教が形成されて」いったのである。ペルシャの支配下においてアイデンティティの根拠となったのは、「安息日、割礼、食物規定を中心とする律法の体系は、その後さまざまな異民族によって支配されながら、どこにおいて
も、ユダヤ人がユダヤ人であり続けるための基盤となった」と『聖書時代史旧約篇』で述べる山我哲雄氏の言葉を引用している。二度にわたる捕囚によってユダヤ人として集結したのであったが、他の民族から孤立する「不気味な存在」(ラート『旧約聖書神学Ⅰ』)の国家を形成したのである。

 旧約聖書の記述は捕囚修了後に書かれたと一般的には信じられている。ユダヤ民族としてのアイデンティティを歴史の形態で書き、それらを思い起こすことで未来の時間を、民族の進むべき道を過たずに見つめたのである。それにしても、聖書のエクリチュールは、特に預言者の記述はこれまで論じてきた古代ギリシアのエクリチュール、例えばプラトンのそれとは何という違いであろう。哲学と宗教の違いとして見過ごすわけにはいかない。文学表現として『エレミア書』や『エゼキエル書』などを読むとき、想像力に富む言語力に圧倒されてしまうのである。このようなエクリチュールをなしえたユダヤ性とはどのようなものなのか。
 マックス・ウエーバーは『古代ユダヤ教』の「第一章イスラエル誓約共同体とヤハウェのまえがき」において、ユダヤ人の独自性は、社会学的に見ればパーリア民族()であることに由来するという。とは社会的環境世界から遮断されている客人民族のことであり、「環境世界に対するユダヤ人の態度の本質的諸特徴……(略)……自由意志によるユダヤ人居住区の存在や対内・対外道徳という二重道徳のつかいわけはすべてこの存在から由来すると見られる」と主張する。意識と旧約に見られる選民意識とは表裏一体のものではないかと私は思う。ウエーバーは、第二章で「ユダヤ的パーリア民族の成立」という表題でになった歴史を捕囚前と捕囚後に分け論じている。メソポタミアやエジプトのような巨大な国家が拡張政策を開始すればイスラエルは不安に駆られる。シリアやアッシリアが行った冷酷無情な戦争は、預言の神託の中に政治的な地平線を陰鬱に色取っていく。古代のすべての王は政治的決断を神託によって決定するが、宮廷内の問題であり、民衆に向かって語るものではなかったが、都市国家エルサレムにおいては事情は異なるとウエーバーはいう。預言の多くは国家や民族の運命を相手とし、時には王と敵対することもある。
 ウエーバーは預言者(翻訳では予言者と表示されている)の神託は無報酬であったことを指摘する。それゆえ完全な精神的独立を勝ち得たのであり、「預言者がその時として戦慄すべき神託を聴衆に投げつけるのは、主として誰の依頼も受けずに内面から押し動かれておこなう、ひとの依頼に応じてなされるのはまれなのである」。また、ウエーバーはホセア、イザヤ、エレミア、エゼキエルなど大部分の捕囚前の預言者は、エクスタシスにおちいる者であり、私的生活行状からして彼らは奇人である、禍が切迫しているという理由でヤハウエの命令で独身を通したエレミヤ、ヤハウエの命令で娼婦と結婚したホセア、ヤハウエの命令で女子預言者と交わったイザヤが解読できると指摘する。

ユダヤ教における分派の出現
 マケドニアがフィリッポス二世のもとで軍事的統一国家を形成し、アレクサンドロス三世に引き継がれると、世界帝国の建設に着手していった。前三三三年ごろ、ペルシャ帝国を滅ぼしたアレクサンドロスの死後、エジプトにプトレマイオス一世は新しくマケドニア人王朝を開きプトレマイオス朝を統治する。パレスチナはその支配下に入るが、シリアを支配するセレウコス朝との対立に巻き込まれていく。このような中でパレスチナはヘレニズムが浸透していくのであった。やがてユダヤはローマのポンペイウスによって征服され、ヘロデ王がエルサレムを占領しユダヤの王となる。このことでユダヤは完全にヘレニズム的な君主国家の支配下に置かれる。中山氏によると、ユダヤ教の内部でトーラー(律法)をめぐって諸派に分裂し競う合うようになったという。国家を経済的に支え、ヘレニズムを受け入れようとした貴族的な上流階級をサドカイ派と呼ばれる教義を
信じていた。トーラーは神によって選ばれた聖所で祭司を定期的におこなうことを主張した。ファリサイ(パリサイ)派は中産階級に支持があり、ユダのヘレニズム化に抵抗していた。霊魂が不滅であると信じていて、彼岸での善行の報いをうけることができるという考えは「キリスト教の復活の思想と響きあうところがあると中山氏は指摘する。サドカイ派は神はユダヤのものだけではないと考えていたという。「すべての人類の神としての神」を認め、「個人の魂が生き残り、あの世で応報をうけることを信じた」というイジドー・エプスタイン
の『ユダヤ思想の発展と系譜』を中山氏は引用している。エッセネ派は律法を完全に守ることを重視し、穢れた人々から遮断されて荒野で暮らす流派であると中山氏はいう。フィロンの『観想的生活・自由論』によると、エッセネ派は成人男性だけの未婚者の集団で、女性は男性の心の統一を乱すものとして敬遠する。魂を神と結びつけ瞑想して暮らすテラペウタイという集団もあったという。彼らはギリシア的なものにある純粋性を求めるようになったと中山氏はいう。ギリシアのオルフォイス教団のような霊魂観を持っていたらしいというから、ヘレニズム化の影響が認められるということであろう。その他にはゼーロータイという流派があった。神はヤハウエだけであり、ヘレニズム化に反対を唱える流派である。「アウグストゥスが元首に即位した前二七年、ヘロデはフェニキアに港湾都市を建造したが、その中央の小高い丘にはカイサルの神殿が建っていて、その中にローマの像やカイサルの像が遠望できたという。ユダヤ人には皇帝崇拝は忌まわしいものであり、拒否を通すことで自らの神学的根拠を付与したのだが、しかしゼーロータイは終末論をユダヤの政治的空間に持ち込みユダヤ国家の滅亡をもたらしたと中山氏は説明する。このユダヤ戦争にエッセネ派も加わり、結局姿を消していったのである。残ったのはファリサイ派の一派で、後のユダヤ教のラビの伝統の端緒となったと中山氏はいう。

 


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