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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

古市古墳群をあるく ~巨大古墳全案内~

2016-01-05 16:45:07 | 読書日記
 「古市古墳群をあるく ~巨大古墳・全案内~」
 久世 仁士著 創元社

 以前、「百舌鳥古墳群をあるく ~巨大古墳・全案内~」をこのブログで取り上げたが、本書はその姉妹編で古市古墳群を取り上げたものである。古市古墳群、百舌鳥古墳群共に世界遺産に登録しようかという著名な古墳群なのだが、古墳群について真正面から取り上げた本って意外と少ない。例えば、新泉社の「遺跡を学ぶ」シリーズでは、大仙古墳(タイトルは「仁徳陵古墳」)のみそれ以外の古市、百舌鳥古墳群を採り上げていない。陵墓等に指定されている古墳が多いので、なかなか調査とかされていないためかもしれない。
 
 今回は、国内2位の規模を誇る古市古墳群がテーマである。
 本書に内容は以下の通りである。

 序 章 古市古墳群がつくられるまで
 第1章 古市古墳群をあるく
 第2章 南河内の前期古墳
 第3章 河内平野の開発と渡来人
 第4章 巨大古墳と陪塚
 第5章 陵墓公開運動と古市古墳群
 終 章 河内飛鳥を守った人々

 古市古墳群については、4世紀の後半から6世紀の前半にかけて150基あまりの古墳が築かれている。一緒に世界遺産の登録をめざす百舌鳥古墳群よりも早く古墳群の形成が始まり、終結もやや遅いと思われる。ただ大王墓とみなされる古墳は、両古墳群に跨って築造されている。本書によると、佐紀古墳群の五社神古墳についで、仲津山古墳(古市)⇒百舌鳥ミサンザイ古墳(百舌鳥)⇒誉田山古墳(古市)⇒大仙古墳(百舌鳥)⇒土師ニサンザイ古墳(百舌鳥)⇒岡ミサンザイ古墳
(古市)という順番になっている。おそらく倭の五王と呼ばれていた大王は、この古墳のいずれかに眠っていることになりそうである。

 古市古墳群を構成していた150基あまりの古墳のうち、現存しているのは、46基とのこと。すでに100基あまりの古墳が姿を消しています。藤井寺市、羽曳野市については、急激に宅地開発が進んだところでもあり、なかなか文化財保護にまで目が向かなかったのかもしれないが、残念なことである。(ただ、実際に歩いてみると、藤井寺市と羽曳野市でも同じ古墳の保存でも視点は違うような気がする。藤井寺市の方が古墳の景観等を維持しようという姿勢がみられる気がする。) 
 
 本書で特徴的なのは、陪塚のことを詳しく取り上げている。実際に古墳を見て歩いていると、「○○天皇陵△号」と書かれた制札が墳丘上に立っていることがある。いったい陪塚ってなんやと言うことになる。一般には「大規模な古墳の周囲にしてある小古墳をいい、もともとは、従者の墓という意味でつけられたが、人体埋葬を伴わず、副葬品だけが埋葬されている例もある。」といわれる。
 古市古墳群では、仲津山古墳、墓山古墳、誉田山古墳、市野山古墳が陪塚を持っていたと考えられている。陪塚についても、宮内庁に管理されているので、詳しいことがわからないものが多いが、墓山古墳の陪冢とされる野中古墳については、大量の鉄製品や甲冑が埋葬されていた。
 著者は、陪塚を従者の墓と定義するのであれば、人体埋葬の伴わない陪塚は、墳丘外施設として区別するという見解も示している。陪塚と一言で括れない状況になってきているということなのだろう。

 終章で河内飛鳥のことを取り上げている。この辺りも、古市古墳群の後の時代、だいたい飛鳥時代の古墳が集まっている地域なのだが、この辺りのかなりこの十数年で環境が変わってきている。宅地開発などが進み、この辺りの古墳もかなり危機に瀕している。どうも古墳というと、大きな墳丘があるような古墳が重視されていて、後期古墳のような小さな墳丘の古墳は軽視されている状況があるような気がする。南河内の古墳については、古墳群の移動はあれど、ほほ古墳時代の初期の時代から終末期までの古墳、それも一級品のものがあるという日本でも有数の地域である。そのことを意識して欲しいと思う。

 古市古墳群については、わりと行きやすいことから、このブログでもよく取り上げている。まだまだ、全部の古墳を紹介しきれていないので、頑張っていこうと思う。(今年度の決意表明ですね。)

 
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