あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

マンガ

2012-10-31 | 日記
最近の我が家の流行はブラックジャックである。
手塚治虫のマンガのブラックジャックなのだ。
ある時、図書館でこのマンガの英語版を見つけ借りてきた。
娘に読ませると、最初は怖いと言っていたが、最近ではむさぼるように読んでいる。
僕が子供の頃、このマンガを読んだのもちょうど娘と同じ頃だった気がする。
女房はブラックジャックを読んだことがなかったらしい。
確かに当時は確か少年チャンピオンに連載されていて、少年漫画だったこの話は少女漫画の世界とは違う位置にあった。
それを人生の半ばを過ぎて知ったものだから、女房もせっせと図書館でこの本を借りて読んでいる。
ニュージーランドの図書館で日本の優れた本を英語版とは言え読めるのだから、素晴らしいことだ。

今さらながらだが、手塚治虫は天才だったのだなあと思う。
僕はこの人のマンガは好きで、家には『火の鳥』が全巻ある。
西洋人はマンガというものを一段低く見るところがあるが、これは日本が世界に誇れる文化だと思う。
それは映画やテレビのプログラムと同じで作り手によっては毒にも薬にもなる。
火の鳥は色々な話があるが、聖書の教えのような話もあるし、禅の悟りのような話もある。
今の混乱した世界を予言したような話もあり、手塚治虫という人の世界観が現れている。
こんな話を何十年も前に描いたのだから、天才と呼んでもいいのだろう。
描き手によってマンガは聖書にもなるし、教科書にもなる。
ちなみに当時僕が好きな漫画家は松本零士の『銀河鉄道999』や藤子不二雄の『ドラえもん』だった。
これらのマンガは今読んでみても面白いと思う。
良い作品は時代を超えるのだ。
今でも僕はマンガが好きで、山岳救助の話『岳』は全巻サダオが揃えてくれて家の本棚にあるし『動物のお医者さん』も全巻ある。
ちなみにマンガとはちょっと違うが、さいとうたかをの『鬼平犯科帳』も揃っている。
これは個人的趣味だ。

マンガの話で思い出したのだが、ある時お客さんに教わった事がある。
戦時中、日本軍の機械の操作法は漢字とかなが主体で書かれていた。
機械の扱いを覚える前に漢字を勉強しなくてはならなかったわけだ。
それに対しアメリカではマニュアルにマンガが使われていた。
多数の新兵が機械操作を覚えるのにどちらが合理的か、考えればすぐに分かる。
だから日本が戦争に負けたというわけではないが、合理性というものが重視の戦争ではこういう積み重ねが勝敗を決める。
なるほど、マンガにはそういう使い方もあるんだなあ、と思った。

僕は少年時代、家にテレビがなかったのでとにかく本を読んだ。
活字の本もマンガもよく読んだ。
連載物はワクワクしながら次の話を待ったものだった。
ドラえもんの中でも新刊のマンガをみんなで回し読みするようなシーンがある。
たいてい持っているのはスネ夫で、ジャイアンにまわり、のび太にはまわってこない、というのが話の筋だ。
マンガは安くなく、僕もよく本屋で立ち読みをした。
昭和だなあ。
当時、聞いた話だが、大人が読んで面白いと思うマンガは子供にも良い。
中にはくだらないマンガもあるし、子供が読むべきでない内容の物もあるが、名作というものは子供も読んでいいと思う。
だが最終的には子供が読むかどうか決めることだ。
決して押し付けてはいけない。
大人の役目はこういうものも在るんだよ、と教えてあげること。
そして後は子供の自主性に任せる。
娘がブラックジャックを一心不乱に読んでいる姿を見てそんなことを思った。
たかがマンガ、されどマンガ。
マンガの中にだって真実はある。
そして根底にあるのは愛。
やっぱりマンガの話でもそこに行き着いてしまった。
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値切らない人

2012-10-22 | 日記
以前、ある人とネットを通じて知り合いになった。
その人の言葉で忘れられないものがある。

「私は畑仕事が好きで、よく農家手伝いをしていました。
工場でアルバイトをしていたこともあります。そこではシャワートイレを組み立てていました。
だから生産者の立場というのがよくわかります。
野菜にしろ、工業製品にしろ、何かを作るって結構大変です。手間隙かかっています。
なので私は買い物をするときに特徴があるんです。
それは値切らないこと。安売り品は買いません。
なぜだかわかりますか?
生産者がかわいそうだからです。
一生懸命、丹精込めて作った商品を安く買いたたかれたら悲しいだろうと思うのです。
「おまえの努力なんてこのくらいの価値しかないんだ」とさげすまれているように私は感じるんです。
だから私は極力定価で買うようにしています。ディスカウントショップには行きません。
安売りの日にはあえて買わず、定価に戻ってから買うのです。
「作ってくれてありがとう」の気持ちを込めて、それなりのお金を払いたいのです。
少しでも安く手に入れば、自分さえよければそれでいいとは私には思えないんです。
誰かが安く買いたたいたその影には、泣いている人がいるんじゃないかな、と思います。」

二つ前の話で経済は崩壊する、と書いたがこういうことを書くとお金が悪いと考える人もいる。
誤解の無いように書くが、お金が悪いとは一言も言っていない。
今の経済のシステムが間違っていると言う事を言いたいのだ。
今の人間が生活をする上でお金は必要だ。
物々交換だけでは今の生活は成り立たない。
要点はいかにお金をいただき、いかにお金を使うかということだろう。
ゲットするという言葉があるが、これは自分が得るもの、という考えが根底にある。
自分が支払うものは最小に押さえ、得るものは最大にしたい。
欲だ。
欲に支配されると、お得という言葉に弱くなる。
常に損得勘定を考えてしまう。
偉そうに言う僕も、自分を見つめるとそうなっている時もある。
なかなかこの人のような心境にはなれない。
まあ全てはバランスなので、財布と相談しながらすればいいかな、と自分を慰める日々である。

先日は近所のリカトンブッシュというマーケットに行った。
肉も野菜も生産者が直接売っているマーケットである。
チーズもワインも試食をして旨いと思ったものが買える。
ここで売ってるWaipara Westというワインはここでしか買えない。
スーパーでも酒屋でも売っていない。
もともと生産量が少ないのだろう。
友達がこのワインを日本で見つけたと言っていた。
それを売り場の人に言ったらとても喜んでいた。そのワインを1本買った。
チーズも丁寧に説明をしてくれて、人の好みを聞き、「それならばこのチーズはどうだ?」と説明をされて、試食用に切ってくれる。
そのチーズは旨く、何種類か買った。
ただし安くはない。
かといって法外な値段でもない。
僕は正当な値段だと思った。
買うほうも納得をしてお金を払う時に出る言葉は「ありがとう」である。
売るほうも「ありがとう」という。
人間関係でお互いに「ありがとう」という時はその関係が健全な証拠だ。

一つ若気の至りの話も書こう。
南米ペルーを旅していた時の話である。
ペルーではあちこちで物売りの人がいて、売り物を体中にぶらさげている。
それらの値段は観光客用にふっかけてあり、値切るのが当たり前だ。
ある叔母ちゃんが持っていた手編みのベルトが欲しくなったのでいくらか聞いた。
現地の通貨で10ぐらいだったと思う。
ノーと言うとそれが9になり8になり7になった。
このへんまでは面白いように値段が下がる。
それが6になり5になるとそのスピードも落ちてくる。
5から4になる頃にはおばちゃんの顔から笑顔が消える。
さらにねばり4から3.5になるまで30分。
こうなるとおばちゃんもうんざりした顔になる。
結局3.3ぐらいでそれを買った。
おばちゃんはムッとした顔でそれを僕に渡し、僕は勝ち誇った気でその場を去った。
当然のことながらそこに「ありがとう」はない。
おばちゃんはイヤな思いをしたし、何も知らない僕はたかが数十円のために時間を費やし勝った気分になった。
そして自分の欲、自分のエゴを他の旅人に自慢した。
若くて何も知らないということは、こういうことだ。

リカトンブッシュのマーケットに話は戻るが、ここは全体的に値段が高めだが、品質も高い。
最近はクライストチャーチのあちこちでこういう本物志向のマーケットが増えてきた。
平飼いの卵、無農薬の野菜、手作りのお菓子やジャム、など。
生産者と消費者が交流をするというのはいいことだ。
安さだけを求めるのならば大きなスーパーマーケットへ行けばいい。
だが物には正当な対価というものがある。
正直な話、僕は自分が作っている野菜や卵をスーパーで売っている値段で売る気にはなれない。
たまに野菜や卵を作っていると言うと、その方が安上がりになるからやっていると思う人がいる。
とんでもないことだ。お金を払って買う方が楽だし安い。
僕はお金で買えないもののために野菜を育て、鶏を買う。
庭仕事にかけるエネルギーをお金に換算したら何千ドルにもなることだろう。
自分がやるべき事が自分の仕事であり、お金を頂くかどうかは二次的なもの。
どれも一生懸命やる。手は抜かない。
そして自分が仕事をして頂いたお金をいかに使うか。
それはその人の心の現れでもあると思う。
信頼でき納得のいくものを買って出る言葉はありがとう。
そしてそれを食べて出る言葉もありがとう。
値切らない人のようにはできなくても、感謝をしながらお金を払いたいものだ。
そしてありがとうずくしの生活ができる事に、ありがたやありがたや、なのである。
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言霊

2012-10-20 | 日記
言霊とは言葉の魂だ。
言葉には魂がある。
良い言葉には良い魂が、悪い言葉には悪い魂が宿る。
以前、ある場所を走っている時に見通しの悪いコーナーで大型トレーラーとすれ違った。
僕は何故か分からなかったがFワードを言ってしまった。
Fワードは英語では一番悪いとされている言葉である。
ちなみに昔、バスドライバーをやっている時には1日に100回もこの言葉をつぶやいていた。
あの時には心がすさんだ。
若い頃、英語を覚えたての時にはこの言葉がかっこいいのだと勘違いして所構わず使い周囲のひんしゅくを買った事もあった。
まあ、若気の至りということで許してもらおう。
年を重ねそれなりに分別もつき、子供も成長すると、めったにはこの言葉も使う事がなくなった。
だがこの時は自然とこの言葉が口から出た。
その瞬間、トレーラーからの石が跳ね、車のフロントスクリーンを傷つけた。
幸いスピードも出していなかったので、傷も小さいものだった。
ここではストーンチップと言われ、特別に珍しいことではない。
誰でも車を運転していれば1回や2回は経験することだ。
僕も何回も経験はあるが、このタイミングで来たか、とその時に思った。
まさに下唇に歯を当て正確にFの発音をしてこの言葉を言った瞬間である。
物事に偶然はない。
これは言葉の魂が僕に気づかせるために、このタイミングで石をとばしたのだ。
それ以来、僕はこの言葉を全く使わなくなった。

あるフェイスブックのでページで見たが、紙を4枚用意して2枚には「ありがとう」と書き2枚には「ばかやろう」と書いた。
それぞれの紙の上に桃をのせてみると、「ありがとう」の方の桃はみずみずしさを保つのに「ばかやろう」の方の桃はシナシナになった。
これが言霊だ。
もちろん賛否両論ある。
素晴らしいという意見が大多数だが「科学的でない」「インチキだ」という意見もある。
科学的ではないさ。だって今の科学とはこういったことを否定することに原点があるのだから。
否定する人はこの実験をやるか?
たぶんやらないだろうし、やっても同じ結果にはならないだろう。
否定する人の心の奥には、それまで自分が信じていたものが崩れてしまう怖れがある。
その怖れが強ければ「ありがとう」と素直に感じることもなくなってしまうだろう。

別の情報ソースから「戦後、アメリカの占領下となった日本において、メディアを陰で支配している電通が、アメリカからの命令で絶対にテレビやCMなどで使ってはならないと禁止された日本語は「言霊」だったようです。」
なるほどね。

僕が最近若いお父さんお母さんに言う言葉でこういうものがある。
「できるだけ自分が生まれ育った土地の言葉で子供に話しかけてください。関西弁なら関西弁で、九州弁なら九州弁で、東北弁なら東北弁で。訛りを隠さず自分の言葉で話してください」
言葉というのは波動の一つである。
ある人がその土地の方言をしゃべる事により、言葉以上のものが人の心に伝わる。
マスメディアの普及により、方言がどんどん薄れてしまうのは嘆き悲しむことだ。
そういう僕だって、長い事NZに居て、方言が出なくなっている。
と自分では思っていたのだが、あるお客さんに指摘された。
「ガイドさんは『~ね』とよく使うけど、それは静岡の方言でしょうか?」
「いや、違うと思います。静岡の言葉は『なんとかだら~』とか『なんとかずら~』とか『なんとから~』というようなものです。」
「そうですか、でもなんか優しい感じがしてとてもいいです」
「そうですか、ありがとうございます」
静岡弁では「青い、赤い、黄色い」を「あええ、あきゃあ、きいない」と言う。
そんな静岡弁も今は全く出ないが、あえて言うなら『聖弁』とでも言おうか。
以前にも「綺麗な日本語をしゃべる」と誉められた事もある。
聞く人が喜んでくれるので、まあ良しとしよう。

言葉には魂がある。
その魂とは自分の気持ちに直結する。
自分の心が真っ直ぐで曇りがなければ、言葉も自然にそうなる、と僕は思っている。
そしてそこから出た言葉には目に見えない、科学で究明できない魂があり、色々な物事を起こす。
家の庭に生えるシルバービートは灰汁が出ないと評判だが、これも僕は言霊のおかげだと思っている。
実際、家の野菜はどれも旨い。
鶏の卵も旨い。
そして僕が庭でつぶやく言葉は「ありがたやありがたや」なのである。
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できるだけシンプルに。

2012-10-14 | 日記
以前働いていた会社の社長が言っていた言葉。
「うちはできるだけシンプルにやっていこうと思う」
この言葉を聞いた時にピンと来た。
これからはそうあるべきだろうな。
そして自分もそうなりたいと。
その会社では10年近く働いていたが、ボスの言うとおり会社の運営はシンプルで、システムが健全に働いていた。
今まで働いた会社で、これ以上の所はなかった。
諸々の事情でそこの会社を去ったが、今でもその人との付き合いはあり、僕のことを気にかけてくれて事あるごとに声をかけてくれる。ありがたいことだ。
これからの世界で生き残るのはシンプルなシステムだと思う。
個人でも企業でも社会でも。

「なんでわざわざ複雑にするのだろう」
色々な場面でそう思うことがある。
人間は物事を複雑にさせ、結果、やらなくてもいい仕事が増える。
そういうどうでもいい仕事に呑まれ、本当に大切な事がおろそかになってしまう。
これが複雑化した社会のマイナスのスパイアルだ。
僕の嫌いな仕事でツアーレポートというものがある。
何かしら問題が起こったときに、レポートを提出するのは分かる。
20年前にニュージーランドの会社で働いていた時は、問題があった時だけレポートを書いていた。
だが相手が日本の会社だと、お客さんがハッピーでツアーも問題なく終わった後にもレポートを書けと言う。
なので「全て異常なし」と書くと「これではダメだ。もっと詳しく書け」と言われた。
ムダだ。
時間のムダ。労力のムダ。紙のムダ。電気代のムダである。
プロのガイドならばお客さんがハッピーで当たり前なのだ。
そんな事をやっているヒマがあるならば、自分を高めより良いサービスをする方にエネルギーを使った方がよっぽど良い。
だが管理するほうではできるだけ多くの情報を得ようとする。
結果、何事もなかった物までレポートを提出せよ、となってしまう。
まあこれも、お客さんの事を第一に考えず、自分のエゴで働くガイドがいるのでこうなるのだ。
要は元の会社、現場にいるガイド、これらが共同でより複雑なシステムを作っているのだ。

情報社会という言葉があるが、様々な情報が巷に溢れ、全ての人が「何がなんだか分からなくなっている」というのが現代だ。
Aは良いという情報と、Aは悪いという情報が同時に存在する。
当然ながら情報操作もある。
有名な大学の教授が「放射能は身体に良い」などと言いだす始末だ。
そしてそれはグローバルという名のもとにおいて加速する。
ますます複雑になり、にっちもさっちもいかなくなるということだ。
あるブログで上手い事を書いてあった。
1、情報化が社会をさらに複雑化させる。
2、その複雑化で全体像が見えなくなる。
3、予期せぬ事態を起こす。
4、複雑すぎて問題が解決できなくなる。
5、複雑化した社会が自滅する。
最後に来るのは破滅だ。
そしてその発端がどこにあろうが、グローバルという大義名分で繋がっている今、そこからは逃れられない。
はっきり言おう。
この先、経済は崩壊する。
ギリシャやスペインの財政破綻は他人事ではない。
それらはきっかけであって、遅かれ早かれ世界もそうなる。
現在、株式市場では秒速取引が当たり前になっており、取引の80%近くはすでにアルゴリズム取引(コンピュータによる自動売買)になっているとも言われている。
秒速1500万トランザクションまでの処理が可能なコンピュータが、市場で暴走しているのが今の世の中だ。
こんなことがいつまでも続くと思うか?
僕は経済のことはまるっきり分からないが、そんな僕でも今の経済のシステムが間違っているのは分かる。
何故なら今の経済の本質が『世界中の富を全人類で分配した時に足りないようにできている』というのが原点にあるからだ。
どこまで行っても常に『持つ者と持たざる者』が存在する。
これは愛ではない。
根底に愛がないシステムは必ず滅びる。

もう一度言う。
経済は崩壊する。
昔、ノアが「洪水が来るぞ」と言った時、人々はどうしたか?
人々は彼のことをあざけ笑い、最後の瞬間まで略奪と暴行をやめなかった。そして死んでいった。
今がその時である。洪水は来る。
それは経済の崩壊、社会のシステムの崩壊という洪水だ。
その後はどうなるか?どうすればいいのか?
無責任だが僕にも分からない。誰にも分からない。
大きな混乱が来るのは間違いない。
経済が崩壊するならば、銀行の預金を下ろして金や宝石や食料を買い占めておこう。
それならば借金も帳消しになるから今のうちに好きなことをやっておこう。
これらはエゴだ。
その時はいいかもしれないが後で必ず痛いしっぺ返しがやって来る。
僕自身で言えば、それが来る時も、それが来た後も庭で野菜を育て鶏を飼い続けることだろう。
経済というものに依存しない自分の生活を続けるだろう。
それまでは今までどおり働いてお金を稼ぎ、買い物をして生きていくだろう。
やけくそになるのではなく、今までと同じように生きていく、ただし水の確保や最低限の食料の確保など準備は怠らない。
その時が来たら、その時に自分ができる事をするだろう。
その覚悟があるので恐怖はない。

できるだけシンプルに。
どこかの誰かが作って、どういう経路で運ばれてきたか分からない食べ物より、庭の野菜と卵はよりシンプルだ。
地球の裏側で作られた物より、国内産の物、もっと言えばできるだけ家の近くで作られた物を買う方がシンプルだ。
安いからといって中国産の物は買わない。中国産でしかこの味を出せないというような時に中国産の物を買う。
毎日毎日、自分ができる事、自分がやるべき事をやる。シンプルだ。
自分がやるべき事とは、自分自身を見つめなければ分からない。
どんな時でもエゴに振り回されず、愛を持って生きていれば何の不安も心配も無い。
そう考えると、この先どうなるのか、いい意味でワクワクする。
シンプルに生きること。
これがこれからの生き方の鍵になるのは間違いないだろう。
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10月4日 Porters

2012-10-05 | 最新雪情報
10月頭、ニュージーランドの学校は春休みである。
娘とその友達を連れてポーターズへ上がった。
10月に入ると街は春爛漫、街にいるとスキーという気分ではなくなるのか、山にも人は少ない。
ポーターズもシーズン終了予定は6日。
ゲレンデ下部は雪も少なく、通路のように雪が残っている。
だが上部には雪はたっぷりあり春スキーが楽しめる。

子供達を連れて山頂で景色を眺める。
僕は子供達に言った。
「今立っているこの場所はクライストチャーチから見える山だ。そのむこうにはこの景色が広がっているんだよ。そしてこれが君達の住んでいる国だ」
娘の深雪が言った。
「うわあ、気持ちいいね」
「そうだ。その『気持ちいい』というのを感じることが大切なんだよ」
こんな場所で地理の勉強もする。
「さて、みんなニュージーランドで一番高い山はどこだ?」
「マウントクック」
「そうだな。ここからでも見えるぞ、どれか分かるか?」
「あれじゃない?」
一番年少の坊主が言った。
「そう、あの遠くで上が平らに見えるでっかいのがそうだ」
別の娘が言った。
「もっと、尖っているかと思った」
「そう、君が前に見たクックは湖の方から見ただろ。そうすると尖って見える。だけど横から見るとああいう形で見える。山ってのは見る角度で違った形で見えるんだよ」

景色を眺めた後は体育の授業、スキーの時間だ。
急斜面は子供達を引き連れて滑り、緩斜面は各自で滑らせる。
子供一人一人に課題を与え、それぞれにやらせる。
他所のとあるスキー場ではこんなことをしたらスキーインストラクターが営業妨害だと文句を言ってくるが、ここでは僕もスタッフの一員なので何も問題はない。
ワンポイントのアドバイスだけで子供達は見る見る上手くなる。
何より楽しく滑るということが一番なのだ。
ハーフパイプにだって入る。
ジャンプなどはできないが、その中を行ったり来たりするのだって楽しい。
深雪がきっちりと小さい子の面倒を見ている。
実によろしい。

時には雷も落とす。
僕は自分の子供と同じように他人の子供を叱る。
そして自分の子供と同じように他人の子供を誉める。
子供というのは自分だけの物ではない。
子供は地球の、全人類の財産なのだ。
その子供達にこういう経験をさせるというのが自分の役目だと思っている。
自分にできることをする。
それには自分が何をできるのか知らなければならない。
今日の自分にできるのはこれである。
何の疑いもない。
何故ならその行動の原動力は愛だからである。
これが僕の愛だ。
子供が育つのに20人の大人の愛が必要だと言う。
それは親の愛はもちろんだが爺ちゃん婆ちゃん、親戚のおじさんおばさん、学校や塾の先生、クラブ活動のコーチ、近所のおじさんおばさんなどなど。
甘やかすだけが愛ではない。
時にはきびしく怒鳴りつけるのだって必要だ。
自然を甘く見た人間が痛い目にあうように、きびしい警告も知らなければならない。
そしてそれを与えるのが父親の愛だ。

1日の終わりごろには全員一人でTバーに乗れるようになり、初級者コースは難なく滑れるようになった。
最後の1時間は好きなように滑らせる。
だが釘を刺すのも忘れない。
「いいかみんなよく聞け。俺はスキーパトロールをやってきた。その経験で言うが、1日の終わりが一番ケガが多い時間だ。知らないうちに体が疲れてきてるからな。みんなも最後の最後まで気を抜かないように集中して滑りなさい。ケガをして痛いのは自分だ。俺じゃない。自分の身は自分で守りなさい」
釘が効いたのか、山の神が守ってくれたのか、子供達は怪我もなく最終リフトまでスキーを楽しんだ。
僕は帰る前に手を合わせ山に拝み感謝の言葉を唱えた。
「今年も良いシーズンでした。子供達も今日は良い1日を過ごせました。ありがとうございました。また来年もよろしくお願いします。」
来シーズンにはこの子供達も、急斜面を滑るようになる事だろう。
そしてそれを見守ってやろう、それが自分にできることだと思いながら山を下った。


この景色ともしばしお別れ。山に向って拝む。



午前中は下部で練習。


名物バーン、ビッグママの雪も途切れた。


全員が一人でTバーに乗れるようになった。そういう時は思いっきり誉める。



そして山頂へ。


とにかく楽しい。


深雪がきっちりとスピードをコントロールして滑る。こうなると大人も楽だ。


パトロールのデイブがマットを引っ張って降りてきた。僕も昔やっていた事を思い出した。


子供が楽しいと大人も楽しい。皆ハッピー、笑いながら滑る。





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空間

2012-10-01 | 日記


最近の日課は犬の散歩である。
家から歩いて5分ぐらいの所にカンタベリーパークという大きな公園がある。
どれぐらい大きいかと言うと、ありきたりな言い方だが東京ドームが30個分ぐらいか。
ちなみにガイドネタだが、ハグレーパークはドーム38個分なんだそうな。
地図で見るとそこよりちょっと小さいぐらいなのでたぶん30個分ぐらいだろう。
まあそれが28個だろうが30個だろうがどうでもいい。
とにかくそれぐらいの大きな公園が近所にある。



小川を越える橋を渡り、小道を抜けるとだだっ広い空間が広がる。
公園の中は牧場もあり、この時期は子羊が跳ねまわる。
茂みの脇には大きな木をくりぬいたベンチがあり、そこからの眺めも好きだ。
遠くには雪を載せた山並みが見え、典型的なニュージーランドの景色がある。
自分が何回も滑ったポーターズのビッグママという斜面もここから見える。
こちらから向こうが見えるということは、向こうからこちらが見えることだ。
先週、山に上がった時もポーターズのてっぺんから僕は街を眺めた。
大地から見れば塵の一つほどの自分が、場所を越えて時間を越えて存在し物を想う。



公園には池があり、池の周りを遊歩道がある。
鴨や黒鳥が居て、犬は気が向くとザブンと水に飛び込み泳いで鳥を追う。
鳥も簡単には犬に捕まらない。犬も気が済むと飼い主の所に戻ってくる。
ここでは犬も自由で幸せそうだ。
池の周りにはキャベッジツリーが生えている。
キャベッジツリーはシュロのような木で、この国の原生種である。
原生の木としては一番多いのではなかろうか。
例えば原生のブナの木などは国立公園へ行けばたくさんあるが、他の所にはほとんどない。
キャベッジツリーは国立公園はもちろん、普通の野山にもあるし牧場にも街角にもある。
家にも何本か生えている。
この国で普通に生活をしていてこの木を見ない日はない、というぐらいどこにでもある。
そんなキャベッジツリーのある何気ない風景が好きだ。
特別なものではない、当たり前の中に喜びはある。



青空にポッカリと浮かんだ雲がゆっくりと風に流される。
僕は心を空っぽにして空を見る。
子供の頃、ただ広い場所にいるだけでうれしかった、あの感覚。
空間とは空の間でありり、『そら』とは『くう』なのだ。
そしてその先は宇宙に繋がり、同時に自分の内部へも繋がる。
何もしないでボケーとこういう景色を眺めること。
心を空にしなければ、入ってこないこともある。
そしてこういう何気ない広い空間が家の近所にある。
それが僕の幸せであり、幸せを感じることが活力の源なのだ。

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