ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社刊行より

2015年11月20日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

髀肉之嘆(ひにくのたん)

小林稔

 詩集『遠い岬』2011年以心社より

  

  一

 

遠い日の木霊であった貧者の私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴い

たように思う。昔日私は一頭のライオンを引きつれ砂漠を旅した。

凍てつく夜と灼熱の白昼を耐え忍んだ。砂に埋もれた獣の骨は数知

れず、日日に彷徨う陣営でそれらを蒐(あつ)めては祭壇を築き、かつて髀(ひ)

の国の王であった父のたましひを鎮めるために祈った。

 

不穏な日のことであった。虚空を曇らせる一羽の鷲が頭上高く旋回

した。蓄えの肉を狙うのかと訝り瓦礫を投げつければ、二発目に命

中する。私の唯一にして高貴なる盟友ライオンはその肉に敏捷に喰

らいついた。傍らで私が読み耽る書物は乱丁ばかりであった。

 

砂の丘を越えた地平に集落があり、その背後には波が縁取る海があ

った。動きを止めた海は一幅の絵であったが、歩み寄れば激しい波

音がしきりにして思考不能に陥るのであった。廃屋の立つ一隅に古

い井戸があり黒い布に身を纏う数人の女たちがいた。私の盟友は見

えないらしい。彼女たちの声が波音に消され唇の忙しない動きは鳥

のそれであった。どちらから来られたのですか、という声を直覚し

た私は、髀の国より来たという声を意中に収めて伝え退散した。

 

天に聳え立つ石塔に絡みつく老木があった。ねじ伏せるように螺旋

を巻きながら昇る幹は干からびて枝葉もない蛇。石に刻まれた朱色

の文字は尖端に這い上る蛭のようであった。渚では二頭の牛が波に

遊ばれた舟を男の引く綱で陸へ牽引しようとするが、激しい風で舟

は水際に動こうとしない。

 

私の歩みは追憶に過ぎぬのであれば足跡と呼びうるものをうしろ向

きに消していくことであろう。盟友ライオンの誘導に身を託し、砂

の造る流線が左から右から落ちる谷を彷徨うことしかあるまい。風

に舞う砂が私を激しく打って通り過ぎた。

 

幼年の退却を待ちながら宿命からの遁走は私の歎願すべきことと悟

って、昔の饗宴の謎を解くために十七歳の私は祖国を放擲した。私

の旅立ちを父はよしとしたが、まもなく隣国の四つ辻で父の訃報を

耳にしたのである。出立とは我が現世(うつしよ)との永訣と心得ていた私は冷

酷にも祖国に向けて踝を翻すことなく砂漠に足を向かわせた。

 

惜別の日から数えて十三年目の朝、砂塵が舞い上がり、その奥から

砂埃を破って吼え立てる一頭のライオンが姿を誇示するかのように

現われた。吃驚(びっくり)した私は直ちに卒倒した。気がつくとライオンの獰

猛な顔が私の眼前にあった。臥して鬣(たてがみ)を振り顔を横に向け大きな

口を開け遠吠えをした後、比べようのない悲しい表情を見せた。す

ぐさま立ち上がった彼は、しめ縄のような尾を立て私を促し勇壮に

歩き始めた。以後において私は彼の影と交錯しては旅をつづけた。

 

脳髄を一陣の雲が次から次に流れた、すばやく巻きもどされたフィ

ルムのように。雲は始原へと立ち急ぎ水になり土になる。雲に映写

された私の幻像があった。みるみる若さを奪還しついに胎児の形に

丸くなり、さらに様々の生き物が進化を遡行し地球から投擲された。

 

春の陽光が庭の花弁に射すころ、寝屋の暗がりにて赤子の悲痛なる

泣き声があった。なんという時空の長さを曳いて私はこの砂土に立

っていることか。祖父に背き母に背き姉に背き父に叛いたのは一途

に真の生を追い求めてのことであった。

 

私に撒(ま)かれた種子たちが場(コーラ)を与(くみ)し花ひらくために、記さねばなら

ぬ、衰退の傾斜を私の腑が転がり終えるまでに。

 

 


小林稔詩作品「泉」・詩誌「ヒーメロス22号」2012年12月掲載。

2015年11月20日 | ヒーメロス作品

小林 稔

 

 

 

水が足首に触れ流れてゆく。わたしは立ちつくして時間を遡る。足

底にまといつく疲労が泉に溺れた視線を探して。

 

いくつも重ねられた帳の奥に

見知らぬ者の瞳の閃光。

 

旅はいつまでつづくのか。おそらく命あるかぎりとはいえそれほど

の長い刻(とき)ではなく、われらの瞬きの間(ま)に間(ま)に跳ぶ矢の一投のように。

 

それをアランブラーの裁きの内庭に喚起しようと、イスファアンの

王の聳え立つ円蓋の青にこころを塗られつくそうと、あふれんばか

りの光に照らされ称えられてある誕(はじま)りの喩ではないのか。

 

泉よ、わたしをさらにわたしの暗処に曳きずり込む水の竪琴よ。巻

貝の螺旋を辿るように、いくえにも広がる波動のゆくえをわたしは

追っている。いく度も行く度によみがえり再生する魂は、滅びゆく

身体から剥離することを切望し、羽化する瞬時を狙っている。いか

なる宿命の生に記憶されたのか、僧侶の想いの伽藍の奥に、あなた

の限りある命の音が瀧のように煙っている。

 

 

                 アランブラー・アルハンブラのスペイン語読みで赤い城壁のこと。