ヒーメロス通信


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二宮清隆「王冠」・中尾敏康「義眼」。詩誌『晨』第四号2011年12月10日発行。

2012年03月01日 | 同人雑誌評

贈られた同人雑誌から(2)

二宮清隆「王冠」、中尾敏康「義眼」・詩誌『晨』第四号2011年12月10日発行

二宮清隆「王冠」
 私が住んでいる埼玉県で発行されている詩誌である。清楚な表紙と美しい
編集が目に付く。今回の四号では、私と同世代の詩人であろう二人の詩に心
を惹かれた。
 
 二宮清隆氏の「王冠」

  蛇口から一滴の水が
  汲み置き水に落ち
  残映が
  瓶の栓の王冠のように撥ねた
              「王冠」第一連
 
 詩のタイトルともなっている「王冠」は何を意味しているのか。七十年安
保運動に参加したものの、「破壊的な学園紛争派」とは一線を引き、「私」
は政治闘争から脱落していったという。「闘争心が腐乱していく夏 / 私は
 ただ 抜けた」と二連の最終行に書かれている。浅間山荘事件から今年で
四十年が過ぎた。七十年安保に学生であった世代が受けた傷は、その後の人
生にさまざまな形で傷跡を残し老年期を迎えようとする現在でも消えること
はないであろう。学生運動が内ゲバという悲惨な結末をみせたことを報道で
知った後の四十年間、我われはそれぞれどのような道程を辿ったのか。

 犬の声が遠くでする浜辺
 湘南の太陽が溶けていく海に入ると
 荒ぶる土用波に攫われ
 小石で ただ 肘や膝を傷つけた
                「王冠」第四連

 その時すでに文学に熱狂していたのであれば、政治と文学の葛藤、あるい
は連動に苦悩していたはずだ。そのときの文学観は今も直線状につづいてい
るか。転向はあったのか。私個人としては、これまでの人生を振り返り、七
十年当時の、現在に及ぼす意味を問わずにはいられないのである。

 夜明け前
 気の荒い祭の男衆と神輿を担いで
 古い路地を練り歩き 朝方
 誘導する警察官たちと烈しく揉み合い
 憚ることなく
 粉砕粉砕と唸り
 神輿ごと海に突っ込み
 ただ ざんぶと深く落ちて
 一瞬だけの王冠となった
             「王冠」最終連

 挫折後に湘南の海で自分を責めたという設定になっている。祭の光景が描
かれそこに参加した「私」は警察官とぶつかり合う様子が書かれているが、
詩人の脳裡には、かつての学生運動と機動隊との衝突が二重写しになる。海
に落ちた神輿が消えた後に、詩人は王冠の形象をそこに見たのであった。
「青春の蹉跌」として捉えるのは感傷的である。しかし、「王冠」は青春の
特権を象徴しているようでもある。残されたこれからの人生において、私た
ちは文学行為を駆使し執筆をいかにつづけるかにすべてがかかっているので
ある。


もう一つの作品に移ろう。

中尾敏康「義眼」
 
 この作品も海を背景にした詩である。彼方の海から陸地に押し寄せる波は、
東日本大震災の津波を思わせずにはおれない。

 海の底
 微醜をおびた主が
 午後のはやい時刻
 溟いみどりの水を吐き
 ねむろうとしたそのとき
 なにか光るものが眼にはいり
 おもわずてのひらを翳した
             「義眼」4~10行目

「光るもの」とは、詩人には「あの人の/ 義眼のような気がしてならない」
とあるが、「あのひと」とはだれであるかを最後まで明かさない。

 海におちる入射角が
 曇った眼の光る一瞬に似て
 空気が痙攣し
 脊髄がこまかく顫え
 海月みたいにながくながく放尿するのだが
 それは儀式にすぎず
 やがて廃疾にいたる
 世界を
 朝夕私は怖れつづけた
        「義眼」27~35行最終部分

 海に沈んでいく太陽の描写がすばらしい。太陽と海面の間近くに陽炎のよ
うに空気が振動している。海が我われの生存領域を侵食し、人間を含めた自
然界の滅びに向かわせる眼に見えない恐怖を、奇怪な「海月」の排尿のイメ
ージと生殖のイメージを表出させながら、惹きつけられていく詩人がいる。
不可思議な自然を比喩を使い想像して描かれる世界。震災以後、自然界が与
える恐怖に私たちは怯えている。しかし人間は昔からそのような自然を畏怖
し闘い、生き延びてきたのであろう。海の底にいる「主」と太陽。自然の力
の大きさに対して、人間の矮小さをあらためて感じさせる詩であった。
 
 安易に比喩されるものを明かさないイメージ中心に描写された作品である
が、そのイメージが我われの意識の深部にまで届き、何かを浮上させるかど
うか。私はもう少し読み返してみたい。


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