ヒーメロス通信


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井筒俊彦『神秘哲学』再読(四)

2015年11月27日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(四)

小林稔

 

第一部 自然神秘主義とギリシア

 この新版に、一九四九年に刊行された当時の覚書が掲載されている。それによると、ソクラテス以前期の自然学が発生するに至る、時代環境や思想的基盤がいかなるものであったかを叙述することが目的であることを述べ、一般的にはタレスに始まるとするギリシア哲学史ではなく、ギリシア哲学以前の精神史的背景を探り出し、ギシリア的知性を生み、哲学と科学を与えた伝統を広範囲な視野において取り出してみたいと思ったのだという。

「抒情詩から自然哲学に移行する中間期に自然神秘主義体験を置く井筒の哲学が、バーネットによる文献学的実証によって学問性を否定された、ニーチェの神秘主義的解釈を知るわれわれであるなら、なぜいまさらと思われようが、抒情詩と自然学を繋ぐ精神史の流れの連続しつつ断絶している様相を明確にしたいのだと主張している。

 

第一章 自然神秘主義の主体Ⅰ

 

 はじめに直観があった

 井筒の心を呪縛した、ディールズの「ソクラテス以前期断片集」を通読した最初の日に感じた妖気のごときもの、「巨大なものの声」の正体を若年の彼が突きつめようとしたことが事の始まりである。根源に宇宙的体験があり、その虚空のような形而上的源底からあらゆるものが生み出されてくるという。「初めに直観があった」、つまり絶対的体験というべきものがあったのである。それを井筒は、「自然神秘主義的体験」と呼ぶ。人間の体験でなく、無限絶対な存在者としての「自然」が主体なのだ。絶対的超越的主格。「宇宙万有に躍動しつつある絶対生命を直ちに「我」そのものの内的生命として自覚する超越的生命の主体、宇宙的自覚の超越的主体としての自然を意味する」という。消えやらぬ熾火のような井筒の一途な情熱がひしひしと感じられるエクリチュールである。(『意識と本質』の文体と比較してみよ!)それゆえに彼の主観に沿って私もまた精神の高揚を体験させられるのだ。ソクラテス以前期の哲学者の言語を絶するこの自然体験を確証するには、彼らと同じ直観をもって深遠な宇宙の秘儀に参入しなければならない。そうすることによって、彼らの言語以前の体験からロゴスの世界が開けてくるプロセスを観ることができるというのである。宇宙に躍動し充満する生命を自らその中に身を浸すことによって、相互に己の生命と感応しロゴス化した、かつての偉大な哲人の体験を私たちも追体験し、ギリシア哲学発生の現場に立ち会い主体的に把握することの重要性を井筒は主張する。

 学的認識の根本条件は客観的であることにあるのだが、「神秘主義に関する限り、徹底的に主観的であることこそ、かえって真に客観的である所以なのではなかろうか」と井筒はいう。なぜなら神秘主義的体験を客観的に外側から観察し客観的に捕捉しても「死した死骸のほか何物も見出されないからである」という。