ヒーメロス通信


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季刊個人誌「ヒーメロス」22号、編集後記に変えて。

2012年10月22日 | 現代詩提言
「ヒーメロス」22号、編集後記に変えて。
小林稔


 詩作と理論は詩(ポエジー)における両翼である。哲学的思考が認識ではなく実
践行為と捉えられた歴史の鉱脈をさぐれば、詩作は哲学と表裏一体となる。

 哲学、神学のアナロジーにおいて「来るべき詩学」を確立させようとする私の不断の
研究課題は、ミシェル・フーコーの哲学的導きを得て、近代西欧の文学から古代ギリシア
哲学へと遡行することになった。いまだその途上にある。一方、井筒俊彦氏の著作からも
学ぶべき多くのことがあり、私はすでにその多くを読んできたのだが、彼の構想する東洋
思想の「共時的構造化」(東洋哲学を時間軸から外し、範型論的に組み替えること)の範
疇は、イスラム思想、ユダヤ思想、インド思想、仏教思想などと広範囲であり、そこから
詩学を構成するのは至難の業である。ましてや学問の自立を目指すものではなくそれら諸
々の思考から、類似的に示唆される言葉という存在形態と詩の成り立ちを考えていこうと
いうものである。私は、特に『意識の形而上学』、『意識と本質』、『神秘哲学』などの書物を
数度、年月を経て読んできた。詩が生み出される場は一詩人の「行為のレベルで獲得される
ものである」(西一知)から、広い意味での経験が求められる。したがって詩を書くには難し
い知識を必要としないという人たちも多いが、経験する一詩人の感受性に、歴史から学んだ
多くの思考形態は当然影響を与えるだろう。                          
連載エセー、井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を求めて)解読、第一回より。

 詩は言葉で書かれる。言葉で始まり言葉に終わる。しかし言葉は物が存在するようにある
のではなく、物あるいは事を表出する媒体と考えられている。一詩人が言葉を用いて詩を書
くとき、それらの言葉は長い歳月の過程で、多くの人たちの手垢にまみれたものであり、彼
らの物事への思いによって少しずつ変遷をしてきたものであるから、言葉の背後には広大な
時間が広がり、彼方から引き寄せられた祖先の魂が現出する。しかも詩は一詩人の生の場に
おける経験、日常的経験世界に亀裂のように訪れるものであろう。
 連載エセー、井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を求めて)解読、第二回より。

 ネットの私のブログ『ヒーメロス』では、同人雑誌評、詩集評、私の詩集の紹介などをし
ています。上記の連載は7月に始まり、適時続けられています。現在十一回目を終えていま
す。興味のある方は検索してみてください。


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