「大友の皇子 東下り」
豊田有恒著 講談社文庫
古本屋で見つけて、懐かしいなあと思って購入。僕が中高生の時は、結構、SF小説が人気があって、角川文庫や徳間文庫などがこぞって新刊を出してたよねえ。今は、現実が追いついたのかあんまりSF小説っていうジャンル分けを特段していないようになった気がする。豊田有恒という作家は、日本のSF小説の黎明期から活躍している作家で、僕も当時、星新一、筒井康隆の次ぐらいに読んでたし、特に歴史SFというジャンルでは追随者はいなかったように思う。
僕も「倭王の末裔」「倭の女王 卑弥呼」「「親魏倭王 卑弥呼」といった邪馬台国を題材としたものは、確実に影響を受けた。特に東アジア、特に朝鮮半島の動きと密接に関係があるのだという視点は、新鮮であった。
今回の「大友の皇子 東下り」という長編も当然、同じ視点のもとに書かれている。(たぶん、この小説の前に同じ題材の短編小説もあったと思う。集英社文庫に収録されていた記憶がある。)壬申の乱で大海人皇子に大友皇子が敗れたあと、東国へ下っていく話である。モチーフになる伝説も千葉県の君津というところに残っているそうで、大友皇子の陵墓と伝わる古墳や大友皇子を祀る社等が残っているらしい。ただ、宮内庁が指定している弘文天皇陵(大友皇子は明治になってから弘文天皇という名を追尊されている。)は、滋賀県の大津にある。さらに記述すると、弘文天皇陵に治定されている古墳は、どうも古墳時代後期に築造された円墳であり、弘文天皇陵としては時代が合わないそうだ。
大友皇子が東国へ下っていくにあたって、5人の百済人が付き従っていく。最後には全員が皇子を助けるために、身代りにまたは楯となって死んでいくのが何とも物悲しい。大友皇子については、叔父の大海人皇子に裏切られ、妻の十市皇女にも裏切られる。身内はすべて裏切って命を狙うのだが、本当は何の縁もゆかりもない百済人だけが、近江朝が百済人を登用していたということだけで命を落としていく。救いは、耳面刀自の存在だけ。エンディングは、大海人皇子との一騎打ちに勝つものの、とどめを刺さず、いずこともなく去っていく。(伝説では、東国の地で大海人皇子に攻められて命を落とすことになる。)
大友皇子自身は、母の身分は低かったもののかなり評判のいい人物だったようだ。当時の漢詩集「懐風藻」にも「太子は天性明悟,博く古を雅愛する」と評されている。
一方、大海人皇子は、天智天皇の皇太弟とされるものの、天智朝以前の動向があまり知られていない。中世に書かれた史書によると、天武天皇の生年は、天智天皇より前になっていて、弟ではなくなってしまう。そういった史書の混乱が、本書の大海人皇子像のベースとなっている。(同じ題材を使ったタイムパトロールものもあったと思う、。)確かに壬申の乱以前に大海人皇子が出てくるのは、万葉集での額田王とのやり取りぐらいである。
大友皇子という名前は知られているが、源義経の伝説のようにこの伝説は知られていない。歴史の片隅に埋もれた物語である。
豊田有恒著 講談社文庫
古本屋で見つけて、懐かしいなあと思って購入。僕が中高生の時は、結構、SF小説が人気があって、角川文庫や徳間文庫などがこぞって新刊を出してたよねえ。今は、現実が追いついたのかあんまりSF小説っていうジャンル分けを特段していないようになった気がする。豊田有恒という作家は、日本のSF小説の黎明期から活躍している作家で、僕も当時、星新一、筒井康隆の次ぐらいに読んでたし、特に歴史SFというジャンルでは追随者はいなかったように思う。
僕も「倭王の末裔」「倭の女王 卑弥呼」「「親魏倭王 卑弥呼」といった邪馬台国を題材としたものは、確実に影響を受けた。特に東アジア、特に朝鮮半島の動きと密接に関係があるのだという視点は、新鮮であった。
今回の「大友の皇子 東下り」という長編も当然、同じ視点のもとに書かれている。(たぶん、この小説の前に同じ題材の短編小説もあったと思う。集英社文庫に収録されていた記憶がある。)壬申の乱で大海人皇子に大友皇子が敗れたあと、東国へ下っていく話である。モチーフになる伝説も千葉県の君津というところに残っているそうで、大友皇子の陵墓と伝わる古墳や大友皇子を祀る社等が残っているらしい。ただ、宮内庁が指定している弘文天皇陵(大友皇子は明治になってから弘文天皇という名を追尊されている。)は、滋賀県の大津にある。さらに記述すると、弘文天皇陵に治定されている古墳は、どうも古墳時代後期に築造された円墳であり、弘文天皇陵としては時代が合わないそうだ。
大友皇子が東国へ下っていくにあたって、5人の百済人が付き従っていく。最後には全員が皇子を助けるために、身代りにまたは楯となって死んでいくのが何とも物悲しい。大友皇子については、叔父の大海人皇子に裏切られ、妻の十市皇女にも裏切られる。身内はすべて裏切って命を狙うのだが、本当は何の縁もゆかりもない百済人だけが、近江朝が百済人を登用していたということだけで命を落としていく。救いは、耳面刀自の存在だけ。エンディングは、大海人皇子との一騎打ちに勝つものの、とどめを刺さず、いずこともなく去っていく。(伝説では、東国の地で大海人皇子に攻められて命を落とすことになる。)
大友皇子自身は、母の身分は低かったもののかなり評判のいい人物だったようだ。当時の漢詩集「懐風藻」にも「太子は天性明悟,博く古を雅愛する」と評されている。
一方、大海人皇子は、天智天皇の皇太弟とされるものの、天智朝以前の動向があまり知られていない。中世に書かれた史書によると、天武天皇の生年は、天智天皇より前になっていて、弟ではなくなってしまう。そういった史書の混乱が、本書の大海人皇子像のベースとなっている。(同じ題材を使ったタイムパトロールものもあったと思う、。)確かに壬申の乱以前に大海人皇子が出てくるのは、万葉集での額田王とのやり取りぐらいである。
大友皇子という名前は知られているが、源義経の伝説のようにこの伝説は知られていない。歴史の片隅に埋もれた物語である。
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