贈られてきた同人雑誌から(4)
柳生じゅん子「城内一丁目」詩誌「タルタ」20号2012年2月28日発行
もうここには来られないかもしれない
早朝の城跡を訪ねると
降りたったばかりの陽ざしが
足もとをはずませている
(第一連)
作品の冒頭四行はとてもわかりやすいのだが、読み進めていくうちに読み手を立ち止まらせる詩句に出会う。
手を前にふるたびに
濁った血の流れの渕に潜んでいた
魑魅魍魎たちが
次々と抜け出していく心地がする
もっと腕を突き出せば
こんがらがってきた神経叢に
失われた時間が ともるのだろうか
(第二連)
手を腕を突き出すとは、世界に自己(内面世界)をさらしていく行為と読み取れるように思う。つまり世界と自己との対立がある。詩人は内面を探求する者であるから、現象的な世界とは齟齬を生じさせてしまう。第三連では松の木々の健やかな生長を描きながら、「私」の内面の鬱屈を吐露しているのであろう。
けれど わたしの言葉の地平は
歪み 崩れやすくなってきた
紡いできた物語は一夜にして転がっていく
(第三連後半)
「言葉の地平」という詩句を表出することで、詩人は現在感知する心の状態を言葉で捉えようとしていることがわかる。この特異な心の移り変わりを、個別性を表すには本来向いていない言葉というもの、(言葉は概念であり、普遍性に向かう特質をもたされている)を駆使して書きとめようとする。表現の技法が要求されるが、一般的な描写の作業を越えて、言葉の領域からの呼びかけに応えようとする。そこで詩人は自己を導いていく詩句を探っているのではないだろうか。自己を反響させながらも言葉を先立たせていこうとする、まるで自ら発した言葉が「私」にとって啓示であるかのように。これはエクリチュールに身を委ねた行為であるといえるだろう。詩人は書き上げた一編の後にさらに未知なる自分を生成しつづけようと書くことをやめないだろう。
「深いまなざしのなかにいる後ろめたさ 気恥ずかしさ」と詩人は記しているが、詩人とはこのように世界から孤立しなければ己を確立できない存在である。なぜなら言葉の深みから到来する詩(ポエジー)を、ひとりの個別的な生の舞台で受け留めようとするからであろう。さらに言葉との格闘を通して「生の変革」を求める詩人もいる。柳生氏はそうすることに躊躇しているようである。
今回取り上げた柳生氏の「城内一丁目」には魅力ある詩句があふれていて心惹かれた。
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