ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

タペストリー3~6小林稔

2015年11月14日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品

ペストリー(3~6)小林稔

タペストリー 3

 

 昨日の広場の喧騒が遠くに広げていく視線の先から消えて、頁を改めるように、

この街を去る私の緩慢な足の動きが早朝の空気に駆り立てられ、いつものよう

に少しずつ速められる。街が眠りから解かれ、店先には赤や黄色の果物が歓喜

の声をいっせいにあげ、隣ではカフェの椅子を広場に向けて設えはじめるころ、

台座の上で両腕を広げたブロンズの彫像の建つ広場の中央を人々がせわしなく

通り過ぎる。彼らの背を追うように私も列車の駅に向かった。

 

絶えず私は問いつづけた、おまえは何を見、何を創ろうとするのか。

 

太陽の沈まない白夜、雪の山頂の傾斜に太古から流れる氷河を私は見た。首都

の一角で異民族たちが群れをなし暮らしているのを、白昼の路上、銃で打ち合

う男たちの乱闘を、片手片足をなくした子どもたちを橋上で見た。

 

私は欲求した、一つの精神を、言葉と一緒に立ち上がる一つの肉体を。あなた

の不在を知らせる残り香を求め、重い荷を背負い路地から路地を走り抜けた。

 

 

タペストリー 4

 

西から東に延びるいくつもの砂礫の道が集結する古都。ふくよかなドームがそ

びえ立つ寺院に入ると、暗闇の回廊から一気に光の洪水に襲われる。盲者とな

ったわたしは、おまえは限りなく不幸だという空から降りた声に引き寄せられ、

世界の悲惨を重ねて、青い円蓋から散る黄色い花びらが舞うなか、内庭の中央

にある井戸の方によろけながら歩いて行くと、井戸の底にはかすかに水の流れ

る音がして私の耳に届いた。あのとき私は確かに呼ばれたのだ。いまおまえの

いる場所からおまえの血であり肉である身体を異なる人々と知られざる邦に彷

徨わせ、以後のおまえの生は旅人の宿命から遁れることはないという声を。

 

私はいつもひとりだ、生まれたときと同じように、そして死ぬときもまた。し

かし私は、気がつけば人ごみのなかにまみれ、変貌する街を過ぎる人いきれを

吸い込み、旅の記憶をそこに重ねながら、ひたひたと寄せる時を移ろいゆく身

体に刻んでいる。

 

 

タペストリー 5

 

歳月にそぎ落とされた形姿はそぎ落されたゆえに、本質にかぎりなく近づいて

いく。風に飛ばされた断片は永遠に失われ、空白を創造で満たそうとしても時

 をうしろに見送るようにむなしく、失われた部分を取りつけ原型に近づけるこ

とはさらにむなしいというより愚かな所作である。真なるものは形なく伝えが

たいもの、伝えがたさを伝えるために言葉は書き留められねばならない。

 

祝祭はまた来るだろうか。歓喜の、陶酔の、あなたとの邂逅のエクスタシーの

ただなかで生の横溢を身体に浴びて健康のもとで草むらを転げまわるような。

 

言葉こそがあなたと私をつなぐ橋である。混沌の闇から現われ出るのっぺらぼ

うのあなたが一つの貌を持ち、私のまえに立つとき、あなたの青空のような清

涼な眼差に私は身を焦がすだろう。私があなたと、あなたが私と輪郭を重ね合

わせたいという互いの欲望のなかで一つになるだろう。そのときまで私は言葉

を訪ねつづけるのだ。

 

 タペストリー 6

 

 時の迅速な流れは止まることなく

追億に映し出される人生は

滔々(とうとう)と流れる大河

神経の痺れが意識の岸辺に辿りつく

〈死の領土〉の敷居を跨ぐようにと

睡魔がしきりに手のひらを返す

 

波は舟に横たえた私の身体を揺らし

遠ざかりつつ近づく石の建物の群れを

私は一つ二つと数えている……

……眠れよ眠れ、この静かな真昼

少年の息の根をふさぎ

 引き抜いては小わきに抱え

連れ去ろうと夢見る邪悪なものから逃れよ

 

とある駅前広場

左から右から寄せる人ごみからはみ出し横切って行く

坊や、人生は残虐だ

おまえのかろやかな立居、たおやかな身体

家庭の日常から遮断され

おまえがそこにいることがすでに奇跡だ

かりそめの形姿を身にまとい立ちすくむ者

この不可思議な生きものでさえ

時は無数に伸びたその足で容赦なく踏みにじる

 あこがれを牽引させ、虚空に私を引っ張りだす

そいつはいったい何者か、と問う私に

そいつはかつてのおまえだよ

という声がどこからか返ってきた


新刊・評論集「来るべき詩学のために(二)」後記・小林稔

2015年11月14日 | お知らせ

新刊・評論集「来るべき詩学のために(二)のあとがき

小林稔

 

後記

 

本書は昨年刊行した『来るべき詩学のために(一)』に続く書物として出版されるものであり、今後シリーズとして次々と刊行する予定である。内容的には、やがて書かれるべき私の「詩学」の準備であるが、芸術全般はもとより、哲学、政治、宗教と詩の領野は広範囲に及び、なおかつそれらとの独立を明らかにしていこうと目論んでいる。

 評論は、私にとって詩作と相携えて進むべき「生の営み」の両輪であるといえる。自由に精神を羽搏かせるポエジーに理論は枷となるものであるという考えも一方で存在するであろうが、束縛のないところにほんとうの自由もない。かつて井筒俊彦が『意識と本質』の後記で言ったように、「共時的構造化」を創り出すために「全体的統一もなければ、有機的構造性もない」東洋哲学を、「西洋哲学の場合には必要のない、人為的、理論的思惟の創造的原点となり得るような形に展開させ」たのであったが、私たちの詩の領野においても、かつての先人たちの詩作や哲学の思索を自らの詩作行為に継続させることは少なく、むしろ探求するより早くそれらから解き放たれるべく詩作する場合が多い。しかも、立ち去った場所が、西洋思想に示されるような伝統的基盤のない、つまり統一性のない基底であるならば、反抗も自由もない。まして西洋の思想界から自らの思想の限界の提示が私たちに知らされ、東洋思想の智慧が待たれているのである。

 今回の『来るべき詩学のために(二)』は、前回とフィールドが異なり、同時代の詩人たちの詩を論じ、現代詩の源流をさぐろうとするものである。時期的には二〇一一年の東日本大震災を跨ぐことになり、それぞれの論考に爪跡を残している。詩人は文明のもたらす必然から逃亡することなく、精神の自由であるポエジーの獲得(勝利)を目指していかなければならない。錨を解いたばかりのこの舟旅に、未熟な部分も多々あるであろうが、読者のご教示を待つばかりである。

      

       二〇一五年八月二十日

                                  著者識