父性愛
2011-07-02 | 日記
母性愛という言葉がある。
読んで字のごとく、母親の愛である。
これは自分の子供が可愛くて可愛くて、子供が存在するだけでいいの、という愛である。
子供の健全な成長のためならなんでもする。目の前に障害があるなら取り除いてやる。
子供の安全のためなら自分を犠牲にすることさえも苦と思わない。
子供の痛みは自分の、いやそれ以上の痛みである。
実際、親は自分の痛みには耐えられるが子供の痛みには耐えられない。
子供が病気になれば、母親はいたれりつくせりで看護する。
一昔前なら病気の子供を背負って夜中に医者の戸を叩く、というものだ。
これは無償の愛であり、見返りは求めない。見返りがあるとすれば子供の健全な成育だ。
この愛は一歩間違うと、子供を甘やかすことになる。
母親が子離れできずに、こどもから判断する機会を奪うことはよくある話だ。
特に母親と息子という関係では多いのではなかろうか。
子供から決断することを奪うばかりか、自分の価値観さえ押し付ける。
「○○ちゃん、あなたは何も考えなくていいのよ。あなたのことは全てママが決めてあげるわ。あなたはママの言う通りにやっていればいいの。そうすれば一流の学校に行けるし一流の会社に入れるのよ」
ボクの周りにはいないが、こういうバカ親も世の中にいるはずだ。
最近ではそんなバカ親にもなれない、自分の子供に危害を与えるというものも出てきた。
動物だって自分の子供をすすんで傷つけたりはしない。
それは自分が虐待されたとか、それぞれの理由があろうが、人としてという基本的な物がない人も世の中にはいる。
虐待される子供も可哀そうだが、虐待する親も可哀そうだ。
ずいぶん重いカルマを背負っているが、これは自分で解決するしかない。
虐待としつけは違う。
今はこの区別もできないような世の中だ。
親にとって、特に母親にとって、子供の痛みは自分の痛みである。
子供は自分の中から産まれた存在で、自分の分身でもある。
そんな分身に痛みを与える時には、自分の心はもっと傷つくであろう。
ボクは子供の頃、父親によく叩かれた。
家にはケツを叩く用の棒があり、僕たち兄弟は悪さをすると、「ケツを出せ」と言われバチンと叩かれて育った。
昭和中期だったら別段珍しくもないことだ。
でも一度だけ母親にビンタをされたことがある。
その時に母親はボクを叩き、泣いた。
ボクよりも母親は痛かったことだろう。
母性愛が子供に尽くし痛みを和らげ障害をとり除くものならば、父性愛は子供を突き放し時には痛みを与え障害を置くものだ。
母性愛は無条件の愛で、父性愛は条件付の愛だと誰かが言っていた。
子供の行く手にハードルを置き、それを乗り越えた時に誉める。
次に置くハードルはさらに高いものを置き、子供に自分で超えさせて、できた時にはもっと誉める。
痛みを与えるのも父親の役目だ。
子供が間違った方向に進みそうな時に、痛みを与え気づかせる。
娘が2歳ぐらいの頃、来客の前だったが食べ物を投げて遊ぶ娘の手を思いっきりひっぱたいた。
当然、娘はワンワン泣いた。
ここで母親の出番である。
腫れた娘の手を女房はさすってあげた。
痛みが落ち着いた後に娘にきっちりと説明をした。
食べるものを粗末にすることは、人間としてやってはいけないことなのだ。だから叩いた。
娘はしっかりと理解し、二度と繰り返すことはなかった。
「まだ小さいのに、なにも叩かなくても」
そういう声も聞こえてきそうだが、女房の口からその言葉はなく、ひたすらやさしく娘の手をさすり続けた。
よくできた母親である。
子供にとって父親は怖い存在であるべきだと思う。
これもまだ娘が小さい時の話だが、女房の母親が洗濯物を畳んでいて、畳むそばから娘がそれを引っ掻き回していた。
「何をしている、お前は!」
ボクは烈火のごとく怒り、娘を怒鳴りつけた。
娘は怖がり、その場で泣き出した。
落ち着いた後に、娘と向かいあって話し、娘がやったことは人の好意を踏みにじるものだと教えた。
きっちりと教えれば小さくても子供は理解する。
それには親が誠心誠意をもって全力であたらなければいけない。
「まだ小さいから分からない」というのは親が教育を放棄する言い訳だ。
それを教えることが親の務めである。
ある父親と話したが、娘がテレビを見すぎて困る、「テレビを見るのをやめなさい」と言っても言うことを聞かないそうな。
ボクに言わせれば簡単なことだ。
テレビをしまえばいい。
それは父親の役目だ。
父親はやると言ったらやるんだぞ、というところを見せなくてはならない。
以前も書いたが、僕の父親はチャンネル争いをやめない僕たち兄弟の目の前でテレビを叩きつぶした。
昭和の頑固親父だ。
その時には父親を恨んだが、今ではそんな父親に感謝をしている。
当たり前の状態に、喜びはない。
テレビの無い状態を知ることにより、テレビを見る喜びを感じるのだ。
子供がその事に気づくためなら、自分がテレビを見るのも我慢するべきだ。
その時に父親は嫌われ者になるだろう。
だがそこでテレビ以外の楽しみを教えるのも父親の役目だ。
何かがなければ幸せになれない、というのは本当の幸せではない。幸せは常にそこにあるものだ。
それに気づいたときにテレビを再び出せば良い。
だいたい今時の父親は子供に嫌われることを恐れていないか?
子供のご機嫌をとるだけの父親になってはいけないと思う。
それでも厳しくするだけでは息が詰まってしまうので、時には甘さも必要だ。
そのバランスが大切なのではなかろうか。
母性愛と父性愛、片親でもこれを両方持っている人はいる。
両親がいても、バランスの取れていない家もある。
子供がどう育つか、それは自分自身の内部を見つめることに鍵がある。
だって昔からよく言うじゃないか、『子は親の鏡』だってね。
読んで字のごとく、母親の愛である。
これは自分の子供が可愛くて可愛くて、子供が存在するだけでいいの、という愛である。
子供の健全な成長のためならなんでもする。目の前に障害があるなら取り除いてやる。
子供の安全のためなら自分を犠牲にすることさえも苦と思わない。
子供の痛みは自分の、いやそれ以上の痛みである。
実際、親は自分の痛みには耐えられるが子供の痛みには耐えられない。
子供が病気になれば、母親はいたれりつくせりで看護する。
一昔前なら病気の子供を背負って夜中に医者の戸を叩く、というものだ。
これは無償の愛であり、見返りは求めない。見返りがあるとすれば子供の健全な成育だ。
この愛は一歩間違うと、子供を甘やかすことになる。
母親が子離れできずに、こどもから判断する機会を奪うことはよくある話だ。
特に母親と息子という関係では多いのではなかろうか。
子供から決断することを奪うばかりか、自分の価値観さえ押し付ける。
「○○ちゃん、あなたは何も考えなくていいのよ。あなたのことは全てママが決めてあげるわ。あなたはママの言う通りにやっていればいいの。そうすれば一流の学校に行けるし一流の会社に入れるのよ」
ボクの周りにはいないが、こういうバカ親も世の中にいるはずだ。
最近ではそんなバカ親にもなれない、自分の子供に危害を与えるというものも出てきた。
動物だって自分の子供をすすんで傷つけたりはしない。
それは自分が虐待されたとか、それぞれの理由があろうが、人としてという基本的な物がない人も世の中にはいる。
虐待される子供も可哀そうだが、虐待する親も可哀そうだ。
ずいぶん重いカルマを背負っているが、これは自分で解決するしかない。
虐待としつけは違う。
今はこの区別もできないような世の中だ。
親にとって、特に母親にとって、子供の痛みは自分の痛みである。
子供は自分の中から産まれた存在で、自分の分身でもある。
そんな分身に痛みを与える時には、自分の心はもっと傷つくであろう。
ボクは子供の頃、父親によく叩かれた。
家にはケツを叩く用の棒があり、僕たち兄弟は悪さをすると、「ケツを出せ」と言われバチンと叩かれて育った。
昭和中期だったら別段珍しくもないことだ。
でも一度だけ母親にビンタをされたことがある。
その時に母親はボクを叩き、泣いた。
ボクよりも母親は痛かったことだろう。
母性愛が子供に尽くし痛みを和らげ障害をとり除くものならば、父性愛は子供を突き放し時には痛みを与え障害を置くものだ。
母性愛は無条件の愛で、父性愛は条件付の愛だと誰かが言っていた。
子供の行く手にハードルを置き、それを乗り越えた時に誉める。
次に置くハードルはさらに高いものを置き、子供に自分で超えさせて、できた時にはもっと誉める。
痛みを与えるのも父親の役目だ。
子供が間違った方向に進みそうな時に、痛みを与え気づかせる。
娘が2歳ぐらいの頃、来客の前だったが食べ物を投げて遊ぶ娘の手を思いっきりひっぱたいた。
当然、娘はワンワン泣いた。
ここで母親の出番である。
腫れた娘の手を女房はさすってあげた。
痛みが落ち着いた後に娘にきっちりと説明をした。
食べるものを粗末にすることは、人間としてやってはいけないことなのだ。だから叩いた。
娘はしっかりと理解し、二度と繰り返すことはなかった。
「まだ小さいのに、なにも叩かなくても」
そういう声も聞こえてきそうだが、女房の口からその言葉はなく、ひたすらやさしく娘の手をさすり続けた。
よくできた母親である。
子供にとって父親は怖い存在であるべきだと思う。
これもまだ娘が小さい時の話だが、女房の母親が洗濯物を畳んでいて、畳むそばから娘がそれを引っ掻き回していた。
「何をしている、お前は!」
ボクは烈火のごとく怒り、娘を怒鳴りつけた。
娘は怖がり、その場で泣き出した。
落ち着いた後に、娘と向かいあって話し、娘がやったことは人の好意を踏みにじるものだと教えた。
きっちりと教えれば小さくても子供は理解する。
それには親が誠心誠意をもって全力であたらなければいけない。
「まだ小さいから分からない」というのは親が教育を放棄する言い訳だ。
それを教えることが親の務めである。
ある父親と話したが、娘がテレビを見すぎて困る、「テレビを見るのをやめなさい」と言っても言うことを聞かないそうな。
ボクに言わせれば簡単なことだ。
テレビをしまえばいい。
それは父親の役目だ。
父親はやると言ったらやるんだぞ、というところを見せなくてはならない。
以前も書いたが、僕の父親はチャンネル争いをやめない僕たち兄弟の目の前でテレビを叩きつぶした。
昭和の頑固親父だ。
その時には父親を恨んだが、今ではそんな父親に感謝をしている。
当たり前の状態に、喜びはない。
テレビの無い状態を知ることにより、テレビを見る喜びを感じるのだ。
子供がその事に気づくためなら、自分がテレビを見るのも我慢するべきだ。
その時に父親は嫌われ者になるだろう。
だがそこでテレビ以外の楽しみを教えるのも父親の役目だ。
何かがなければ幸せになれない、というのは本当の幸せではない。幸せは常にそこにあるものだ。
それに気づいたときにテレビを再び出せば良い。
だいたい今時の父親は子供に嫌われることを恐れていないか?
子供のご機嫌をとるだけの父親になってはいけないと思う。
それでも厳しくするだけでは息が詰まってしまうので、時には甘さも必要だ。
そのバランスが大切なのではなかろうか。
母性愛と父性愛、片親でもこれを両方持っている人はいる。
両親がいても、バランスの取れていない家もある。
子供がどう育つか、それは自分自身の内部を見つめることに鍵がある。
だって昔からよく言うじゃないか、『子は親の鏡』だってね。