「笑う子規」
正岡子規著 天野祐吉編 南伸坊絵 ちくま文庫
最近、完全に自分の中でブームが来ているのが正岡子規である。前も書いたと思うが、著名な正岡子規の横顔の写真から覚えた興味が尽きない。というかかかわっていけばいくだけ、さらに興味が沸いてくることになっている。ただ、これも自分がある年齢に達したからということもできる。おそらく、20代、30代ではあまり興味が沸かなかったかもしれないな。
本書は、松山市立子規記念博物館に名誉館長をされていた広告批評家天野祐吉さんが、子規の残した俳句から味わいのあるユーモラスな俳句を選び、それに南伸坊がイラストをつけた本である。この本のコピーは、「正岡子規は、冗談好きな 快活な若者 でもあった」と書かれていたそうだ。確かに、どうしても、正岡子規、俳句と言うと、畏まった雰囲気の古臭い感じがして、敬遠されがちなのだが、そうじゃないよ、もっと楽しいもんだよということなんだろう。かくいう私もこれまで国語の時間ぐらいしか読んだことはなく、はっきり言って文学史という博物館の中に納まったものと言う感じであった。それは、ガラスケースの中に陳列されているものだった。
しかし、これが目から鱗が落ちるというのはこのことか、これまで食わず嫌いであったと思わずには入られなかった。正直、面白かった。何だろう、日常何となしに見ていたり、感じていたこと、いわば意識下にあったものを鮮やかに意識の中に浮かび上がらせてくれているのである。何気ないところに、味わいを発見させてくれるということなんだろう。そこにある小品の良さに気付かされる感じだな。こうやって書くと俳句とは気づきの文学と言えるのかもしれないね。
本書は、子規の俳句を、「新年」「春」「夏」「秋」「冬」の5つのカテゴリーに分けて、「新年」で20首、「春」で27首、「夏」で39首、「秋」で31首、「冬」で26首が選ばれている。夏が一番多いところが、「快活な若者」らしい気がする。
いくつか気にいった句を抜き出してみよう。
「新年」
雑煮くふてよき初夢を忘れけり
弘法は何と書きしや筆始
「春」
蝶々や巡礼の子おくれがち
内のチョマが隣のタマを待つ夜かな
春の夜や隣を起す忍び聲
「夏」
妻去りし隣淋しや夏の月
歯が抜けて筍堅く烏賊こはし
夕顔に女湯あみすあからさま
金持は涼しき家に住みにけり
「秋」
柿喰の俳句好みし伝ふべし
桃太郎は桃金太郎は何からぞ
「冬」
無精さや蒲団の中で足袋をぬぐ
煤払や神も仏も草の上
読んで、なるほどと思わず手を打ちたくなるような句であったり、かわいらしい子どもの姿が目に浮かぶようなものであったり、時にはムフフフフとちょっと大人な笑いが出てくるものもあったりとほんとにレパートリーに富んでいる。この本中で選ばれている俳句で知っていたのは、「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」と時世の句である「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」の二つだけ。あとは全くの初見である。「柿喰えば・・・」の句も、こうやって、これらの句の流れで読むと柿を喰うこととお寺の鐘が鳴るアンバランスな光景にちょっとユーモラスさを感じてしまうよね。
何気ないところにピッと気づかされる視線、子規が好きだった野球で言うと、剛速球という訳ではなく、キレのある球がピュッと来る感じかな。
確かに子規の俳句に詠みこまれている風俗の中には、もう、僕らの年代ではわからないものもあったりするのだが、それを差し置いてもどこか新しさを感じさせることが凄いなあと思う。これは、漱石にも言えることではあるのだけども、今でも読みに値すると値するところが凄い。
そういえば、南伸坊さんの著作を調べていると、「笑う漱石」という本もあるようだ。どんな内容なのか興味がそそられるね。本屋で探してみようっと。
正岡子規著 天野祐吉編 南伸坊絵 ちくま文庫
最近、完全に自分の中でブームが来ているのが正岡子規である。前も書いたと思うが、著名な正岡子規の横顔の写真から覚えた興味が尽きない。というかかかわっていけばいくだけ、さらに興味が沸いてくることになっている。ただ、これも自分がある年齢に達したからということもできる。おそらく、20代、30代ではあまり興味が沸かなかったかもしれないな。
本書は、松山市立子規記念博物館に名誉館長をされていた広告批評家天野祐吉さんが、子規の残した俳句から味わいのあるユーモラスな俳句を選び、それに南伸坊がイラストをつけた本である。この本のコピーは、「正岡子規は、冗談好きな 快活な若者 でもあった」と書かれていたそうだ。確かに、どうしても、正岡子規、俳句と言うと、畏まった雰囲気の古臭い感じがして、敬遠されがちなのだが、そうじゃないよ、もっと楽しいもんだよということなんだろう。かくいう私もこれまで国語の時間ぐらいしか読んだことはなく、はっきり言って文学史という博物館の中に納まったものと言う感じであった。それは、ガラスケースの中に陳列されているものだった。
しかし、これが目から鱗が落ちるというのはこのことか、これまで食わず嫌いであったと思わずには入られなかった。正直、面白かった。何だろう、日常何となしに見ていたり、感じていたこと、いわば意識下にあったものを鮮やかに意識の中に浮かび上がらせてくれているのである。何気ないところに、味わいを発見させてくれるということなんだろう。そこにある小品の良さに気付かされる感じだな。こうやって書くと俳句とは気づきの文学と言えるのかもしれないね。
本書は、子規の俳句を、「新年」「春」「夏」「秋」「冬」の5つのカテゴリーに分けて、「新年」で20首、「春」で27首、「夏」で39首、「秋」で31首、「冬」で26首が選ばれている。夏が一番多いところが、「快活な若者」らしい気がする。
いくつか気にいった句を抜き出してみよう。
「新年」
雑煮くふてよき初夢を忘れけり
弘法は何と書きしや筆始
「春」
蝶々や巡礼の子おくれがち
内のチョマが隣のタマを待つ夜かな
春の夜や隣を起す忍び聲
「夏」
妻去りし隣淋しや夏の月
歯が抜けて筍堅く烏賊こはし
夕顔に女湯あみすあからさま
金持は涼しき家に住みにけり
「秋」
柿喰の俳句好みし伝ふべし
桃太郎は桃金太郎は何からぞ
「冬」
無精さや蒲団の中で足袋をぬぐ
煤払や神も仏も草の上
読んで、なるほどと思わず手を打ちたくなるような句であったり、かわいらしい子どもの姿が目に浮かぶようなものであったり、時にはムフフフフとちょっと大人な笑いが出てくるものもあったりとほんとにレパートリーに富んでいる。この本中で選ばれている俳句で知っていたのは、「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」と時世の句である「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」の二つだけ。あとは全くの初見である。「柿喰えば・・・」の句も、こうやって、これらの句の流れで読むと柿を喰うこととお寺の鐘が鳴るアンバランスな光景にちょっとユーモラスさを感じてしまうよね。
何気ないところにピッと気づかされる視線、子規が好きだった野球で言うと、剛速球という訳ではなく、キレのある球がピュッと来る感じかな。
確かに子規の俳句に詠みこまれている風俗の中には、もう、僕らの年代ではわからないものもあったりするのだが、それを差し置いてもどこか新しさを感じさせることが凄いなあと思う。これは、漱石にも言えることではあるのだけども、今でも読みに値すると値するところが凄い。
そういえば、南伸坊さんの著作を調べていると、「笑う漱石」という本もあるようだ。どんな内容なのか興味がそそられるね。本屋で探してみようっと。
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