クライストチャーチの地震から10日が過ぎた。
余震もかなりおさまり、体で感じる地震は1日に数回となった。
町は復興に向けて動き出し、学校もほとんどの所は始まった。
深雪もオヤジの「学校サボってスキーに行こうぜ」という誘惑にも乗らず、元気に学校へ通っている。
普通はこういった出来事をたまたまそこで起こった偶然、として考えるがボクは違う。
ボクはこれはある種のメッセージとしてとらえる。どこか遠い世界からのメッセージなのだ。
メッセージと言ってもいろいろある。言葉によるメッセージが一番分かりやすい。
歌や映画、芸術といった人間が作り上げたものがメッセージになる時もある。
同時に自然の営みがメッセージにもなるのだ。
それは受取手次第。偶然の出来事かメッセージか、それを決めるのは人間だ。
まず今回の地震で誰も死ななかった。これこそが一番大きなメッセージであろう。
命の大切さ、などと人々は軽々しく口に出すが本当に理解しているのだろうか。
その証拠にこの地震で人が死ななかったことが『奇跡』という一言で片づけられている。
たしかに奇跡には違いない。マグニチュード7.1というのは相当大きなエネルギーだ。
時と場所が違えば一度に何万人という人が死んでもおかしくないエネルギーの強さである。
地球は生き物だ。生きているのだからゲップやおならもする。それが地震や火山という形で地表に現れる。
それによって人がたくさん死ねば大災害となる。
この地震で誰も死ななかった事は喜ぶべき事で感謝すべき事なのだ。
ここがポイント。誰も死なない、この先に『でも』とか『だって』とか『そうは言っても』は無い。
これを理解した上で話を続ける。
ボクはこれでお祭りをしてもいいと思う。『2010、クライストチャーチ、大地震はあったけど誰も死ななかった祭り』イエイ。
だめですか、こんなの?
だって可哀想な人がいるから?
だって、はありません。
生きている。これが大切でしょう。
お祭り騒ぎをドンドンやれば良い。お金を集めて、被害を受けた人に回せばよい。
こういう考えをできない人もいる。
地震の後、あるTシャツが売りに出た。
地震計の針が出す線でクライストチャーチの大聖堂をデザインした物だ。
このTシャツ、普段は30ドルのところを地震スペシャルで20ドル、そのうち5ドルをチャリティーに回すという、素晴らしい企画である。
だが残念なことに販売中止になってしまった。
地震で商売をするのはけしからん。被害にあった人がいるのに可哀想でしょ。
そういう声があがったのだろう。
バカバカしい。
被害にあった人がいるのは認めるが、全ての人がそのレベルに合わせる必要はない。実際、うちのように何もない家が大多数なのだから。
「あなたは自分が被害にあってないからそんなことが言えるのだ」
という声には言い返してやる。
「たとえ地震で家がつぶれたとしてもボクは生きていることに感謝を保ち、結果をありのままに肯定的に受けとめる覚悟はできている。周りの無傷の人が喜んでそのシャツを着て、それでお金というエネルギーが廻るならばそれもいいだろう」
被害を受けた人も、無傷の人も、『生きている』という喜びから離れてはいけない。
その上で自分に何ができるのか考えるのだ。
地震で商売をするのはけしからん、という人もいる。
妬みなのか僻みなのか、よくよく道理というものが分からない人達だ。
ちょっと考えれば分かるだろう。
普段$30で売っているシャツを$20で売って$5チャリティーに出せば残りは$15。
シャツの原価とか流通にかかる費用、人件費を考えれば儲けなど出ないだろうに。よくよく人の足を引っ張るのが好きなのだ。
物もお金もエネルギーである。Tシャツというエネルギーをお金というエネルギーに換え必要な所へ廻す。
行動の原動力が儲けるためではなく、人助けの為なのだ。その人、会社がやっている、自分がやるべき事である。
実際にこのTシャツのチャリティーは$9000にもなった。さらにそこに会社から$2000上乗せして$11000のお金というエネルギーをレッドクロスに寄付している。
それだけの自分達の儲けにならない仕事をしていて、周りからあーだこーだ言われたらイヤになるわな。
だいたいこうやって人の足を引っ張るヤツに限って、自分では何もしないものだ。
それどころか、せっかく芽生えた愛の芽をつみ取ってしまう罪深き人達だ。
地震の後、良い点がたくさん見られたがこういう馬鹿馬鹿しい点もある。
これも人間の持つ良い点と悪い点を現すメッセージである。
地震というのは地球がエネルギーを放出する現象だ。
いつ、どこにでもありうる。
時と場所によっては大惨事になる。
今回と同じ地震が海の真ん中でおきたらどうなる?津波による被害は想像を絶する物だ。
大都市の真下で起きたらどうなる?何万という人が死ぬだろう。
みんな地震を悪者扱いにしていないか?
必要以上に恐れていないか?
しゃあないやん、地球だっておならぐらいしたいさ。
溜まっているエネルギーをプハーっと吐き出したいさ。
だけど地球だって人間が死ぬのを望んではいない。
人間社会が混乱するのを望んでいない。
できることなら誰にも気付かれずに部屋の隅でプッとおならをしたいぐらいだろう。
だけど周りにいた人はちょっと臭いねと気が付いてしまった。
おならが部屋中に拡散してそこにいる人がバタバタ倒れるなんてことは避けたいのだ。
地球はそれぐらいボク達を気遣ってくれた。
だから、あの日あの時あの場所で地震は起こった。
今回は天気も味方してくれた。
地震の日は穏やかで風もなくポカポカ陽気だった。
おかげで助けが必要な人はすぐに行動に移れたし、それ以外の人は必要以上に不安を持つこともなかった。
道路が水浸しになった場所があったが、大雨が降っていれば被害はかなり大きくなったはずだ。
これを偶然で片づけてしまうのか?
それからこの国で起こったというのも興味深い。
ボクは常々、ニュージーランドという国は、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアといったアングロサクソン白人の国の中ではカナダと並び最も進んでいる国だと思っている。
物の考え方や社会が進んでいるという意味で、経済とか技術とか国の大きさ云々を言っているわけではない。
アングロサクソン特有の合理性がうまい具合に社会を作っているという意味でだ。
その合理性が今回の地震直後の行動だろう。あの市内の封鎖が遅れたら、混乱はもっともっと大きくなったはずだ。
常に自分が中心の中国や、その場のノリで動くラテンの民族、その他エゴを克服できない国では混乱が起こるだろう。
一度混乱が始まったらそれを鎮めるためのエネルギーが必要となる。結果、復興は遅れる。
これらの国でニュージーランドとカナダは最も平和な国であろう。ニュージーランドは世界でもトップレベルで平和な国と言えるだろう。
人が戦争で死ぬのを望んでいない国、とも言える。
人が死ぬのを望まないという想いは地球規模のエネルギー放出でも、人が1人も死なないという結果を作り上げた。
さらにアングロサクソンの長所である合理的な物の考えと行動により、社会の混乱を防ぐことが出来るということを証明した。
たぶんカナダで地震が起こっても同じような結果になったと思う。
イギリス、オーストラリア、アメリカでは?
知らん。
こうして人間の想いと地球のおかげで、地球のおならをやり過ごせた。
この一連の動きこそボクはメッセージだと考える。
人間社会が地球のエネルギー放出をうまく受け流したということだ。
やるじゃん、人間。やればできるじゃん。
そう、人間はこうなればいいな、と思ったことを実現する力を持っている。
個人でも人類でも。
川で洗濯をしていた時に「なんか箱みたいなものに洗濯物をポイポイ入れて、ボタンを押したら洗濯ができてる、っていうような物がないかしら」と思えばいつのまにか実現する。
空を飛ぶ鳥を見て「人間も空を飛んで移動できるようにならないかあ」と思えば実現する。
誰も死なないようにと強く念ずればそうなる。
自分だけ助かればよいという考えはダメだ。それはエゴだ。
幸せとは他人の不幸の上に成り立つものではない。
自分も相手も幸せ。みんなハッピーでなければ、本当の幸せとは言えないだろう。
生きていることが幸せ。みんな生きてる。故にみんな幸せ。
シンプルじゃあないか。
生きていること、食べ物があること、水が飲めること、健康であること、電気が付くこと、電話が繋がること、家族が揃うこと、こういった全ての『あたりまえ』にあることにボクは感謝をしたい。
そしてこれからも前へ向かって進むだろう。
余震もかなりおさまり、体で感じる地震は1日に数回となった。
町は復興に向けて動き出し、学校もほとんどの所は始まった。
深雪もオヤジの「学校サボってスキーに行こうぜ」という誘惑にも乗らず、元気に学校へ通っている。
普通はこういった出来事をたまたまそこで起こった偶然、として考えるがボクは違う。
ボクはこれはある種のメッセージとしてとらえる。どこか遠い世界からのメッセージなのだ。
メッセージと言ってもいろいろある。言葉によるメッセージが一番分かりやすい。
歌や映画、芸術といった人間が作り上げたものがメッセージになる時もある。
同時に自然の営みがメッセージにもなるのだ。
それは受取手次第。偶然の出来事かメッセージか、それを決めるのは人間だ。
まず今回の地震で誰も死ななかった。これこそが一番大きなメッセージであろう。
命の大切さ、などと人々は軽々しく口に出すが本当に理解しているのだろうか。
その証拠にこの地震で人が死ななかったことが『奇跡』という一言で片づけられている。
たしかに奇跡には違いない。マグニチュード7.1というのは相当大きなエネルギーだ。
時と場所が違えば一度に何万人という人が死んでもおかしくないエネルギーの強さである。
地球は生き物だ。生きているのだからゲップやおならもする。それが地震や火山という形で地表に現れる。
それによって人がたくさん死ねば大災害となる。
この地震で誰も死ななかった事は喜ぶべき事で感謝すべき事なのだ。
ここがポイント。誰も死なない、この先に『でも』とか『だって』とか『そうは言っても』は無い。
これを理解した上で話を続ける。
ボクはこれでお祭りをしてもいいと思う。『2010、クライストチャーチ、大地震はあったけど誰も死ななかった祭り』イエイ。
だめですか、こんなの?
だって可哀想な人がいるから?
だって、はありません。
生きている。これが大切でしょう。
お祭り騒ぎをドンドンやれば良い。お金を集めて、被害を受けた人に回せばよい。
こういう考えをできない人もいる。
地震の後、あるTシャツが売りに出た。
地震計の針が出す線でクライストチャーチの大聖堂をデザインした物だ。
このTシャツ、普段は30ドルのところを地震スペシャルで20ドル、そのうち5ドルをチャリティーに回すという、素晴らしい企画である。
だが残念なことに販売中止になってしまった。
地震で商売をするのはけしからん。被害にあった人がいるのに可哀想でしょ。
そういう声があがったのだろう。
バカバカしい。
被害にあった人がいるのは認めるが、全ての人がそのレベルに合わせる必要はない。実際、うちのように何もない家が大多数なのだから。
「あなたは自分が被害にあってないからそんなことが言えるのだ」
という声には言い返してやる。
「たとえ地震で家がつぶれたとしてもボクは生きていることに感謝を保ち、結果をありのままに肯定的に受けとめる覚悟はできている。周りの無傷の人が喜んでそのシャツを着て、それでお金というエネルギーが廻るならばそれもいいだろう」
被害を受けた人も、無傷の人も、『生きている』という喜びから離れてはいけない。
その上で自分に何ができるのか考えるのだ。
地震で商売をするのはけしからん、という人もいる。
妬みなのか僻みなのか、よくよく道理というものが分からない人達だ。
ちょっと考えれば分かるだろう。
普段$30で売っているシャツを$20で売って$5チャリティーに出せば残りは$15。
シャツの原価とか流通にかかる費用、人件費を考えれば儲けなど出ないだろうに。よくよく人の足を引っ張るのが好きなのだ。
物もお金もエネルギーである。Tシャツというエネルギーをお金というエネルギーに換え必要な所へ廻す。
行動の原動力が儲けるためではなく、人助けの為なのだ。その人、会社がやっている、自分がやるべき事である。
実際にこのTシャツのチャリティーは$9000にもなった。さらにそこに会社から$2000上乗せして$11000のお金というエネルギーをレッドクロスに寄付している。
それだけの自分達の儲けにならない仕事をしていて、周りからあーだこーだ言われたらイヤになるわな。
だいたいこうやって人の足を引っ張るヤツに限って、自分では何もしないものだ。
それどころか、せっかく芽生えた愛の芽をつみ取ってしまう罪深き人達だ。
地震の後、良い点がたくさん見られたがこういう馬鹿馬鹿しい点もある。
これも人間の持つ良い点と悪い点を現すメッセージである。
地震というのは地球がエネルギーを放出する現象だ。
いつ、どこにでもありうる。
時と場所によっては大惨事になる。
今回と同じ地震が海の真ん中でおきたらどうなる?津波による被害は想像を絶する物だ。
大都市の真下で起きたらどうなる?何万という人が死ぬだろう。
みんな地震を悪者扱いにしていないか?
必要以上に恐れていないか?
しゃあないやん、地球だっておならぐらいしたいさ。
溜まっているエネルギーをプハーっと吐き出したいさ。
だけど地球だって人間が死ぬのを望んではいない。
人間社会が混乱するのを望んでいない。
できることなら誰にも気付かれずに部屋の隅でプッとおならをしたいぐらいだろう。
だけど周りにいた人はちょっと臭いねと気が付いてしまった。
おならが部屋中に拡散してそこにいる人がバタバタ倒れるなんてことは避けたいのだ。
地球はそれぐらいボク達を気遣ってくれた。
だから、あの日あの時あの場所で地震は起こった。
今回は天気も味方してくれた。
地震の日は穏やかで風もなくポカポカ陽気だった。
おかげで助けが必要な人はすぐに行動に移れたし、それ以外の人は必要以上に不安を持つこともなかった。
道路が水浸しになった場所があったが、大雨が降っていれば被害はかなり大きくなったはずだ。
これを偶然で片づけてしまうのか?
それからこの国で起こったというのも興味深い。
ボクは常々、ニュージーランドという国は、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアといったアングロサクソン白人の国の中ではカナダと並び最も進んでいる国だと思っている。
物の考え方や社会が進んでいるという意味で、経済とか技術とか国の大きさ云々を言っているわけではない。
アングロサクソン特有の合理性がうまい具合に社会を作っているという意味でだ。
その合理性が今回の地震直後の行動だろう。あの市内の封鎖が遅れたら、混乱はもっともっと大きくなったはずだ。
常に自分が中心の中国や、その場のノリで動くラテンの民族、その他エゴを克服できない国では混乱が起こるだろう。
一度混乱が始まったらそれを鎮めるためのエネルギーが必要となる。結果、復興は遅れる。
これらの国でニュージーランドとカナダは最も平和な国であろう。ニュージーランドは世界でもトップレベルで平和な国と言えるだろう。
人が戦争で死ぬのを望んでいない国、とも言える。
人が死ぬのを望まないという想いは地球規模のエネルギー放出でも、人が1人も死なないという結果を作り上げた。
さらにアングロサクソンの長所である合理的な物の考えと行動により、社会の混乱を防ぐことが出来るということを証明した。
たぶんカナダで地震が起こっても同じような結果になったと思う。
イギリス、オーストラリア、アメリカでは?
知らん。
こうして人間の想いと地球のおかげで、地球のおならをやり過ごせた。
この一連の動きこそボクはメッセージだと考える。
人間社会が地球のエネルギー放出をうまく受け流したということだ。
やるじゃん、人間。やればできるじゃん。
そう、人間はこうなればいいな、と思ったことを実現する力を持っている。
個人でも人類でも。
川で洗濯をしていた時に「なんか箱みたいなものに洗濯物をポイポイ入れて、ボタンを押したら洗濯ができてる、っていうような物がないかしら」と思えばいつのまにか実現する。
空を飛ぶ鳥を見て「人間も空を飛んで移動できるようにならないかあ」と思えば実現する。
誰も死なないようにと強く念ずればそうなる。
自分だけ助かればよいという考えはダメだ。それはエゴだ。
幸せとは他人の不幸の上に成り立つものではない。
自分も相手も幸せ。みんなハッピーでなければ、本当の幸せとは言えないだろう。
生きていることが幸せ。みんな生きてる。故にみんな幸せ。
シンプルじゃあないか。
生きていること、食べ物があること、水が飲めること、健康であること、電気が付くこと、電話が繋がること、家族が揃うこと、こういった全ての『あたりまえ』にあることにボクは感謝をしたい。
そしてこれからも前へ向かって進むだろう。