ヒーメロス通信


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北条裕子「無告」、詩誌『木立ち』第111号、2011年12月25日発行

2012年03月23日 | 同人雑誌評

贈られてきた同人雑誌から

「木立ち」第111号

北条裕子氏の「無告」を取り上げて見よう。

  夕暮れて 歩いていたら
  いつのまにか
  見知らぬ原っぱに出た
  「ここが世界の端っこです」 と書かれた
  立て札がたててある
            「無告」第一連

 「世界の端っこ」とはこの現実世界が冥界に譲り渡す境界であろうか。
詩人は「供養のために 靴を 樹の枝にかける」が、傍らに咲く百合に
気づく。百合は死者たちの化身である。

  夢のようなものを追い求め 夢のような気分で生きてきたつけがまわってきて
  雨風のなかを追い立てられ 奥歯を噛みしめ ひたすら逃げている
            「同」第四連の部分

 詩人は日々、現実世界に暮らしているが何一つ確実なものが求められ
ず、このまま「痛痒も感じない」まま生きてきたことを知る。

  この世は地獄に似ている
  もしかしたら 天国の方が もっとずっと似ているかもしれない
            「同」第六連

 この世に天国と地獄の両面を見ている詩人がいる。
 しかし、書くという行為、言葉を頼みの綱にして己の存在を明かそう
とする者は、一つの閾を往来する存在に違いないだろう。

  物語に 心を奪われて 肉の手触りを手放して 久しい そのうち ばたんと扉
  を閉められた もうここからは入ってこないでということなのか
            「同」第七連の部分

 エクリチュールの領域も言葉で表現される以上、非現実に突入せざる
をえないのである。対概念としての冥界があってはじめて現実がその輪
郭を浮彫りにするのだろう。「いま、この時、この現実」を解き明かす
には「古代」への強烈な吸引、憧憬が要求される。かつてのボードレー
ルが「移りいくもの」に現代性を見たのは、「古代」の永遠をこの世界
に連れ戻そうとしたが絶望し、現代の事象と二重写しに見ていたからで
ある。さて、嘆いて騒ぎ立てているだけでは現実からの抑圧に対してガ
ス抜きをしているにすぎないだろう。詩人は生きる道を、「生存の技法」
を示すべきである。フーコーはボードレールという詩人をそのように
見ていた。言葉によって先の時間を作り出していく存在としての詩人の
姿である。我われの現代詩にとっての課題なのではないか。
 詩誌「木立ち」の発行者である川上明日夫氏は、後記で「人生の向こ
う側がふっと垣間みえる時があるように、いつだって文学は哀愁なので
ある」と書いているが、私にとって文学は哀愁ではなく反抗である。





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