ヒーメロス通信


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ガザーリーとアヴェロイスの論争、連載エセー⑨井筒俊彦『意識と本質』解読。

2012年08月13日 | 井筒俊彦研究

連載エセー⑨井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。
連載/第九回
小林稔


ガザーリーとアヴェロイスの論争。
ギリシアの哲学的思考と一神教の神がどのように共存できるか。



P99-P105
意識の垂直的方向からの考察と水平的方向からの考察。

 意識に表層・深層という二重構造を措定して、前回見た宋儒の「脱然貫通」や禅の説くメタ意識としての無-意識を考えるとなると、意識という語の意味領域を拡大し、意識でなくなってしまうところまで押し進めなければならないが、しかし意識の意味領域から排除せず、それを含めて意識(、、)を総合的(、、、)に構造化(、、、)しなおすことによってはじめて新しい東洋哲学の意識論が基礎づけられると井筒氏はいう。もちろんこれは意識の垂直的方向からの考察のことである。例えば、禅の説く「無心」。それは消極的な否定論ではなく、むしろ「有心」の極限であるという。意識と存在の究極的原点。『意識と本質』を読み進めるにつれて禅の考察が深められていく気配を感じ、期待するところが大きい。
 また、井筒氏は意識の水平方向からの考察として文化意識の問題を取り上げる。文化共同体が根源的には一つの共通言語に支えられた言語共同体であるという。つまり文化テクスト間の相違によって、人間意識もさまざまな類型学的差異を示し、さらにいかなる角度から、どの単位に認識証明を与えるかが文化ごとに相違すると井筒氏は説明する。例えば、イスラーム「原子論」論争を「本質」論の観点から述べてみたいと井筒氏はいう。
 イスラーム的意識の顕著な特徴は「神中心的な意識である」。「コーラン」に描かれたアラーは万物の創造主、天地の主宰者であり、それを否定するイスラーム哲学はないと井筒氏はいう。もし、前回に説いた宋儒の「理」体系をセム的一神教の文化構造に持ち込むとたいへんな危険思想になりかねないと井筒氏はいう。実際、「理」体系に対応するアリストテレスの「本質」体系の思想がイスラームに流入してきたとき、「原子論」論争が起きたのである。つまり多神教の文化に育まれたギリシアの哲学がイスラーム哲学の形成に与えた問題である。文化間の衝突といえよう。


P106~116
ガザーリーの偶然性の哲学とアヴェロイスの因果律の実在性

 イスラームの「原子論」が、かの古代ギリシアの「原子論」とどのような相違があるのかは資料を読み込まないと今の私には理解できないが、井筒氏によれば、普遍的「本質」の実在性を認めるか否かという立場の対立に帰着するという。つまりイスラーム的意識がギリシア哲学の「本質」概念とどのように抵触するかということである。宋儒の「理」体系は事物の一つ一つに普遍的「本質」という存在根拠があるということとギリシア哲学とは受け入れられものであろう。この点においてイスラームには問題になったと井筒氏は指摘する。イスラームの思想家がギリシア哲学を取り入れたのはアリストテレスの哲学を通じてであった。その第一のものは因果的思考方法であるが、因果律で統一された存在秩序としてのコスモスが、一度イスラームの意識に持ち込まれたとき、宗教的世界像に大きな問題を投げるのだ。すなわち因果律的存在観は、天地の創造主、主宰者である全能の神の否定につながるものだからである。因果律の世界は永遠不変の偶然性を否定する動きのとれない世界とイスラームの原子論者は考え、神の介入を許さない世界と映ったのである。イスラームの原子論者は偶然主義の立場を取り、「全存在界は、互いに鋭い断絶によって分離された無数の個体の一大集積として表象される」と井筒氏は説く。無限定な世界だからこそ神が奇跡を起こすことができる。もちろん原子論者と呼ばれる以上、経験界の一切の事物を、それ以上分割できない不可視の微粒子にまで分解する。しかし、それらの複合体として現象するすべての経験的事物の間に、空間的・時間的な隣接ということ以外に連結を認めないという井筒氏の指摘を考えれば、ギリシア哲学の原子論者たちとは自ずと異なる。
 「原子」とはそれ以上分割できない「実体」を意味し、その「無特質性」とは不変の性質や属性をもたないということであり、それらによって構成されると考える経験的事物もまた無記的であり不変の性質や属性をもたないとイスラームの原子論者は考えたのだという。一切存在者の無作用性、無力性という思想を展開し、その上での経験界の因果律の無効を主張したと井筒氏はいう。つまり「本質」否定に直結することは明らかである。井筒氏はそれに繋がる西暦十二世紀のガザーリー(原子論を哲学的に大成した人)とアヴェロイス対決について説明している。

 まずガザーリの考えを井筒氏の記述から理解してみよう。
 この世に存在するすべてのものは何ら働きをもたない。事物固有の働きを認めない。しかし実際は「火に触れれば紙が燃える」のはどうしてか。それは「自然の慣習」であり、「偶然の出来事」であると彼は考える。なぜそういう慣習はあるのか、「神の恣意」、「かくあれ!」で決められるのだという。神から独立した因果律というものはない。因果律はなく慣習に過ぎない。それを破るのが奇跡であると彼は考える。
 存在界は偶然性の世界である。人間から見ればそう見えるだけであり、偶然に支配されたように見えるこの世界が存続可能であるのは、「神の瞬間的創造」のおかげなのだという。「神の瞬間的創造が間断なく連鎖するので存在は存続しているように見える」のだとガザーリは考えていたと井筒氏は説明する。ガザーリの因果律否定は「本質」否定ではなかったが、アヴェロイスは「本質」否定の何ものでもないと批判したのである。
 アヴェロイスとはどんな人なのか。井筒氏によれば、アヴェロイスは、ガザーリの因果律否定は「本質」否定と直結し、それは「理性的動物」と定義される人間の間化にほかならないという主張であり、人間とは、本来己の理性(ロゴス)を自由に行使して事物の理(ロゴス)を把握する」存在であるという主張である。アヴェロイスは気性の激しい人であったと井筒氏は著書『超越のことば』でいう。両者ともにアリストテレスの考えを継承しているのだが、アリストテレスの哲学を歪曲し批判するガザーリーの態度が気に入らなかったし、「一者からいかにして多者が出てくるか」、そしてその絶対一者がいかにして「世界を創造するか」というイスラーム思想の核に当たる箇所を、ネオ・プラトニズムの「流出」論に求める哲学的解釈にアヴェロイスは批判的であったと井筒氏は指摘する。
「そもそもどのような具体的事情で、イスラームの中に突然「哲学」が生起し、興隆し、やがてトマス・アクイナスをはじめ中世期の西洋哲学者たちを驚嘆させるほどにまで合点したのだろうか」と井筒氏は問題提示をし、ガザーリーとアヴェロイスの前の世代のアヴィセンナという人物を考えなければこの論争の実像は見えてこないという。詳しくは『超越のことば』を参照されたい。アヴィセンナを考えるには、イスラームと哲学の本来的な関わりを把握しなければならないのである。イスラームにとって哲学はまったく異質な世界であった。ギリシアの「地中海的人間の思惟感覚」の「ギリシア的ロゴスの哲学」と、「人格的一神教の宗教思想」とは相容れないものであった。八世紀半ばのイスラーム世界の統一というアッパース朝の興隆に応じて、ギリシアに対する関心が高まったといわれている。そこで「アリストテレスを中心とする古典ギリシアの哲学書が次々にアラビア語訳されていった。イスラーム文化のギリシア化のこの傾向は、第七代の教皇アマムーンに至って絶頂に達する」と井筒氏は『超越のことば』で記述する。さらに続けて、「八三〇年、アマムーンはバグダード(アッパースの首都)にギリシア学術研究センター「智の家」を創設する。ここではギリシア哲学・科学の基礎的研究が、主として原典翻訳という形で強力に推進されたという。これは中国においてなされた仏典漢訳状況に匹敵するほどの「驚嘆すべき組織性をもって行なわれた」という。このようにして「イスラーム的宗教性のコンテクストの内部で」「ギリシア的思惟を独創的なイスラーム的哲学に変貌させていった」と井筒氏は解釈する。このようなイスラーム哲学創出の動向は十世紀のファーラービーという哲学者の出現で顕著になる。井筒氏によれば、彼の哲学は「アリストテレスの論理学と形而上学を基礎に据え、プラトンの思想をそれに協調するような形で解釈しながら、両者の合一点に己の立場を定め、さらにそれをイスラームの伝統的宗教思想に合致するような方向に展開させた」のである。それを完成に導いたのがアヴィセンナであると井筒氏はいう。
 井筒氏の『イスラーム哲学』によると、アヴィセンナはイスラームのスコラ哲学を初めて体系化した人である。彼の父親は教育に熱心に人物で、息子の優れた天分を見つけると、算術、代数、幾何学を幼い時期に習得し、彼の家にイスマーイール派の思想家が出入りしていたので、そこから多くの影響を受けた。ファーラービーの著書を通じてギリシア哲学を学び、後にアリストテレスの『形而上学』を何度も読み、それでも理解したという気になれなかったが、アヴィセンナはファーラービーの『アリストテレス形而上学の基本概念』を読んで完全に理解した。彼の後半生は波乱続きのもであった。政治的勢力に巻き込まれ、牢獄、監禁、陰謀などに満ちた生活であったという。しかしこの動乱の時期以後に彼の哲学は大成した。伝記的な事柄は井筒氏の書物に任せ、ここでは彼の思想がいかなるものであったのかを考えてみよう。もちろんそれも井筒氏に頼らざるを得ないのであるが。『超越のことば』で井筒氏は、アリストテレス哲学にネオ・プラトニズム的思惟が全面的に混入していることが第一の問題であるという。つまり「一者」から経験的存在世界の階層的発出を説く典型的なネオ・プラトニズム的『流出』哲学であったし、むしろイスラーム的宗教思想の哲学的再構築を積極的に可能ならならしめるものとして受け取られるようになったと井筒氏はいう。ガザーリーにとっては「流出」論的世界像は、神の絶対自由意志による世界創造と全面的に対立するものであり、アヴェロイスにとってはアヴィセンナの考えはアリストテレスの歪曲として映ったのである。両者ともアヴィセンナを批判した。
 アリストテレスは全存在世界には時間的な始まりがないと考える。これはイスラームの世界創造説を否定することになる。『コーラン』ではある特定の時の一点において、世界が存在し始めると考える。「ある特定の一点」を考えることは、それ以前の時間が、「何一つない空虚な時間」があることになる。しかし「アリストテレスのいうように時間は運動の尺度で、動くもののまったくない、つまり、神学が想定するような世界の存在以前の状態にあっては、時間は存在しえないはずである」。だから「世界の創造以前の時間があるとするなら、それは時間以前の時間ということになろう」。哲学者からすれば、神と世界の間に時間観念を導入なしに原因論的、つまり因果関係的前後関係でなければならないと井筒氏はいう。アリストテレスの形而上学的体系では、神は万物の第一動力因として定位され、自らは動くことなく、他の一切の存在者を衝き動かす究極の原因であり、アヴィセンナは神を、このアリストテレス的第一動力因を存在現出の絶対原因、あるいは第一原因として捉えなおしたと井筒氏は解釈する。またこのように捉えた神は時間とは無関係であると井筒氏はいう。しかしイスラームの立場からすれば困難な結論を導く。まぜなら、神がある、それと同時に世界はある。少しのずれもないはずである。神が永遠的存在者であれば世界も永遠的存在者である。では「創造」はどのように捉えるべきか。無時間的事態でしかありえない。神の存在そのものが、絶対的必然性の結果として世界を存在させる。このように哲学者は神の天地創造を、無時間化し変質して、「創造」の事実を正当化しようとする。
 ガザーリーは「創造」の形象に固執する限り、時間概念の導入は不可避的であると考えた。「神は有った、しかし世界はまだなかった」という創造以前の状態を述べる命題には、Aの有とBの無、のほかにCという時間の第三の要素が不可避である。第三の要素がなければ「存在した」は「存在するだろう」と違わないことになる。ガザーリーのこの所論にアヴェロイスは賛成する。しかし、Aを世界、Bを世界と考えるところにヴァザーリーの考えに間違いがあるとアヴェロイスはいう。神は元来、無時間的存在であり、時間の中にはないからである。「神は世界なしに存在した」や「神は世界とともに存在した」という場合に無時間的に解さなければならないとアヴェロイスはいう。しかしガザーリーは、時間とはまったく純粋に主観的な形式に過ぎないと考え、存在の客観的事態とは無関係である考えると井筒氏はいう。それに対してアヴェロイスは、「時間的先行・後行を、神と世界との間の関係に適用することはできない」と彼の書物で述べている。つまり、時間はジュン主観的な直観の形式ではなく、客観的に存在論的な基礎を持つ、リアルなものだという立場を取ると井筒氏は説く。「創造以前の時間」も客観的実在性を持つ以上、神学者がいうような意味での「創造」を理解することができない。したがって無時間的事態としての「創造」以外に「創造」なるものをアヴェロイスは認めることができないのだと井筒氏はいう。
一般に、一神教では「無からの創造」は、何も無いところから存在世界が創り出される、つまり「創造」以前には何も無く、神の「あれ!」の一声で世界が出現する。有の出現の素材となるべきものの絶対的不在を意味するが、アリストテレス系のイスラーム哲学は徹底的に否定すると井筒氏はいう。アリストテレスの考えでは、何かが生成するのは、必ず何かから生成すると考える。絶対的無からは生成しないとするが、「創造」が行なわれるには先行する何かが無ければ起こりえないのである。そこで哲学者は相対的な無を考え、「質料」と呼んでいる。この「質料」(素材)をアヴェロイスは「相対的無の状態における有」、すなわち「潜勢態における存在」(存在可能性)と規定する。したがって「創造」とは潜勢態における有を、現勢態における有に移行されることであり、それを生成と呼ぶ。「質料」を現勢的有に転換させるものが「形相」であると井筒氏はアヴェロイスの考えを要約する。
このように「無を相対的有と考え、創造を可能的存在者(質料)の現実的存在者への転換と考える」アヴェロイスの考えは、『コーラン』的存在生成観と本質的に相容れないものであったと井筒氏は指摘する。
 アヴェロイスの思想は、中世ユダヤ最高の哲学者マイモニデスのラテン語訳と通じて十二世紀、西欧カトリック思想界に持ち込まれ、大きな波紋を起こしたと井筒氏はいう。その影響は大きく、カトリック教会は一二七七年、アヴェロイスに対して異端宣告をした。事物がそれぞれ「本質」をもち、内在的ロゴスの指示のままに作用するのであれば、歴史的展開のプロセスに神の自由意志の介入する余地が無くなるということでイスラームの原理主義者たちから危険視されたのだと井筒氏は解説する。
 哲学が一神教の神学に融合するときに生じる問題を論じてきたのであるが、神学が信仰としての宗教を締め出し、科学的思考を促進してきたといえるのではないかと私は思う。
ともあれ、井筒氏がここで述べたかったのは、「本質」の有無が文化的な枠組み次第で、重大な問題を引き起こすということであろう。また文化的パラダイムにおける意識のあり方によって「本質」の問題性がさまざまにかわると井筒氏はいう。「意識はいろいろ違った仕方で意識でありうる」というメルロ・ポンティの言葉を、この章の冒頭にもってきた意味が理解されるのである。

(第十回につづく)

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