ヒーメロス通信


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「パイドロスにおけるエロース論」小林稔個人季刊誌「ヒーメロス」16号2011年3月25日発行から

2012年06月21日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
〔長期連載エセー〕
自己への配慮と詩人像(九)
小林 稔

36『パイドロス』におけるエロース論(後編)その一

通俗道徳批判
「恋していない者によってはじめられた親しい関係 」は、「恋していない者の思慮深さ」や恋していない者の「分別の心」が「打算と利己心」、「世間の掟」への顧慮に隷属したものなのであった。藤沢氏によれば、「このような分別心を楯にとって少年を誘惑し、損失やわずらわしさを避けながら、恋における肝心なー―と彼が考えるー―ものだけを手に入れようと企てるところの、リュシアスの話のもう一つの奥底の立場は、まさに打算の極致ともいうべきものであろう」という。しかしながら「われわれの肉体的欲望への無制限な耽溺からひきとめ、われわれの生活に安定をあたえているものは、多くの場合、こういった打算による欲望のバランスであるといわねばならぬ」し、「打算の意識をはなれ、ひとつの道徳として成立するとき、さらに強固なものとなる」、「さらに打算とはいえ、人間のロゴス的活動であり、たんなる放縦にすぎない恋よりも高く評価されるべきなので、リュシアスの話を一概に否定できないと「プラトン『パイドロス』註解」で藤沢氏はいう。つまり、節制や正気と呼ばれる「分別心」は、打算を基底にしながら「道徳」を成立させ、さらに教育において「善」や「悪」を教え込み「徳」をつくるのである。それらは欲望を制御させる機能として働き、「死後の賞罰への怖れ」が拍車をかける場合もある。このようにして世間の多くの人々によって形成される道徳を、『ゴルギアス』でプラトンは考察することになった。

われわれはその法律なるものによって、自分たちのなかの最も優れた者たちや最も力の強い者たちを、ちょうど獅子を飼いならすときのように、子供の時から手もとにひきとって、これを型通りの者につくり上げているのだ。平等に持つべきであり、そしてそれこそが美しいこと、正しいことだというふうに語り聞かせながら、呪文を唱えたり、魔法をかけたりして、すっかり奴隷にしてだね。しかしながら、ぼくの思うに、もしかして誰か充分な素質をもった男が生まれてきたなら、その男は、これらの束縛をすべてすっかり振るい落し、ずたずたに引き裂き、くぐり抜けて、われわれが定めておいた規則も術策も呪文も、また自然に反する法律や習慣のいっさいをも、これを足下に踏みにじって、このわれわれの奴隷となっていた男は、われわれに反抗して立ち上がり、今度は逆に、われわれの主人となって現われてくることになるだろう。そしてそのときにこそ、「自然の正義」は燦然と輝き出す出すことになるのだ。『ゴルギアス』483E~484A

 右のカリクレスの言葉に歓喜したニーチェは、いわば「奴隷道徳」に対して「君主道徳」の優位を主張したのだと藤沢氏は『プラトンの哲学』で述べる。世間の多くの人々は、「節制」や「正義」という徳をほめたたえる一方で、カリクレスの主張するように、ノモス(法律・習慣)上の「正義」ではない「自然(ピュシス)の正義」、つまり弱肉強食の考えをもち強者になることを願っている。政治家カリクレスのこの自信に満ちた言説は、そういう人々の「日常的現実」に支えられていると、藤沢氏は指摘する。プラトンは、この『ゴルギアス』という対話篇で、「正義」や「節制」を「自然の正義」に対決させ、「人はいかに生きるべきか」を明らかにさせるためにソクラテスを登場させたが、カリクレスの攻撃を哲学の立場から反論するものの、その解決は『パイドロス』にまでもちこされることになったのである。
 カリクレスの言説には当時の一般の人々の社会通念を読み取ることができるという指摘を先述したが、さらにそれに関連して哲学のあり方にもプラトンは言及する。右の引用の後でカリクレスは、哲学は若いころに学ぶのはよいが、いつまでも関っていると「人間を破滅させてしまう」と語る。なぜなら、立派な人間になって名声を得るには、哲学に関れば「法律や規制にうとい者になる」し、「人間がもつ快楽や欲望にも無経験者となる」からであるからであると語らせる。プラトンの時代、「哲学をやっている人間は死人同然の人間」(『パイドン』)と一般的に考えられているなかで、プラトンの『国家』にある「哲人統治の提言」は社会通念への対決宣言であったろうし、「世の大部分の人々はカリクレスと同じように、弱肉強食と優勝劣敗をありのままの現実と見なして、できうれば強者・優者となって他人よりも多くを所有し、思うがままに欲望を充たしたいと心の内では願っている。カリクレスの言説は人々のそういう漠然とした、しかしきわめて根強い本音の欲心を明確な形で表明したものである」、また大衆の支持があることを背景とする自信を彼に与えての発言であり、反道徳の主張とつながるものである、と藤沢氏は『プラトンの哲学』で述べる。
この対話篇に描かれるソクラテスには「鉄と鋼のような論理」は確立していなかった。それから十数年後に完成を見た『パイドロス』では、イデア論を確立し終えたプラトンの「通俗道徳批判」の力強い言葉が聞かれるのである。世俗道徳への批判という点ではカリクレスもソクラテスもここにおいて変わりはない。しかし、カリクレスの主張は、「ノモス(法律・習慣)対ピュシス(自然))の構図でなされるのに対し、プラトンのそれは、哲学の営みであり、その道程の先に真実の徳が、〈正義〉や〈節制〉のイデアとして望見されると藤沢氏は指摘する。『ゴルギアス』でソクラテスに投げかけられた道徳批判を、『パイドロス』でソクラテスは投げ返したことになる。

おお、いとしき子よ、かくも偉大なる、かくもこの世ならぬこれらの数々の幸いを、恋する者の愛情は君に贈ることであろう。しかしながら、これに対して、恋していない者によってはじめられた親しい関係は、この世だけの正気とまじり合って、この世だけのけちくさい施しをするだけのものであり、それは愛人の魂の中に、世の多くの人々が徳とたたえるところの、けちくさい奴隷根性を産みつづけるだけなのだ。そしてそのあげく、この徳を、知性なきままに、九千年の間、地のまわりと地の下とを、さまよいつづけさせるだろう。
(『パイドロス』256E)

 いまやカリクレスの口から発せられた「自然の正義」の観念を深化させ、「よく秩序づけられた国のなかで生涯を過ごしたおかげで、哲学することなしに、習慣によって徳を身につけた者」(『国家』x619D)、「節制とか正義義と呼んでいるが、哲学と知性なしに習慣と訓練から生まれた通俗的な社会道徳を心がけてきた人びと」(『パイドン』32A‐B)に対して、世俗の徳と真の徳の区別を説いたのである。プラトンは哲学をすることによって、つまりイデア論の形成によって通俗道徳批判の視点を獲得したのであると藤沢氏はいう。ソクラテスの主張する「正義」や「節制」という徳が、社会通念のそれをのり越え、世間から蔑まされた哲学をほんとうの哲学として確立するためには、イデア論を待たなければならなかったのである。

 哲学のエロースと生
 藤沢氏は「プラトン『パイドロス』註解」において、「神的」と「人間的」の種類に区別して人間の魂と精神のありかたを分析している。それによると、①人間的エロース、② 人間的ソープロシュネー(節制・正気)、③神的エロース、④神的ソープロシュネーという四段階があり、③神的エロースにおいてはじめて知的本来の活動が美のイデアの想起というかたちで行われるという。そして④神的ソープロシュネーにおいて、その魂の秩序と調和を支えるものが、やはりイデアの想起としての知性の活動であるとすると、エロースとソープロシュネーは、ともに神的と読まれるものである限り対立するものではなく、同一の事柄の両側面を言い表したものであると述べる。
しかし、美のイデアを想起するとき肉欲はしりぞけられ、両者の一致はあるが実際の生活では持続は難しいであろう。イデアの想起はあっても、「魂が隙だらけになっている 」(256C)とき肉欲に負けるということがあるが、「時きたれば、恋の力によって、相ともに翼を生ずることなのだ」(256E)とソクラテスによって語られる。藤沢氏は「神的エロースとソープロシュネーとの一致が、一つの生き方として永続するためには、エロースが神的であるための知性の欲求が充分な、もしくは完全な状態において発現しなければならない」のであり、美は最も鮮明に私たちの知覚に訴えるが、美以外の「善」や「正義」などと連関しあいながら「真実性」の全体を想起しようとする努力の源となるもの、それが哲学のエロースであると藤沢氏はいう。つまり完全なかたちでのエロースの発現は哲学をする者において可能なのである。
かつてわれわれの魂はオリュンポスのそれぞれの神々の部隊に分かれつき従っていたとされる。したがって随行した神々の性格を分けもっているので、その神の性格に応じた生き方をするとされる。恋する相手をその神に似た者から選び、「求める相手をえて恋するようになると、その神の本性をはっきり想い起こすことにつとめながら、恋人と自分とをなおできるだけ、その神に近づけようと努力する」(藤沢氏)。つまり「恋する人は、相手の美しさによってエロースにめざめ、美のイデアを想起するとともに、自分の主であった神の性格を分けもっているところの恋人に、たえず熱烈なまなざしを向けずにはいられない」のである。「われわれゼウスの従者」(250B)は「生まれつき知を愛するような天性の者を恋の相手に選び、ともにゼウスにならって、上述のごとき愛知の生活に専念しようとする」のであると藤沢氏は解釈する。
 天上界において魂がどのくらい真実在を目にしたか、どの神々の部隊につき従ったのか、また地上における美のイデアの想起がどのくらいなされるかによって、たとえほんとうの愛情で結ばれた人においても段階があることが示されるのである。プラトンにとって完全なるエロースとは哲学的生において成就することが理想化されるのである。恋する相手に神の本性を思い起こすことで、自分と恋人を限りなく神に近づけようと努力することが「愛知者の生活」と呼ばれるものであろう。それは『饗宴』で語られた次の事柄に接続して考えることができるであろう。「 魂のうちにある美を、肉体のうちにある美よりも貴重なものと見なし」、年長者は若者たちを知識へと導き、「一人の少年の美とか、一人の大人の美、あるいは一つの営みの美というように、一つのものの美をありがたがってそれに隷属して、眼界狭小な人間としてあることのないように」し、「 美の大海原に向い、それを観想し、惜しみなく豊かに知を愛し求めながら、美しく壮大な言論や思想を数多く生み出し、ついにはそこで力を与えられ生長して、次のような美(まさに美であるそのもの)を対象とするごとき唯一のある知識を観取するようにするため」(『饗宴』210B~E)なのである。
 藤沢氏も指摘するように、③の神的エロースと④の神的ソープロシュネーの合致が理想型であるが、「畏敬の感情によって必ず肉欲はしりぞけられ」ることになるので、現実生活では「放縦の馬」によって肉欲に屈する場合がある」が、私たちの視覚に一番強く訴えかける美を知ることによって「善」や「徳」を知り、「死後の救いと祝福が保証される」のである。しかし私たちのさまざまな生は、この世に生を受ける以前の天上での、「随行していた神々の性格の違いによって(ミュートスのなかで)説明されている」。随行していた神に似た性格の人を恋の相手に求め、その神に近づけようと努力することになる。そのなかでも「ゼウス従者」であった者こそ「愛知の生活」に専念するようになると描かれている。つまり、ゼウスにかつて随行した者こそは神的エロースを甘受し、哲学的生を送るにふさわしい者として別格の扱いを受けているといえよう。



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