あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

6月30日 Porters

2012-06-30 | 最新雪情報
晴れているが風の強い日が続いた。
土曜になりスクールホリデーが始まるのと同時に風が止んだ。
無風快晴。こんな時は本を持って山頂に上がる。
リフト降り場から5分も歩くとスキー場のざわめきは一切聞こえなくなる。
静寂という静けさに包まれた場所がそのまま書斎となる。


パトロールのブラッドが朝のセッティングを終えて、ほっと一息。


オリンパスも開いた。


山頂で写真を撮っていたら、旧友ブラウニーが上がってきた。


雪崩の危険度は中くらい。


風紋は風が作る芸術だ。


上部は雪が良い。雪が良いと圧雪もビシっと決まる。


下部は昼間でも日が当たらない。ここは昼間でも雪を降らす。


初心者エリア。マジックカーペットは初心者に最適だ。


ケアにやられてボロボロ。


ちょっと歩いて、荷物を広げた場所が書斎だ。
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6月27日 Porters

2012-06-28 | 最新雪情報
前回Portersの山頂から見えていた悪天候が来た。
山は大荒れで1日クローズ。
そして嵐が去った。
新雪30cm。だがNZ特有の風で叩かれた雪だ。
雪のつかない斜面はことごとく飛ばされたが吹き溜まる場所もある。
朝のうちは吹き飛ばされるような風が吹いたが、昼から風は止み一番上のTバーまで開いた。
ボーナスで1日の終わりにブラフフェイスが開いた。


降雪の後の1日は雪かきから始まる。


マウンテンロードの登り口まで雪が降った。


昼から晴れた。風で叩かれたパウダーである。


T3が開いた。風がまだ強い。この風で動かせられるのがTバーの強さだ。チェアリフトなら止まる。


T3の乗り場にリフト待ちができた。


滑った後から風で飛ばされた雪で埋まる。


知り合いの小僧が「バカなことをやる」と言うのでついていった。


午後になりブラフフェイスが開いた。上から下まで滑ればヘリスキー1本分だ。


小僧が飛ぶ。


駐車場で見かけた車。どこを走ってきたのだろう。
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6月25日 Porters

2012-06-26 | 
ポーターズは22日にオープンした。
積雪は35cm、山の上部では50cmほど。
ベースはほぼ出来上がっている。
下部の雪の薄いところはこれからも人工降雪機で雪を作っていくことだろう。
この日の天気は上々。風は強いが快晴だった。
山頂に一人。
この景色は去年と全く変わらずボクを包んでくれた。
ただ西の方からは雲が広がってきているので、これから一荒れ来るだろう。


この辺一帯のプリンを並べたような地形は独特だ。


レイク・コーリッジが青い水を湛える。ニュージーランドは水が豊かな国だ。


マウントハットもきょうは快晴。平野の彼方に広がるのは太平洋だ。


この時期、雪の薄い場所もある。ゲレンデの石拾いはパトロールの仕事だ。


あわてないあわてない、一休み一休み。


山の上部は日当たりが良いが、下部は影の中である。


西の方から雲が押し寄せてきた。


ベースはほぼ出来上がった。あとは次の新雪を待つ。


この場所に身を置くことが幸せ。
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2012-06-24 | 
前回のツアーの帰りにサーモンを買ってきた。
マウントクックの氷河の溶け水で育ったサーモンは絶品なのである。
いつもボクはそこを通る度にサーモンを買うのだが、今回は奮発して3匹買った。
そのうちの半身はスモークサーモン。
捌いて骨を取り塩コショウで下味をつけ、スモーカーと呼ばれるステンレスの箱で燻すこと15分。
身にはほんのりと火がとおりジューシー。
マヌカの香り良く、シンプルな一品である。
これは家族で招待されたお好み焼きパーティーで作った。

その翌日は友達家族、同僚を招いてサーモンの宴である。
頭と骨、尻尾は煮出してダシを取り、大根、人参、白菜、ネギ、豆腐を入れて汁物に。
味噌仕立ての具沢山の汁である。
皮はパリっと焼いて塩味で皮せんべい。これがビールに良く合うのだ。
一枚半の身は刺身に。これでもくらえ、というぐらい刺身を作る。
生は文句なく旨いが、熱々のご飯に埋めてご飯の熱でほんのり火が通った身も違う旨さがある。
アボガドのスライスとサーモンにちょっとマヨネーズをのせて、なんてのもありだ。
かまの部分やハラモ、尻尾の近くは照り焼きに。味付けは醤油とミリンのみ。
これまたご飯が進んでしまう味である。
大人6人子供3人犬1匹がサーモンをたらふく食べた。
物でもなんでも分け合えば余る。奪い合えば足りなくなるのだ。

サーモンを買ってきた時は、犬もご馳走にありつける。
ダシをとった後の頭や尻尾や骨は喜んで食べるし、照り焼きを作った後に鍋にこびりついた焦げ目もお湯を足し、冷ご飯を入れて一煮立ちさせるとご馳走になる。
鍋にこびりついたところには鮭の旨みが充分残っている。
犬に鍋を舐めさせればきれいになるだろうが、散歩の時に羊の糞を舐めたりしているその口で家庭用の鍋を舐めさせるのはイヤだ。
なのでゴムベラを使い犬用の皿に移す。こうすればムダ無く鍋もきれいになるし、犬も喜ぶ。
主夫の知恵だ。
我が家ではサーモンが1匹そのまま消えてなくなる。
全くムダが出ない。
とてもよろしい。



その翌日は余った刺身を醤油に1日漬けてヅケをつくり、それで再びサーモン丼。
醤油に漬けるとまた少し違う旨みになる。
炊きたてご飯の中にヅケを埋めて、海苔をパラパラ。
これまたご馳走である。
ご馳走とはそこにあるもので、最高に旨い食べ方をすることがご馳走なのだ。
さすがに鮭が3日続くと、もういいかな、と思う。
だがあと1匹まるまる残っている。
それならば、女房のリクエストにおこたえして新巻鮭だ。
我が家ではニンニクを編んで使う分だけそこから取っていくのだが、使いきったものがワラのように残っている。
これをエラの所に通せばぶら下げられる。
こういうように材料が揃っている時は「やりなさい」というサインでもある。
やり方は簡単。
塩をまぶしてぶら下げておくだけ。
塩はブレナム産の天然塩。
かなりの量の水が出るので、うちでは洗濯機の横の流しの上に木で梁を作りぶら下げた。



放っておくこと数日。
水分はあらかた流れ落ち、実は締まって良い感じである。
塩鮭というのは、当たり前だが調味料は塩だけ。
これ以上はない、というくらいシンプルな味付けである。
その分、素材の旨さで味に違いが出るのではなかろうか。
さらに女房からリクエストが出た。
「これだったら炭火で焼きたいわね」
やりましょう。その場にあるもので最高のやり方で作るのがご馳走ならば、手間暇を惜しまずにやるべき。
週末、時間もあるのでボクは炭で火を熾した。
いつものことながら炭火を熾す、というのは手間がかかる。
ガスバーナーで炭を焼き、ある程度赤くなったら七輪に移し、うちわでパタパタとあおぐ。
電気やガスのようにスイッチ一つでポンというわけにはいかない。
だがこういうことを知るからこそ、電気やガスの有難みが分かる。
当たり前の事に感謝の気持ちは生まれない。
そして手間をかけて炭火で焼いた物はとにかく旨いのだ。
せっかくの炭火なので庭から長ネギを掘り出しネギも鮭と一緒に焼く。
基本は遠火の強火。
鮭から滴る油で辺りはもうもうとする。
犬のココが物欲しげに周りをウロウロする。
そりゃ人間の何百倍も嗅覚が強かったら、この匂いだけでもたまらないだろうな。
首尾よく魚とネギが焼きあがったが炭はまだ残っている。
サツマイモがあったので網を一段高くして、火を弱め上から覆いをして焼きイモだ。
サツマイモはじっくりと火を通すと甘みが増す。



さて今日は純和食だ。
土鍋で炊いたご飯。大根の味噌汁。鳥と大根と昆布の煮物。そして塩鮭である。
おもむろに鮭を一口。
当然のことながら旨い。
何日かおいたので、たんぱく質がアミノ酸に分解されて旨くなっている。
塩加減は腹の辺り、身の薄いところはちょうど良い。
背中の辺りは気持ち塩が薄いか。
女房曰く「上品な味の塩鮭」だ。
普通に食べるには良いが、おにぎりに入れるには塩気が足りないだろう。
自分ではけっこう塩をまぶしたつもりだったのだが、まだ足りなかったか。
課題は残るが、これも自分でやってこそ。
経験に勝る財産はない。
そして炭火で焼いたネギは甘い。野菜の甘さだ。
娘に食べさせたが、あまり好きではないようだ。
「じゃあ、食べなくていい。俺が全部食べるから」
家の庭のネギは、味が濃く、とことん甘い。
取ってすぐに焼いていただく。調味料は新鮮さ、だけだ。
感動的に旨い。大地の恵みである。
味噌汁も旨いし、煮物も旨い。炊きたてご飯も旨い。
派手さはないが立派なご馳走だ。
ニュージーランドにいながらにして和食をいただく。
今日もまた数々の命をいただきました。
ありがたやありがたや。
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大往生したけりゃ医療とかかわるな

2012-06-20 | 日記
強烈なタイトルである。
これは中村仁一という人が書いた本で、サブタイトルが「自然死」のすすめ。
さらに強烈なサブタイトルで「死ぬのはガンにかぎる。ただし治療はせずに」
もうこれだけで中身は想像できるだろう。
この本のことをネットで見て、読んでみたいと思った。
こうしたいと思うと実現する。
そういうふうに世の中はできている。
本との出会いは人との出会いと同じだ。
読むべくしたタイミングで向こうからやってくる。
先日ある友人の家に招かれた時にこの本があった。
その人は快く本を貸してくれて、ボクは読みふけった。
結論から言えば、ボクが感じていることがそのまま書いてあり、期待通りの本だった。
ボクは普段から考えている事なのだが、無駄な延命医療に費やしているエネルギー。
お金であったり、人が関わって働く時間であったり、薬であったり、そういったエネルギーを子供の健康の為に使えたらどんなにいいか、そう思っている。
その中の延命医療について書かれている本である。
これがもう、実に小気味良く、ユーモアを交えながら分かりやすく書いてある。
こういう本を現場のお医者さんが書いているというのが良い。
同じ事をボクが言ったとしても「オマエに何が分かる」と言われてしまえばそれまでだ。身も蓋もない。
だが現場で長年やってきた人の言葉というのは重みがある。

ボクは普段から、自分がもしもガンになっても放射線治療とか抗がん剤は飲みたくない、そう思っていた。
それをする人を批判する気は全くない。ボクならばそうするというだけのことだ。
もしもガンになったら、それはそれとして受け止め、自然に死んでいこう、漠然とそう思っていた。
その気持ちを背中から押してくれるような、そんな安心感を与えてくれる本である。
世間では、死について話をすると「縁起でもない」と言われてしまう。
そうやって死から、目を背けてしまう。
これはやはり恐怖があるからだ。
ボクには死に対する恐怖は無い。
「なに偉そうな事言ってやがって、オマエみたいなヤツがその場になったら一番ジタバタするんだ」
そういう声が聞こえてきそうだが、そうなったらそれはそれで面白いかもしれない。
とにかく今のボクには死に対する恐怖は全く無い。

死にそうになったことはある。
若い頃に土方をやっていた時の話である。
作業用のモノレールでパイプなどの資材を運んでいた。
モノレールは地上3~40cmの所を通るのだが、斜面でパイプがずり落ちボクはモノレールから振り落とされた。
そのまま身体が二つ折りになり、モノレールと地面の間に挟まれ、ボクの真上を台車が通って行った。
不思議と恐怖はなかった。
顔すれすれのところを台車が通るのを見ながら身体は押しつぶされ「ふぎゃあ」という情けない声が出たことを覚えている。
あの時に死んでもおかしくなかった。
死ななくても半身不随とか、手足がなくなるような大怪我でもおかしくない状況だ。
だが足を二針縫うぐらいの怪我で済んだ。
奇跡的な軽傷だ。
今こうやって思い出してみても、恐怖はない。
ただ、何者かによって護られていると感じた。
ありがたやありがたや、なのである。

臨死体験というものもある。
初めてバンジージャンプを飛んだ時のことだ。
20代前半、クィーンズタウンの近く、バンジージャンプ発祥の地、カワラウのバンジーサイトで会社の研修で飛んだ。
すごく怖かったのだがギャラリーもたくさん居たし、「オレは平気だよ~」という顔でボクは橋の上に立った。
下を見たら怖くなって飛べなくなってしまう。それから時間が経てば飛べなくなってしまう。
恐怖というものは自分の心の中で増幅するものだから。
それが分かっていたから、下を見ないで何も考えず一発で飛んだ。
飛んでからグングン近くなる水面を見ながら思った。
「あ、オレ死んじゃう。やっぱりこんなのやるんじゃなかったな。」
そう思った瞬間、今までの人生が走馬灯のように駆け巡った。
ボクは妙に冷静に、「ほうほう、人生が走馬灯のように、なんていうのはこういうことだったんだな」などと考えつつそれを楽しんでいたら、ビヨヨーンとこっちの世界へ引き戻された。
実に楽しい体験だった。
残念な事に二回目以降は何回やってもあの体験をすることはできない。
あの先に死後の世界があるのを、ボクは強く感じるので死の恐怖はない。
それより自分がどうやって死ぬのか考えるとワクワクする。
ある夜、普段どおりに寝てそのまま死んじゃう、こんなのは最高に素敵な死に方だ。
誰にも迷惑がかからない。
どうせ人が死ねば葬式やなんやかんやで周りは振り回されるのだ。
事故なんかだと身体もぐちゃぐちゃになったりして、後始末も大変だ。
それなら寝ているうちにポックリ死ぬのが理想だろう。
ボクならそうやって死にたい。

ただし死ぬのには順番がある。
大原則として親より先に死んではならない。
子供が先に死ぬほどの親不孝はない。
これは自分が人の親になって初めて気が付いた。
家では順番から言うと次は父なので、常日頃から「ポックリ死んでくれ」とお願いしてある。
「オレが死んでも帰ってくるな。」と言われているのでボクも非常に気が楽だ。
こういう父親を持って、ありがたやありがたやなのである。
父は事あるごとに「死んじまったら何もない。無である」と言っていた。今でもきっとそうだろう。
父の言う『無』とボクが見ているこれからの世界は同じものだ。
父の話はネタに困らず、死んだら書こうと思っているのだが、なかなか死んでくれない。
先日も福井まで脱原発の集会に出かけたらしい。
早生まれインディゴの父は、年老いても生粋インディゴの血が衰えず、世の中の矛盾に立ち向かっている。
老いて益々盛ん。とてもよろしい。

本の話だった。
この本はタイトルこそきついが、道理を書いてあるだけだ。
ただ読み手によって感想は分かれるだろう。
ボクは良いと思ったが、僕の『良い』は他人の『良い』ではない。
そしてその『良い』は強制はできないし、してはいけない。
あくまで個人個人の心の中から生まれてくる『良い』でなくてはならない。
身体が悪くなったら医者に行く、医者に行けば治る、という常識からちょっと離れてみる為にもこの本は良いと思う。
人間、死ぬ時は死ぬ。
当たり前だが裏もある。
死なない時は死なないのだ。
死というものから目を背けずきっちりと前向きに見つめた時、生というものが見えてくる。
今、こうやって生きている事が、尊く喜ばしいことなのだ。
当たり前だが、当たり前の事がありがたいことである。
今日もボクは生きている。
ありがたやありがたや。





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お酒

2012-06-11 | 日記
以前コーヒーの話でもちょっと触れたが、お酒も人間が認識していないドラッグである。
まずドラッグというと即、麻薬、恐ろしい物、人間やめますか、という式がある。
これはマスコミによる洗脳であり、人々が気づくべき点だ。
麻薬撲滅運動などという言葉を聞いたことがあるが、はっきり言おう。
人類が存在する限り、麻薬はこの世からなくならない。
チョコレート、コーヒー、お茶、紅茶、お酒抜きの生活が考えられるだろうか?
ドラッグとは嗜好品であり薬であり毒にもなるものだ。
そしてこの世に良いドラッグ悪いドラッグは存在しない。
違法か合法かは時代背景や世論で変わる。
昔、禁酒法という法律があったのを知っているか?
その結果、マフィアが大儲けすることになった。
こんなバカなことをするのは、さすがアメリカである。
今の世界でお酒を禁じたらどうなるか?
たくさんの人が職を失い、悪の組織は金を稼ぎ、人々の生活は味気ないものになる。
コーヒーが新世界から持ち込まれた時に、悪魔の飲み物として禁じられた。
大麻草は日本古来から宗教の儀式にも使われてきた神聖な植物だが、世界のほとんどの場所で法律によって禁止されている。
アンフェタミンン、シャブやスピードは今では違法だが、アメリカやソビエトでは政府によって奨励されていた時代もあった。
タバコがヨーロッパに渡った時、いくつかの国ではそれを撲滅するために使用者は死刑された。
法律なんてのはそんなものだ。
再び言おう。ドラッグに良いドラッグや悪いドラッグはない。
正しい使い方があるか間違った使い方があるか、それだけである。
これを元にお酒のことを書きたいと思う。

ボクはお酒が好きである。
喉が渇いた時のビールはたまらなく旨い。
美味いワインとチーズの組み合わせは最高であり、刺身に一番合うお酒は日本酒だと思う。
この世で一番酒が美味いシチュエーションは山の上のビールだし、納得のいく仕事ができてお客さんがハッピーだった時に飲むお酒は最高に美味い。
気の合う仲間とワイワイ飲む酒が又良い。
お酒は人間関係を円滑にしてくれるドラッグであり、百薬の長である。
飲み方によっては。
同時にお酒は生活を破壊し、人間関係にひびを入れ、体を蝕む可能性もある。
これも飲み方によっては、である。
いかに人間がこのドラッグと付き合うかによる。
お酒に限らず全てのドラッグは幸せな状態をより高めるためのものである。
自棄酒(やけ酒)や、飲んで忘れる、飲まなけりゃやってられない、などとという言葉を聞いた事があるだろう。
これは正しいお酒の飲み方ではない。
人生にはいやな事やつらい事は多々ある。
酒の力で一時的に酔って忘れても、酔いが醒めれば依然その問題は残っている。
酔う事で何も解消しない。
醒めてその事を思い出し、再び酒に走ってしまう。これはどうしようもない悪循環だ。
逆に言えば、普段の人生で常にハッピー、常に幸せな状態ならばお酒を飲んでさらにハッピーになれる。
ボクは自分の人生をそう心がけている。
お酒はあくまで明るく楽しく飲むものだ。

それから個人差。
例えば一升のお酒を飲んで平気な人もいれば、ビールをコップ一杯で倒れてしまう人もいる。
これはお酒に限らないが、全てのドラッグの摂取は自分で決めるべきだ。自己責任である。
「俺の酒が飲めないのか」という言葉はお酒を飲む時の最悪なものだ。
日本の悪しき習慣だが、これはある意味、脅迫である。
そういう人とは・・・一緒に飲まないに限る。
日本にはお酒=ドラッグという観念が無い。
なので下戸の人は宴会の席では肩身の狭い思いをすることもあるという。
飲めない人、酒が弱い人を蔑んで見る態度は明らかに間違っている。
逆説だとお酒が弱い人は経済的に酔うことができて安上がりではないか。
確かに豪快にお酒を飲む人は豪傑というようなイメージはあるが、人には個人差があるということを忘れてはいけない。
故にボクはお酌というものが好きではない。
宴会で上司の機嫌を取るためにお酌をする、ということなど考えられない。出世はできない。
綺麗なお姉ちゃんにお酌をしてもらうのもたまにはいいが、それも最初の一杯か二杯。
それを過ぎると「飲みたかったら自分でやるからいいよ」と言ってしまう。
第一、お姉ちゃんのいる飲み屋なんて人生で数回しか行ったことがない。
家に来る人にもテーブルの上にお酒を並べるが、「そこから先は自己責任でやってくれ」と言う。

またお酒はコントロールするのが難しいドラッグでもある。
『酒は飲んでも飲まれるな』そんな言葉があるぐらいコントロールが難しい。
気持ちよく飲んでいたはずなのに、いつのまにか気持ち悪くなり吐いてしまったり、ひどい二日酔いで「もう酒やめた!」なんて経験も一度や二度ではない。
今ではもうないが、若いときには飲みすぎて血を吐いたりもした。
年を重ねるごとに無茶な飲み方もしなくなったが、それでも時々羽目をはずして飲みすぎてしまう。
その度に女房は「何回やっても懲りないのねえ」と呆れている。
呆れられても「これが人間の弱みよ」などとうそぶいているが、辛いのは自分だ。
自業自得、これに勝る言葉はない。
ただボクの場合、酔っ払って人にからむことはないようだ。
ようだ、というのはボクは酔うと記憶がぶっとんでしまう。
楽しかったという事だけ覚えているが、細かい会話などはほとんど忘れてしまう。
まあ、人に迷惑をかけることなく、楽しく飲めるのだから多少の記憶が飛ぶぐらいは良しとしよう。
人によっては飲んで絡む人、さらには暴力的になる人もいる。
酒に酔ってケンカなんてのは一番たちが悪い。
偉そうに言うボクも若気の至りという時があり、クィーンズタウンの飲み屋で取っ組み合いのけんかをしたこともあるそうだ。
そうだ、というのはこれまた別の友達が教えてくれてからだ。
ボクはすっかりその事を忘れていて、ある時その友達に「あいつはなんか分からないけど気に障るんだよなあ」と話したら「なんだ、お前、覚えていないのか?」
と一部始終を教えてくれた。
まあ今ではボクもすっかり平和主義者となり、そんなこともなくなった。
第一、虫が好かないヤツとは一緒に飲まない。
気の合う人と明るく楽しく飲む、これにつきる

ただ世の中には酒を飲んで人を殺してしまうような人もいる。
こんなのは明らかにアルコールの正しくない使い方である。
それから機械の運転、特に車の運転は避けたほうが良い。
ボクもコップ2,3杯のビールを飲んで運転する事はある。
だが純粋にお酒を飲むということを楽しむのならば、飲んだ後で車を運転しなくてもよい状況の方が良いに決まっている。
世の中でどれだけ飲酒運転の事故が多いか。
これも間違った使い方だ。
そして怪我をした時には、お酒を飲むと怪我の治りが遅くなる。
病気の時も飲まないほうがいい。
第一、健康でない時に飲んでも美味しくない。
美味しくない酒は飲むべきではない。
お酒に失礼だ。

こうやって考えると、美味しいお酒が飲めるというのは、健康でいて不安が無く人生が楽しい時なのだ。
ボクは常にそう有るようにこころがけている。
そしてこれからも、小さな失敗はあるかもしれないが、なんとかこのドラッグと上手くつきあっていきたい。
今日も又、美味しいお酒をいただきます。
ありがたや、ありがたや。

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初雪

2012-06-08 | 日記
雪が降った。
普段はこの季節、雪を待ち焦がれ悶々としているのだが、今年はスキー場が開くより一足先に大雪が降ってしまった。
スキーヤーにとって雪はありがたいものだが、普通の生活をする分には雪は厄介な物だ。
道は凍って滑りやすくなるし、車はノロノロ運転で渋滞ができる。
駐車場や家の周りの除雪だって一仕事だし、たくさん雪が降れば屋根から雪下しなんていう仕事も増える。
ボクも豪雪地帯に住んでいたことがあるので、その暮らしぶりはよく分かる。
スキー場でもオープンの準備ができていれば問題はないが、準備ができていなければこれはこれで大変だ。
何年も前だがブロークンリバーでオープン作業を手伝ってことがある。
万事のんびりのクラブフィールドのオープン前に雪が降ってしまい、吹雪の中、大変な思いで仕事をした。
今では良い思い出である。



同時に雪は美しいものでもある。
山は夏もいいが、冬山の美しさは格別である。
町でも一面の雪景色は幻想的で、普段見慣れている景色が別の場所に見える。
庭も雪が厚く積もり美しい。枯れ枝とか雑草を綺麗に隠してくれる。
スキーウェアーを着込みスノーブーツを履き、悪魔の飲み物を片手に庭でしんしんと降る雪を見る。
新潟で見るような牡丹雪だ。
雪の世界の良い所は静かなことだ。
雪は音を吸収する。
なので周りの音はほとんど聞こえない。
そして風が無く、牡丹雪が降るような時は雪の降る音が聞こえる。
それを言葉で表すと『しんしん』という言葉になる。
日本語は美しい。
しんしんと雪が降る。
これだけの言葉の中にどれだけの情緒があるか。
その情緒を感じるのは日本人として生まれ育った自分の心である。









明けて翌日は快晴。
朝日が昇る頃、犬を連れて散歩に出た。
我が家のココは10ヶ月。生まれて初めて見る雪だ。
近くの散歩コースも一面の雪景色にココは喜んで走り回る。
遠くに見える山も雪化粧。
満月から少し欠けた月が西の空にポッカリ浮かぶ。
真っ白な山に朝日が当たり始め、モノクロの世界に色がついていく。
茜色の東の空から黄金色の太陽が登り始めた。
ボクは輝く太陽に向かって手を合わせた。
今日も又、良い1日になる。そんな予感がした。







家へ戻ると今日も学校は休みだと。天気は無風快晴。
それならとボクは娘を誘い、近くの丘へ滑りに出かけた。
車を降りてスキーブーツを履き、ザックにスキーを縛りつけ丘を登る。
ちょっと標高が上がった分、雪質は軽い。ドライパウダー15cm。
ベースがあるわけではないので、まともな滑りはできないが、緩やかな斜面を移動する手段でスキーは最高の道具だ。
ココが喜んで雪の中を跳ね回る。雪が軽く深いので胸の辺りまで潜る。
単純明快、犬らしく雪と戯れる。実によろしい。
パウダースノーはスキーをしなくても楽しい。人も犬も。
去年まではこういう時は娘と二人だったが、今年からは犬も一緒だ。
犬を飼って本当に良かったと、しみじみ思う。
例え車で15分の距離でも装備を整えたり、というのは正直面倒くさくもある。
そして、まあ今日はいいや、となってしまう。
山が遠くになってしまう時だ。
でもそれを越えて山に行った時、やっぱり山はいいな、という感動を得ることができる。
山が受け入れてくれる時だ。
普段は車で行けるビクトリアパークも今日は下の方でゲートを閉めてあるので人影もまばらだ。
眼下に雪景色のクライストチャーチが広がる。
平野の彼方に真っ白な山脈が横たわる。
東の海は太陽の光を受けてキラキラと輝く。
美しい。
ボクはこういう景色の中に自分の身を置くことが好きだ。
それがこの世に自分が在る意味なのだと思う。
そしてそれを一緒に楽しめる、犬を含めた家族がいることに感謝である。







午後は図書館に行き本を借りる。
庭も雪で覆われているので、庭仕事もできない。
こんな時は読書、そして瞑想という名の昼寝だ。
日差しがポカポカと心地良い。
夕方近く、娘がボクを呼びに来た。
「ねえねえお父さん、スノーファイトしよう。」
娘は雪合戦という言葉を知らない。
「よし、やるか。やるならとことんやるぞ」
ボク達は再びスキーウェアーを着て、手袋をして、今回はゴーグルまでして完全防備で庭に出た。
こういう遊びは一生懸命やるに限る。中途半端はダメだ。
雪は水分が抜けさらさらになり雪球が作れない。
なので雪の塊を取り出しぶつけ合う。
装備が完璧なら雪が当たってもへっちゃらだ。
そして雪合戦は肉弾戦へ。
娘を雪の上になぎ倒す。
そして犬のように雪をかける。
犬のココも興奮して周りを跳ね回るので、捕まえて雪の上に転がして雪をドカドカかけたら逃げてしまった。
夕暮れ迫る我が家の庭に子供の笑い声が響き、雪に吸い込まれた。
今日はとことん雪で遊ばせてもらった。
幸せは常にここに在る。
ありがたや、ありがたや。





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主婦業

2012-06-03 | 日記
観光業というのは波がある。
忙しい時はとんでもなく忙しいが、ヒマなときはとことんヒマとなる。
ボクはガイドの仕事が無いときは主婦ならぬ主夫となる。
主婦業というものは直接お金を稼ぐわけではない。
なので世間一般では一段低く見られる傾向にある。
だが人間が生きていくためにとても大切なものだと思う。
自分達の生活環境をきれいにし、健康な食事を作り、清潔な衣服を用意し、外で働く人を内からサポートするのが主婦業だ。
うろおぼえだが、一人の主婦が一生でする家事仕事をお金に換算すると3千万円以上にもなるという。
横暴な日本のお父っつあんが「誰のおかげで飯を食っているんだ」と妻を怒鳴るという話を聞いたことがある。
表面だけでしか物を見ない、金を稼ぐだけが仕事と思えばそうなるのだろう。
そして主婦業というものは自分がボスである。
時間の使い方は自由で、手を抜こうと思えば抜けられるし、賢く働けば時間やエネルギーの節約にもなる。
今回は数ある家の仕事の話である。

朝、家族を送り出してからは自分の時間である。
昨日は天気が良かったので洗濯をした。
洗濯だって朝一で機械を回しておけば、お日様が昇る頃には干せる。
ボクが子供の頃には洗濯は自分の仕事だった。
当時の洗濯機は二槽式で、ある程度の時間ごとに洗濯物を洗濯槽から脱水槽へ入れ替えなければならなかった。
それが今では全自動でスイッチ一つで機械が洗濯をしてくれる。
文明の利器とありがたいものである。
昔の人は洗濯板で洗濯をしていた。
当然時間だって手間だってかかる。
こういう思いはあったはずだ。
「何か便利な箱みたいなものに洗濯物をいれたら、きれいになって出てくる。そんな物があったらいいなあ」
こうなればいいなあ、という思いは実現する。ただし時間はかかる。
昔の人の思いの上に今の生活はある。
ボクがすることはそれを知りつつ、機械を使わせてもらい、そして感謝である。
ありがたや、ありがたや。

洗濯をしているうちに朝食の片付け、夕食の仕込み、トイレ掃除などをする。
家ではトイレ掃除用の洗剤も手作りだ。
洗濯が終わり、外に干して、ニワトリに餌をあげて一段落である。
この時期は日が昇るのが遅い。
洗濯物に日が当たるのは10時くらいだ。
それでも日中は良く日が当たるので午後には乾くことだろう。
洗濯物を外に干す、というのも当たり前のことだが意味がある。
乾燥機を使わずに済むならそれに越したことはない。電気の節約にもなる。
そして日の光というのは有害な菌を殺菌してくれる。
全ては理にかなう。
お茶をいれてまったりしていると犬のココがクンクンと近寄ってきた。
「なんだお前、散歩にいきたいのか?」
「クーン、クーン」
「よし、じゃあちょっとだけ行くか」
ボクはガレージから自転車を出して、ココに首輪をつける。
最近はココもたくましくなり、グイグイと自転車を引っ張る。楽で良い。
そろそろ首輪でなくハーネスを買ってあげようかな。
北欧ではスキージョアリングというものがあり、スキーを履いた人を犬が引っ張るそうな。
何とも楽しそうじゃないか。今度このあたりで雪が降ったらやってみようと思う。
近くのカンタベリーパークが散歩のコースである。
公園まで行くと首輪を外す。
ここから先は自由の身である。
好きなところを走り、好きな所で水に入り鴨を追いかけ、好きな所でウンコをする。
この公園は牧場とつながっており、だだっ広い。牧場ではウンコは拾わない。
ボクは散歩に行く時はビニール袋を持っていく。
人の家の前などでウンコをしたらそれを拾うわけだが、最近ではココも分かっているようで、この公園でウンコをする。
ビニール袋には落ちているゴミを入れて持ち帰る。
空はどこまでも広く、遠くに山が見える。
まもなくあの山も真っ白くなり、来月には山頂からこちらを見下ろすことだろう。

散歩が終わると庭仕事である。
木の枝を切ったり、雑草を抜いたり、畑を耕したり、やる事は山ほどある。
昼飯をはさんで庭のことをやっていると娘を迎えに行く時間だ。
今日は天気が良いのでココを連れて歩いて迎えに行く。
娘の学校までは歩いて40分ぐらいだ。
以前は車がビュンビュン通る道しかなかったが、最近では公園を突っ切って行けるようになった。
歩くというのは人間の基本的な行動である。
そして歩く間というのは実に色々な事を考えるものだ。
時間はかかるがこうやって歩く事の中に色々な問いの答があるような気がする。
家に帰ってきて洗濯物を取り込む。
たたむのは娘の仕事だ。
娘はボクがやるよりもきれいにたたむ。
お気に入りのテレビを見ながら洗濯物をたたむのが好きなようだ。
ボクは庭仕事を続け、暗くなるころに晩飯の支度をする。
そして女房が仕事から帰ってくると家族団らんの食卓である。
これがボクの主夫の1日だ。

もちろん毎日、天気がいいわけではない。
天気が悪く外に出たくない日もある。
そんな時は家の中のことをやる。
先日は洋ナシのコンポートを作った。
ナシは今が旬である。
旬のものは栄養価が高く、そして値段が安い。
人間はもっともっと旬の物を食べるべきだと思う。
近くの八百屋ではB級品が10個で$1だった。
毎年この時期は安いナシを買ってきてコンポートを作る。
コンポートと言うが、なんてことはないシロップ煮である。
大きな鍋に白ワイン1カップ、水2カップ、砂糖160g、蜂蜜大さじ5杯、レモン汁2個分、シナモンスティック1本、バニラエッセンス適量を入れて沸騰させる。
洋ナシの皮をむき半分に切り種の部分をほじり、弱火で15分ぐらい煮る。
ただこれだけ。
シンプルだがこれがめっぽう旨い。
これ一品でデザートにもなるし、朝食にシリアルと一緒に食べてもよし。
熱いうちにビンに入れて密封すれば保存もきく。
ちなみに以前、リンゴや日本の梨でも作ってみたが、味はいまいちだった。
これは断然洋ナシが旨い。
旬の果物で保存食を作る。
立派な主婦の仕事である。

それから、先週はモツ煮を作った。
20年ほど前、クィーンズタウンに住んでいた頃、モツ煮が食いたくなり肉屋でモツを売っていないか聞いた事がある。
「そんな物をオマエはどうするんだ」と言われた。
こっちの肉屋ではタンとかレバーとかハツは売っているがモツは売っていない。
今では中国人経営の肉屋があり、モツとかスジ肉とか、鶏の足とかそういったものも売っている。
アジア人が増えると食が豊かになるのだ。
モツ煮はたくさんで作るほうが旨い。
生のモツなので何回も茹でこぼし、匂いを取る。
庭のネギの葉っぱやニンニク、しょうがで煮て、野菜を入れて又煮る。
庭の大根、ネギ、シルバービート。ニンジン、こんにゃくをいれて弱火でとろとろ煮て味噌で味を整えてできあがり。今回はごぼうが無いのが残念だ。
長ネギを刻んで上にかけて唐辛子をかけて、いただきます。
日本の居酒屋で出てくるようなモツ煮である。
自分で作る喜び、そして食べる喜びがある。幸せである。
そして幸せは皆で分かち合うものだ。
会社の同僚、友達におすそ分けして大鍋一杯のモツ煮は数日でなくなった。それでよし。
ボクにとって人にあげることが喜びであり、それが愛なのだ。
モツ煮なんて、家族分つくるのも10人分作るのも同じだ。
いや、まとまった量で作る方が旨い。
それを食べたいという人に分け与える。見返りは求めない。
見返りの事を考えた瞬間、真実の愛から離れてしまう。
物事は分けあえば足りるし、奪い合えば足りなくなる。
これをイヤイヤやるのならば意味がない。
自分にできることで、それを好きでハッピーという状態。
行動の原動力は愛だ。
幸せのバイブレーションはモツ煮と共に人に伝わる。
主夫もまた楽し。
結構なことである。

コメント
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