娘の深雪は9歳、日本の小学校ならば4年生だ。
毎日こっちの学校に行っているが、週に1回日本語の補習校にも行っている。
そこでは日本で使う教科書を使い国語と算数の勉強をする。
子供の国語の教科書に『動いて考えてまた動く』という話があった。
今は現役を退いてコーチをやっている陸上競技の人の話だ。
内容は自分の経験を元に、行動し失敗や成功という経験を得てそこからさらに考えて行動をすると良い結果が得られる、という話である。
ある時、深雪に学校へ持っていくお菓子を作らせた。
今まではチョコチップクッキーを作っていたが、それにも飽きてきたのだろう。
自分で本を見ながらチョコレートマフィンを作った。
ボクも女房も何も言わず、自分一人で好きなように作った。
できあがったマフィンはそこそこ美味しかったが、チョコチップが底に沈みそこが焦げ付いてしまった。
「さあさあ、オマエは自分でこれを作った。すばらしい事だ。よくやった。次は考えることだな。今回はチョコチップが底に沈んだから焦げ付いた。それならば底に沈まないようにすれば良くないか?」
「どうやって?」
「そうだな、例えばチョコチップなしのマフィンを型に半分入れて、チョコチップは後から入れるとかな」
「ああ、そうか」
「そうやって考えてまたやってみる。上手くいくかもしれない、失敗するかもしれない。どっちの結果が出てもオマエの経験となるんだからな。失敗を恐れるな。お父さんなんかオマエぐらいのときにお菓子を作ったら塩と砂糖を間違えて、しょっぱいケーキを作っちゃったんだよ」
「ええ?それ食べた?」
「いや、不味くて食べられなかった」
「あはははは」
経験は笑い話のネタにもなる。
深雪の教科書の話ではないが、まずやってみるということが大切なのだが、行動の最初の一歩が出ない人は多い。
特に新しいことを始める時には「上手くいかないんじゃないか」という想いが芽生え尻込みして行動にうつせなくなってしまう。
人間は常に不安、心配などネガティブな面を持つものだ。
それは自分の心から生まれる。
逆に言えば上手くいくイメージがわけば全てが上手くいく。
もしくは無心でやってみたらできちゃった、ということもある。
僕自身、いろいろなものを作っているが、やってみたら意外と簡単だった、ということは多い。
まずはやってみること。そして仮に失敗をしたとしてもそこから次に発展すればよいのだ。
だが今の世の中、失敗を恐れるのかすぐに聞く。
行動をしないで聞く。
行動をすれば質問はより具体的なものになるのだが、行動と思考がついてこないので質問も抽象的なものになる。
なんでもいいから教えてくださいというように。
さらにネットが普及したことによって、気軽に聞けるようになった。
自分で考えないで聞く。
聞くほうも匿名、答える方も匿名なので、内容は薄い。
無味無臭、あたりさわりのない言葉だけが飛び交う。
ボクは人に物を聞くときには、それを知っていそうな人に聞く。
料理のことならシェフの友人に、コンピューターのことならそれに詳しい人に。
人に聞くことは悪いことではない。
昔から言うではないか、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
だがそれには自分で考えるという、自分の責任がついて回るものだ。
考えることを放棄して、都合のいい情報だけをゲットするというのは、今の世の中の流れがそうさせているのだろうか。
できることならば人に聞かないで自分で考えて、さらに次の行動へ移すのが良かろう。
失敗をしたならば、何故失敗をしたのか。失敗を繰り返さないためにはどうすればよいのか。
成功したなら上手くいった原因をつきとめ、さらにそこを伸ばしてよりよいものを作っていくというように。
人に聞く場合でも、それを鵜呑みにするのではなく、自分でもその点を納得してやる、ということに意味があるだろう。
行動の原動力は気持ちである。
何事も本人が、さあやろうと思わなければ始まらない。
周りが「こうすれば?」と言ったからという受身でやるのと、自分がその気になったからという自発では、結果も変わってくる。
絵を描くのが好きではないが、本を読むのは好きという子供に絵を描かせても上手くはいかないだろう。
それならばその子は本を読んだほうが、その子のためでもある。
その子もその時が来れば絵を描き始めるかもしれない。
その時が来ないかもしれない。それは自分で決めることだ。
娘はお菓子作りを始めたばかりだが、最近では自分で台の上に必要な道具を出して、一人でてきぱきとやっている。
親バカだがボクはそんな娘を見るのが好きだ。
チョコチップマフィンはボクがチョコチップを買うのを忘れているので頓挫したままだ。
動いて考えてまた動こうとしたら、親がいいかげんなので動けなかったというお話である。
今日こそはチョコチップを買おう。
毎日こっちの学校に行っているが、週に1回日本語の補習校にも行っている。
そこでは日本で使う教科書を使い国語と算数の勉強をする。
子供の国語の教科書に『動いて考えてまた動く』という話があった。
今は現役を退いてコーチをやっている陸上競技の人の話だ。
内容は自分の経験を元に、行動し失敗や成功という経験を得てそこからさらに考えて行動をすると良い結果が得られる、という話である。
ある時、深雪に学校へ持っていくお菓子を作らせた。
今まではチョコチップクッキーを作っていたが、それにも飽きてきたのだろう。
自分で本を見ながらチョコレートマフィンを作った。
ボクも女房も何も言わず、自分一人で好きなように作った。
できあがったマフィンはそこそこ美味しかったが、チョコチップが底に沈みそこが焦げ付いてしまった。
「さあさあ、オマエは自分でこれを作った。すばらしい事だ。よくやった。次は考えることだな。今回はチョコチップが底に沈んだから焦げ付いた。それならば底に沈まないようにすれば良くないか?」
「どうやって?」
「そうだな、例えばチョコチップなしのマフィンを型に半分入れて、チョコチップは後から入れるとかな」
「ああ、そうか」
「そうやって考えてまたやってみる。上手くいくかもしれない、失敗するかもしれない。どっちの結果が出てもオマエの経験となるんだからな。失敗を恐れるな。お父さんなんかオマエぐらいのときにお菓子を作ったら塩と砂糖を間違えて、しょっぱいケーキを作っちゃったんだよ」
「ええ?それ食べた?」
「いや、不味くて食べられなかった」
「あはははは」
経験は笑い話のネタにもなる。
深雪の教科書の話ではないが、まずやってみるということが大切なのだが、行動の最初の一歩が出ない人は多い。
特に新しいことを始める時には「上手くいかないんじゃないか」という想いが芽生え尻込みして行動にうつせなくなってしまう。
人間は常に不安、心配などネガティブな面を持つものだ。
それは自分の心から生まれる。
逆に言えば上手くいくイメージがわけば全てが上手くいく。
もしくは無心でやってみたらできちゃった、ということもある。
僕自身、いろいろなものを作っているが、やってみたら意外と簡単だった、ということは多い。
まずはやってみること。そして仮に失敗をしたとしてもそこから次に発展すればよいのだ。
だが今の世の中、失敗を恐れるのかすぐに聞く。
行動をしないで聞く。
行動をすれば質問はより具体的なものになるのだが、行動と思考がついてこないので質問も抽象的なものになる。
なんでもいいから教えてくださいというように。
さらにネットが普及したことによって、気軽に聞けるようになった。
自分で考えないで聞く。
聞くほうも匿名、答える方も匿名なので、内容は薄い。
無味無臭、あたりさわりのない言葉だけが飛び交う。
ボクは人に物を聞くときには、それを知っていそうな人に聞く。
料理のことならシェフの友人に、コンピューターのことならそれに詳しい人に。
人に聞くことは悪いことではない。
昔から言うではないか、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
だがそれには自分で考えるという、自分の責任がついて回るものだ。
考えることを放棄して、都合のいい情報だけをゲットするというのは、今の世の中の流れがそうさせているのだろうか。
できることならば人に聞かないで自分で考えて、さらに次の行動へ移すのが良かろう。
失敗をしたならば、何故失敗をしたのか。失敗を繰り返さないためにはどうすればよいのか。
成功したなら上手くいった原因をつきとめ、さらにそこを伸ばしてよりよいものを作っていくというように。
人に聞く場合でも、それを鵜呑みにするのではなく、自分でもその点を納得してやる、ということに意味があるだろう。
行動の原動力は気持ちである。
何事も本人が、さあやろうと思わなければ始まらない。
周りが「こうすれば?」と言ったからという受身でやるのと、自分がその気になったからという自発では、結果も変わってくる。
絵を描くのが好きではないが、本を読むのは好きという子供に絵を描かせても上手くはいかないだろう。
それならばその子は本を読んだほうが、その子のためでもある。
その子もその時が来れば絵を描き始めるかもしれない。
その時が来ないかもしれない。それは自分で決めることだ。
娘はお菓子作りを始めたばかりだが、最近では自分で台の上に必要な道具を出して、一人でてきぱきとやっている。
親バカだがボクはそんな娘を見るのが好きだ。
チョコチップマフィンはボクがチョコチップを買うのを忘れているので頓挫したままだ。
動いて考えてまた動こうとしたら、親がいいかげんなので動けなかったというお話である。
今日こそはチョコチップを買おう。