休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

大伴旅人 ー人と作品ー

2023-06-20 00:34:53 | 読書日記

 大伴旅人 ー人と作品ー

 中西進編 祥伝社新書

 この本は1998年におうふう社から出版された「大伴旅人 人と作品」を新書版として2019年に再刊された本である。ちょうど令和という年号が、大伴旅人が書いた「梅花の宴」の序をもとに制定されたという事をうけて出版されたものである。

 意外と大伴旅人について触れた本というのは意外と少なく、息子の大伴家持のことを書いたものと言うのは結構あるのだが、旅人となるとあんまりという感じである。僕も万葉集は、読んだりしたことがあるのだが、意外と源氏物語の須磨帰りではないが、案外、奈良時代の中期までたどり着いていないような気がする。

 そのため、大伴旅人についての知識は少ない。万葉集にいくつかの歌、特に酒に関する歌が著名で、隼人の乱を収め、その後太宰帥となったぐらいしか知らない。

 角川の新版日本史辞典では、大伴旅人について「665-731(天智4-天平3)奈良時代の公卿・歌人。大納言。従二位。父は安麻呂。子に家持、異母妹に坂上郎女がいる。中務卿、中納言、征隼人持節大将軍を歴任。晩年は太宰帥として赴任、九州歌壇の中心となった。「懐風藻」「万葉集」に憂愁をひめた市場豊かな作品を残し、中国の思想・文芸にも心を寄せていた」とある。意外と武人である面が記述されていないことに驚く。どっちかというと文人である面が強調されている感じだ。

 で、この本である。この本の構成は、大伴旅人の生涯を、「在京時代」「大宰府時代」「帰京後」の3期に分け、それぞれの時代の旅人の秀歌について解説が加えられている。

 もう少し旅人の生涯について年代を追いながら見てみよう。

 665年 出生

 710年 左将軍に任じられる

 表舞台に出てくるのは結構遅く、710年、46歳の時に正五位上左将軍として朝賀に列したというのが初めての記事である。その後中務卿などを順調に昇進する。

 720年 征隼人持節大将軍に任じられる

 この時に、征隼人持節大将軍として、九州に赴き、隼人の乱を鎮圧する。この時56歳である。

 724年 聖武天皇の吉野行幸に際して、長歌などを作る。(これが、初めての歌作になる。)この時実に60歳。この年でも新しいことができるって、今の世の中なら大いに褒められそうだな。

 727年ごろ 太宰帥に任命される。

 728年 妻、大伴郎女が病死する。

 730年 大宰府にて「梅花の宴」を催す。

     大納言に任じられ、奈良平城京に帰京する・

 731年 没 67歳

 ちなみに著名な「酒を讃むる歌」は、大宰府に在任中に詠まれている。

 こうやって見ると、歌人として表舞台で活動した時代は、わずかに7年ほどである。そして、万葉集には、なんと78首採録されている。わずか7年でこれだけの歌を残しているとは、改めて驚いた。

 本書を読んで、とにかく印象が変わったのは、非常に中国の思想や文化に詳しいところ。酒を讃むる歌では、かなり中国の故事や思想などを踏まえて作られており、たんに飲んべの歌ではないのである・

 例えば、「古の七の賢き人どもも欲りせしものは酒にしあるらし」という歌は、中国の竹林の七賢と呼ばれる人たちの逸話を下敷きにしているし、「酒の名を聖と負せし古の大き聖の言のよろしき」なども、昔の中国では、禁酒令を憚って、清酒を聖人、濁酒を、賢人と呼んだという故事を踏まえているそうだ。

 「梅花の宴」でも中国の文化を踏まえて、遠の朝廷と呼ばれた大宰府で開催されており、日本の歴史上はじめて、宴席で梅の花を題材に参加者で歌作をしたという画期的なイベントを行っている。

 この「梅花の宴」で大伴旅人が書いたとされる序文から令和の年号が選定されている。

 正直、ものすごい文化人なんだと初めて実感した。生まれながらの日本文化の素養と成人してから培っていった中国文化の理解とが自身の中で融合するのに一定の時間を要したことが、想像できる。それが言葉となって表せるようになったのが60歳になってからだったんだろう。

 また、大宰府の旅人のもとには山上憶良などの歌人も集まり、後世、筑紫歌壇と呼ばれるようになる。

 大伴旅人は、筑紫に赴いてから、まもなく妻大伴郎女を亡くしており、妻への思募の想いが歌作にも現れているものがある。特に「世の中を空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり」などは、文学上はじめて、個人に対して、個人の感情を表出したものではないだろうか。聖徳太子の「世間虚仮、唯一是真」につながるような思想を感じる。

 最後に、旅人が亡くなる直前に詠んだ歌「しましくも行きて見てしか神奈備の淵は浅せにて瀬にかなるらむ」という歌は、奈良の自邸から遠く故郷の飛鳥を思い詠んだものだという。故郷は飛鳥だったのだ。そういえば、旅人は、天智4年の生まれであり、すでに大津京に遷都しているので、故郷であれば近江の方を読みそうなものだが、飛鳥とはと思って、ハタと気が付いた。大伴氏は、奈良の飛鳥に残っていたのだ。だから、壬申の乱で大海人皇子が挙兵をした時にいち早く駆けつけることができたのだ。

 なるほど、こういう所からも、歴史の綾みたいなのを見ておることができるのだなあ。

 奈良時代の人物ってあんまり興味がわかなかったのだが、非常に大伴旅人という人物に興味を持った。もう少し勉強してみたいと思う。-

 

※佐保川のほとりに置かれている大伴旅人の歌碑


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 冬の大原を旅する③ ~三千院~ | トップ | 京都寺町界隈を歩く① ~京都... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

読書日記」カテゴリの最新記事