ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔詩作品「重力と恩寵」詩誌「へにあすま」より

2015年11月26日 | ヒーメロス作品

重力と思惟

               小林 稔

 

時の重さに背中をおされて

砂礫の岸辺にたどりつく

振り返っても振り返っても

もうとりかえせやしないから

闇に浮かぶ縄をつかみ

足許の薄明かりを頼みに

枝にさえぎられながら

野の深みにひきずりこまれた

地は引き裂かれ海は荒れ狂う

鳥たちは古巣を旅立ち

獣たちは太古の血にふるえ

月にむかって吼える

 

かつて私にもあった

情愛が奏でる室内の片隅

他者と私はひとつに絡みあい

翼の痕跡は美のまなざしに羽ばたき

よろこびあふれひかり満ちた無何有

あの真綿につつまれた日々はかえらず

おとなう過客の足跡を身に印す老いの果て

わすれものをわすれついに骨になる

ならばこの時をせめて生きつくそうと

一日のはじまりを知らせるひかりは

本の背文字を浮かびあがらせ

いくつものかたちを呼び起こして

経験の縛(いまし)めから紐とかれようと叫んでいる

闇の内奥にひとつの煌(きらめ)くまなざしがある

種の混交と事象の陰翳をうしろに曳いた私と

出会いの偶然を宿命と違えた他者の白兎のまなざしを

窺い知るもうひとつのまなざしがあった

人形(ひとかた)にひたすらこがれこがれこがれて

肉群(ししむら)を超え重力と別れる私の思惟のゆくえを追う

 

知ることの愉悦とうしなわれた記憶の水辺に

砂漠で摘んだ一輪の花をたむけていく

 

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井筒俊彦『神秘哲学』再読(三)

2015年11月26日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(三)

小林稔

 序章Ⅲ

 

 一九七八年の「新版前書き」で、『神秘哲学』は最初一巻本として出版されたが、今回の新版で第一部、第二部と二巻本に分けて出すことになったことを述べている。第二部は戦後、病床になりながら生死の限界において書かれたことを告げる。第一部の「自然神秘主義とギリシア」は文学部の助手であったころの講義のノートを基にして書かれたものであるという。ほぼ四十年前の執筆当時を振り返り、「精神的現象の内蔵する哲学性、神秘主義的意識の次元における哲学的思惟に対する関心」だけは一貫して守り続けてきたことを確認する。「形而上学的思惟の根源に伏在する一種独特の実在体験を、ギリシア哲学というひとつの特殊な場で取り出してみようとする試み」であったという。「神秘主義と哲学の関係」は唯一プロティノスには明白であるが、プラトンやアリストテレスにおいては一般的には異論のあるところである。しかし井筒は、「ギリシア的思惟の底には、少なくとも密儀宗教的な神秘体験のパトスが渦巻いているという確信があり、そのパトスを明確に表面に取り出さずにはギリシア哲学へのアプローチは有りえないという信念があった。それは権力論から主体論に転回した、ミシェル・フーコーの古代哲学の基底にある「哲学と霊性」と共通する概念である。だが、四十年の「神秘主義的実在体験の哲学化の可能性」を顧みて、今なら直接に東洋思想、唯識、華厳のような大乗仏教の思想や老荘、ヴェーダンタ、スーフィズムといった神秘主義と哲学の内的連関が意識的な東洋哲学の伝統に向かうだろうという。

『意識と本質』以後に明確化した「共時的構造化」を展開しようとする井筒の脳裏には、広漠たる領野が広がり、気の遠くなる想いに暮れたであろう。だが、西洋の文学と哲学に全身を浸した迂回路の果ての東洋の発見は決して無駄ではなかった。彼自身にとってだけではなく、後に残された私たちに、有意義な遺産を残すことになった。この『神秘哲学』は、プラトン哲学に関心を寄せ、井筒のやり残した東洋哲学の継承を志す私に、井筒の辿った道を歩ませ、さらに東洋哲学の探求の径庭を拓く力を与するものである。