あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

2012-04-29 | 日記
ある日友達のリエコが家に遊びに来て言った。
「聖さん、植物の種でF1種って知っていますか?」
「うーん、聞いた事はあるけど知らない。それって何?」
そして彼女はボクが知らない種の話について、とうとうと話してくれた。
F1種とは人間が交配させた種のことで、一世代限りの種のことである。
F1の特長としては大きさや風味が均一の野菜ができる。大量生産や大量輸送、周年供給を可能にする。
まあ平たく言えば野菜を工場で作る工業製品のようにできるというわけだ。
今市場で出回っている野菜の95%以上がF1種らしい。
味の良い野菜と病害虫に強い野菜をかけ合わせれば、味が良く病害虫に強い野菜ができる。
これだけ聞けば夢のような野菜ではないかと思う。
だがF1種は別名『自殺する種子』。この種でできた植物からは種がとれない。
もしくは種がとれたとしてもそれはF2と呼ばれF1でできたものと同じものができない。
これに対し種が普通に取れ、親と同じ野菜ができるものを固定種と呼ぶ。
こちらは植物がその土地や気候に合わせて自然に変化してきたもので、多少人間の力を借りているかもしれないが、植物自身の力で交配し、次の世代から又次の世代へと受け継がれて来たものである。
絶えず選抜、淘汰を繰り返してきて遺伝的にも安定している。
ただ生育時期や大きさが揃わないこともある。スーパーで売るにはちょっと・・・というわけだ。
これを聞いて思い当たる節がある。
庭ではいろいろな野菜を育てていて、そのうちのいくつかは勝手に花が咲き種を撒き散らし雑草状態で育っている。
そのうちの白菜や水菜などは売っているような美味いものが育たない。
水菜は最近こちらでも人気でサラダで食べるのだが、家の水菜は葉が硬くアクがあり生食に向かない。
白菜も同じで売られている白菜は葉の付け根が広くはも柔らかだが、家の白菜は葉が広がって育ち玉にならず、葉はくせがありあまり美味しくない。
大根も根っこは筋っぽく、あまり美味くない。店で売っているようなものができない。
これは先祖返りという減少で、交配してきた植物が元の姿に戻っているのだそうな。
たぶんこれらの野菜は元がF1だったに違いない。
それに対しシルバービートは雑草状態でもぐんぐん育ち、店で売っているものかそれ以上に美味い物が育つ。
シソも同じでシソはコンクリートの隙間からも育ち、今年はシソベーゼを堪能した。今は種がそれこそ鈴生りで出来ている。
カボチャなぞ、コンポストの中から芽を出して、大きな実がいくつも取れた。
その他、ニラ、ネギ、パセリなども順調だ。
きっとこれらは固定種なのだろう。

「なーるほどね。そういうことだったんだ」
「そうなんですよ。で、まだ続きがありますよ」
「何?」
「最近ではこのFI種以外の作物の販売を禁止する法律がアメリカで決まったそうなんです」
「あーあ、やっちゃったか、アメリカ・・・。馬鹿な国だと思っていたけど、そこまでおバカさんだとはねえ・・・」
「そうなんです。それで食糧危機には種の値段を釣り上げて、種のメーカーが大儲けするという仕組みなんですね」
「利権と欲が渦巻いてるねえ。きっと遺伝子組み換えとかも絡んでいるんだろうね」
「ええ。この話を聞いた時に真っ先に聖さんに伝えなきゃ、と思ったんですよ」
「それはそれは、貴重な話をありがとう。まあ今日は安全で美味しい、うちの固定種の野菜を持っていってくださいな」
大地からの恵みは分け合うものだ。
物事は分けあえば余る。奪い合えば足りなくなる。

全く馬鹿げた話だがこれが現実なのだろう。
ここで言っておきたいのはF1種が悪いという短絡的な考えは危険だということである。
それではオーガニックを宗教のように崇めている人となんら変わらない。
オーガニックは確かに正しいかもしれないし、自分がやっている野菜作りもオーガニックだが、こうでなければいけないという考えはボクは嫌いだ。
いろいろなやり方があり、その一つを自分が選択するというのがボクの流儀である。
人間という生き物は美味しいものを食べたいという気持ちが常にある。
なので色々な品種改良をしてきた。
ボクもその恩恵を受けている。
その上に今の食生活がある。
そして品種改良の最終段階がF1なのだろう。
F1の植物には罪はない。
問題なのはそれを利用している人間だ。
すでに市場に出回っている野菜の95%はF1だというので、農家は種子メーカーに依存していると言ってよいだろう。
お金が無くなったら農家は種を買えない。そしてF1主体の農業では種を自家採取できない。
農家が自立できない。お金が無かったら借金してでも種を買わないと成り立たない。
こんな馬鹿げたことをさらに後押しして、固定種の作物の売買を禁止したアメリカ。
さすがアメリカ、やってくれるぜ。バカさ加減もここまで来たら大したものだ。
植物を使って人類をコントロールしようというのが見え見えだ。
でも人間はそれほどバカでもない。
固定種の種を守っていこうという動きもある。
ボクもこの話を聞いた後では、種を買うときもF1種ではなく固定種を買うことだろう。

ボクの庭では固定種の野菜が雑草状態で育つ。
この辺に生えてほしいなあ、と思う所に種をバラバラと蒔く。
雑草状態の良いところは種が勝手に芽を出す。
そのタイミングは種が決める。
出るヤツは出るし、出ないヤツは出ない。種まかせだ。
芽が出たら液肥を蒔き水をあげて周りの雑草を取る。
植物はすくすく育ち、店で売っているのと変わらない野菜ができるというわけだ。
家では1年で20種類ぐらいの野菜を育てているので全ての種を自家採取はできないが、どんどん固定種を増やしていき、全て雑草状態で野菜を育てるのが今の目標である。
全てをやるというのは難しいかもしれないが、目標を高く持ちそこに向かって進む姿勢が大切なのだ。
このへんはヨーガと同じだろう。
庭の野菜達は今日も元気に育っている。


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Autumn Gold

2012-04-27 | ガイドの現場
ニュージーランド南島では秋が深まってきた。
秋とは深まるものなのだ。日本語は美しい。
4月も半ばにさしかかると紅葉の時期だ。
日本では紅葉だが、こちらでは同じ『こうよう』でも黄葉である。
ポプラや柳などがまっ黄色に染まる。
人が住んでいる街では葉っぱが赤くなる木も植えていて色とりどりの紅葉が見られるが、郊外ではほとんどの場所で黄色一色である。
これはこれで美しく、ボクはこの時期の景色が好きだ。
クライストチャーチから南下していくコースでは南に下るにつれ黄色が鮮やかに映える。
昼と夜の温度差の関係なのだろうか。
地域によっての変化を感じ取れるとドライブをしていても楽しい。





今回のツアーではTwizelという、だだっ広い荒野の中にポツリとある小さな町に泊まった。
町自体たいした見所があるわけではないが、ここも何気に生えている木々が黄葉をしている。
翌朝、ボクは朝日が昇る時間に合わせ散歩に出た。
人間には体内時計というものがある。
この体内時計と実際の時計ではズレがある。
実際の時間では25時間ぐらいあるとちょうどいいそうな。
だが1日は24時間である。
このズレをどうすればいいか?
答は太陽にある。
お日様の光というのはそのズレを調整してくれる役割がある。
特に日の出からの1時間と日の入りまでの1時間はその作用が強いと言う。
朝日と夕日、この時間帯はボクが一番好きな時である。
普段の生活でも、よくこの時間の太陽に手を合わせて拝む。
なるほどな。この話を聞いて妙に納得した。
ボクは早寝早起きである。
太陽の昇る数時間前に起きて、太陽が沈んだ数時間後に寝る。
ボクの生活のリズムは太陽に深く関係している。
なので日が長い夏などは、太陽に付き合って遊びすぎて疲れてしまうことがよくある。
ともあれ、日の出と日の入りの話は妙に説得力があり、自分の背中を押してくれるような心地良さがあった。





東の空が白からオレンジへと変わり黄金の太陽が彼方の山から顔を出してきた。
山に囲まれた場所では日の光が当たるのは、日が昇ってかなりの時間が経ってからということもあるが、平野ではかなり低い位置から日が昇る。
この瞬間の太陽は美しく、そして荘厳である。
自然と手を合わさり、頭はやや下がり、目は閉じる。
太陽を神とする宗教が生まれるのが分かる。
池からは水蒸気が上がり、水辺の木々の黄色に日の光が差し黄金色に輝く。
1日のうちの一番美しい瞬間だと思う。
この瞬間この場所に自分の身を置けること。これがツアーの醍醐味だ。
そしてこういうことを感じる幸せは常に自分の中にある。
日が昇るに連れ黄金色は薄くなり、普段の秋の一日が始まった。
いつものことながら自然が作り出す色というものは一瞬のものだ。
消えてなくなってしまうはかないもの、だからこそその瞬間の中に喜びがある。
今日も良い1日になりそうだ。
秋晴れの空を見上げて、ボクは再び太陽に手を合わせた。





ツアーは進む。
リンディス峠を越えるとセントラルオタゴ、オタゴ中央部である。
殺伐とした山にポプラが点在し、水辺には柳が並ぶ。
ここもこの時期が一番美しい。
色とりどりの派手さはないが、シンプルな美しさがある。
オータム・ゴールド。黄金の秋とは以前働いていた会社がこの時期限定でやっていたツアーの名称だ。
金で栄えたこの地域と黄金色の黄葉をかけあわせた名前だ。
日本のゴールデンウィークに合わせツアーを組むわけだが、5月に入ると木々は葉を落とし枯葉ツアーとなってしまう。
ガイド同士でも「あの辺りにはまだ葉っぱが残っていた」などと言い合いながら仕事をしたこともあった。
クィーンズタウン近郊の湖、レイク・ヘイズもこの時が一番美しく、絵葉書にもなっている。
風がないと水面に景色が映る。何百回も見た景色だがこの季節はやっぱり綺麗だ。





そしてアロータウン。
アロータウンはちょうどオータム・フェスティバルの真っ最中。
マーケットの出店も出てるし、クラッシックカーのパレードもある。
クラッシックカーに乗る人は老人が多いのだが、こういう人たちは皆生き生きした顔をしている。
古い車はメンテナンスも大変だろう。
便利さだけを追求する世の中で、古い物を大切に使い続ける心。
最も古い車などはホイールが木製、きっと当時は一つ一つ手作りだったのだろう。
骨董品の部類に入って博物館に飾ってあってもおかしくないほどの代物だ。
他人から見れば苦労と映るかもしれないが、本人がそれを楽しみと感じてしまえば全て丸く収まってしまう。
根底には機械に対する愛がある。
機械だって博物館の片隅で埃をかぶっているより、こうやってたまに動かしてもらって晴れ舞台で活躍したほうが嬉しいだろう。
生き生きとした顔の老人は老後の不安を感じさせず、いくつになってもその時の自分にできることで人生を楽しむという夢を人々に与える。
これで雨が降ろうものならピカピカにみがいた愛車もせっかくの一張羅も台無しだが、愛にあふれる人達の集まりでは天気も味方してくれて無風快晴。言う事なしだ。
アロータウンの紅葉は、赤黄緑が混ざる紅葉でこれもまた綺麗である。
色とりどりの木々に囲まれた山あいの小さな町に、古い車のエンジン音が響く。
これもまた風情があってよろしい。





街から出ればそこは再び黄葉の世界だ。
ポプラ並木を西日が照らす。黄色が映える時間だ。
ボクは日本の秋、特に夕暮れ時が好きではなかった。
西に沈む真っ赤な夕日、そしてカラスの声とお寺の鐘の音、葉を落とした柿の木に真っ赤な柿がぶら下がってる景色、物悲しくて涙が出そうだ。
いかにも日本というような情緒あふれる時なのだが、子供のころからこの時期は嫌いだった。
楽しかった夏休みが終わってしまうような寂しさ。そして学校が始まるというのに宿題を全くやっていないような憂鬱感。
ボクの場合はそこに繋がる。
ともあれ日本の秋というのは物悲しく、とことん寂しく、情緒にあふれ、そしてこの上も無く美しい。
ニュージーランドの秋はそこまでウェットではない。
ニュージーランド人のようにドライで明るく、あっけらかんと太陽は西に沈む。
夕日があまり赤くならないというのも一つの理由だろう。
太陽は黄金色の輝きを失わないまま、ストンと山の向こうに落ちてしまう。
情緒を感じる間もない早業である。
木々は急速に色を失い、日が沈んだ後の山の稜線がくっきりと浮かび上がり、星が瞬きはじめる。
日本的な物悲しさは一切ない。あたりまえだ、ここは日本ではない。
だがここの秋を見ながら、日本の秋を思い浮かべてしまうのは自分が年を重ねてきた証拠か。
ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの。
嗚呼やっぱりボクは日本人のやうだ。



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愛について

2012-04-12 | 日記
この世は愛で出来ている。
では一体愛とは何か?
漠然としすぎて良く分からなくなってしまっている。
愛とは人を思いやる気持ちであり、エネルギーであり、波動であり、森羅万象であり、自分自身であり、神である。
愛とは楽しいものであり、愉快なものであり、美しいものであり、美味しいものである。
宇宙の基本の法則が愛なのである。
どの宗教も根底は愛なのだが、人間の受け止め方の違いから宗教は分裂し戦争にまでなってしまっている。
キリスト教もイスラム教も仏教も神道も全て、原点は愛である。
人間はのめりこむと自分が信じるものが正しく、それと違うものは間違いと思い込む。
善悪というものがここで生まれる。そして排他的になる。

娘が小さい頃、良くボクに聞いた。
「それって善い事?悪い事?」
良いか悪いか、二つに分けてしまうことが間違いなんだ、ということについてはこれからゆっくりと教えていくつもりである。
愛には良いも悪いもない。
それらを全てひっくるめたものが愛だからである。
片方から見た善悪は反対側から見れば逆になる。
誰もが自分は正しいと思っている。僕も思っている。
そこで「あなたは間違っています」といわれれば傷つく。「うるせー、バカヤロー」と言いたくもなるものだ。
だが世の中には隠された真実や、自分達がまだ知らない事は山ほどある。
今、この次元からでは理解できないこともある。
常識とは覆されるものなのだ。
昔、ガリレオが「地球が動いている」と言った時に人々はどう反応したか?
ノアが方舟を作って「洪水が来るぞ」と言った時でも人々は最後の瞬間まで略奪をやめなかった。
今の世の中で言えば原子力神話は崩れようとしている。
隠し切れない真実が明るみに出てくるからだ。
ウソで塗り固められたエゴは、真実の明るい光の前では存在できない。
そうならないようにエゴは巧みに人の心を利用して隠れようとする。
だが真実の愛を知っている人にはそれは砂上の楼閣。
洞窟の奥に映っている影絵にすぎない。

愛とは心で感じるものであり、ほのぼのしたものである。
胸の奥で何となく感じる、暖かい気持ちだ。
それは宇宙からのメッセージであり、神の言葉であり、自分の直感である。
この感覚はとても微弱なものなので、見過ごしてしまうこともある。
一つやり過ごしても心配することはない。
メッセージは次から次へとやってくる。
ピンと来たものを拾い上げればいい。
物事には色々なやり方があり、こうでなければいけないというものはない。
ボクの経験で言えば、ヨガを何種類か試したが自分にはピンと来なかった。だが気功は一回目でピンと来た。なので今でも時々気功をやっている。
だからと言ってヨガを否定はしない。
ヨガも気功も座禅も瞑想も元は一つ。
自分に合うかどうかだけだ。
タイミングが合えばヨガも始めるかもしれない。それはその時になれば分かることだろう。
全て根底は愛である。

「こうしなければいけない」と思い込む人は多い。
だがその感情はどこから来ているものか?
誰かが言った言葉だろうか。
テレビで言ったからか。
本に書いてあったからか。
気をつけなければいけないのは、情報は操作されるということだ。
巷には星の数ほどの情報がある。
あるものは正しいし、あるものは古く今の世の中では通用しない。
ウソで塗り固められた情報もあるし、愛を利用してもっともらしく書かれたものもある。
もちろん愛の法則に則ったものも数多くある。
それを信じる信じないは全てその人の判断と責任であり、他人がとやかく言うことではない。
ただ情報は鵜呑みにしてはいけない。
ある情報があったら、一回間をおいて自分の心に入れてみるとよい。
そこで違和感があったらそれは流すべきだし、同調するならばそれを拾い上げればいい。
ただし、どんな結果がやってこようとそれを拾い上げた自分の責任として受け止める覚悟がいる。
「○○が言っていたから」「○○に書いてあったから」という言い訳は通用しない。
ボクの言葉も一つの情報である。
疑ってかかっておおいに結構。
それよりもボクが怖れているのは、「聖さんが言ったから」と盲目的に信じられることだ。
それでは新興宗教の教祖と変わらない。
ボクの文を読んで一呼吸おいてほしい。
その上で「そう、その通り」「そうかあ、あたしはちょっと違うな」「何を偉そうなことを言っているんだ、こいつは」「お前は甘いぜ」「なるほどね」「まあそういう考えもあるわな」「激しく同調します」「いいじゃん、あなたがそう思うなら」なんでもよろしい。
こうでなければいけない、というものは世の中にはないからだ。

いや一つだけあるな。
それが愛なのだ。
愛を信じてさえいれば全てはうまくいく。
かといって依存してはいけない。
依存した時点で真実の愛からかけ離れてしまう。
愛とは誰もが持っている心の奥でほのぼのと燃える炎である。
それを信じるのみ。
簡単なことだ。
だが一番簡単なことは一番難しいことでもある。
愛とはワンネス。
全てはひとつであり、自分もその一部なのだ。

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マウント・セバストポール

2012-04-08 | 
山が遠くなっていた。
山というのは不思議なもので近い時にはいつでも行けるが、一度遠くなり始めるとどんどん離れてしまう。
これは距離の話ではない。たとえ山が間近にあろうと歩く機会がないと指をくわえて見ているだけで山歩きのチャンスがめぐってこない。
言い訳はそれこそ山ほどある。
天気が悪い。風が強い。暑い。寒い。面倒くさい。疲れている。時間が無い。忙しい。
言い訳は全てやらない自分を正当化するためのもので、そんな言い訳を並べあげる自分を山は黙って見ている。
しばらく山にも登ってないしそろそろ登りたいな、と思い始めた頃に機会が来た。
そのツアーはゆったりツアーで、マウントクックビレッジに到着したのは午後も早い時間。その後はまるまるフリー。
南島を高気圧がすっぽり覆い、天気はこれ以上ないというぐらいの快晴である。
山がボクに行けと言っている。これは行かねば。
パックに必要なものを詰め、トレッキングブーツを履き、歩き始めた。



なんとなく今日はレッドターンズへ行ってみようか。
なんとなくというのは直感である。直感に従っていれば間違いはない。
時間を見ながら登り、行けるところまで行けばよい。
そんな気持ちで歩き始めた。
レッドターンズ往復2時間、という看板が出ている。
えてしてこういう観光ルートは時間を長めに書いてある。最後に行ったのはもう何年も前になるのでよく覚えていないがそんなに時間はかからなかったと思う。
まあとにかく行ってみよう。
道はすぐに急勾配となる。急な登りをガシガシと登る。すぐに汗が噴き出してきた。
日差しはきついが風はさわやかである。
これこれ、この感覚。
忘れていたものを思い出すこの感覚が好きだ。
途中の沢で水を汲む。
この国の山では流れている水をそのまま飲むことができる。
ボクはこれは最高の贅沢だと思う。
有史以前から人間が当たり前にやっていたことが、今の地球では贅沢なことなのだ。
レッドターンズには結局35分で着いた。悪くないタイムだ。
体調は万全、日もまだ高い。となればさらに上へ。
セバストポールへ登ろう。即座に決めた。



セバストポールには8年ぐらい前に1回登った事がある。その時も仕事の合間に登った。
ルートはそれほど難しくないはずだ。
整備された山道から、踏み跡をたどるルートへ進む。
ガレ場に道らしきものがあるのでそれをたどる。
そこへ入った瞬間、ピリっとした緊張感に包まれる。この感覚も好きだ。
この先は観光客も来ない本格ルートである。
レッドターンズまでは人もちらほらいたが、この先ではこの時間帯、人はいないだろう。
ザックには救急セットも入っているし、携帯電話も通ずる場所なので万が一にはそれを使うだろうが、こういったものは雪崩ビーコンと同じ。持っていて使い方を知っていてそれでいて使わない、というのが望ましい。
頼るのは自分のみ。単独行の醍醐味である。
ボクは気の合う友と山へ行くのも好きだが、一人で行くのも好きだ。
単独行というのは全ての判断、責任を自分で背負う。
ルート取りだって複数で行動するのとは違うものになることもある。
なによりも精神的なプレッシャーが大きい。
ルートが難しくなるほど、危険が大きくなるほど、ビリビリした緊張感も大きくなる。
その分、達成した時の感動も自分だけの物である。





ガレ場をしばらく歩き、急な登りとなる。
ペースを変えずガシガシ登る。額から流れ落ちる汗が心地よい。
なまっていた体が、どんどん山に順応するのが分かる。
忙しいという言い訳で遠ざかっていた山が再び受け入れてくれた。
忙しいとは心を亡くすことだ。
山に戻ってきて、僕の心も戻ってきた。
体力は使っているが、心は満ち足りている。心の充電だ。
時々、足を止め水を補給し、足元に生えているスノーベリーを口に入れる。
スノーベリーの果実のほんのりした甘みが口に広がる。ニュージーランドの夏の味である。
道は険しく急である。ランクをつけるとしたら中級コースか。
こちらの中級コースは日本で言う上級コースだ。
これはスキーの世界でも同じことだ。
日本のスキー場の上級コースはこちらの中級コース。
日本の超上級コース、上級者限定コースはこちらの上級コース。
そしてこちらのダブルブラックダイアモンド、超上級コースは、日本のスキー場ではコースにならない立ち入り禁止エリアである。
このセバストポールへ登るコースも風が強ければ稜線上から吹き飛ばされるだろう。
ここではないが近くのコースでは実際、風に吹き飛ばされて人が死んでいる。
天気が悪い時に無理に登る山ではない。
自然の中では人間は無力な存在である。
だが今日は無風快晴。ありがたく自然の営みを感じさせてもらおう。



急な岩場を越えると山頂は間近だ。
ここは登るより下る方が怖いだろうな。高所恐怖症の人ならここは無理だろう。
岩場にはエーデルワイズが咲き乱れている。娘がリコーダーでエーデルワイズの曲を練習していたことを思い出した。
ほぼぶっ通しで登り続け足が悲鳴を上げ始めた頃、山頂に着いた。
登り始めてから1時間40分。
なまっていた体にしては上出来だ。
日はまだ高い。ゆっくりと周りの景色を堪能する。





山の南側にはマッケンジー盆地、そして独特の色をしたプカキ湖が延びる。
ほんの数時間前に湖沿いの道をドライブしてきたばかりだ。
眼下にはレッドターンズの赤茶けた池塘(ちとう)。ターン、池塘とは高層湿原の池のことである。
そしてマウントクックビレッジがちんまりミニチュアのように固まる。
背後には目の高さよりやや高い場所に名も知らない氷河が横たわっている。
この場所からだとクックの東側のタスマンバレー、その奥にあるタスマン氷河の氷河湖。クックを挟んだ西側のフッカーバレーと両方見える。
高い所に登ると地形が立体的に見える。鳥というのはこういう視点で世界を見ているのだなあ。
そして二つの谷間の間に、どかーんとアオラキ・マウントクックがそびえ立つ。
いつもながらこの山で感じる自然のエネルギーは絶対なる存在感だ。



ボクは手を合わせ山に拝む。
山というのは信仰の対象だ。
日本にも古来、山を崇拝する民がいた。
マオリの神話でも、神様の4兄弟の長男がこの山になったと言う。
その長男の名前がアオラキであり、正式名称はアオラキ・マウント・クックである。
山とは神であり、神は自然であり、人間もその一部である。
山と空、大地との一体感。幸せである。
何故自分がこの世に存在するのか、という問いの答の一つがここにある。
ボクは感謝の言葉を唱えた。
「山よ、今日も晴れてくれてありがとう。おかげでお客さんも喜んでくれました。ボクも楽しく遊ばせてもらっています。無事に下まで下るまで見守っていてください」
山頂に一人。
孤独感は全く無い。
それよりも自然に包まれる恍惚感がある。
ボクは当たり前の言葉を口にした。
「やっぱり山はいいなあ」
存在感の塊のような山がボクの言葉を黙って聞いていた。





こんな場所だったら何時間でもいられるが、そうも言っていられない。
人間には人間の営みがある。
山は登ったら下らなくてはいけない。
鉄則だ。
そして下りは登るよりも難しい。
山の事故のほとんどは下りに起きる。
母親が滑落して死んだのも山の帰り道だ。
次にやることは無事に下ること。
事故が起こらないように、とイメージするのではない。
無事に下り美味しくビールを飲んでいる自分をイメージする。
再び山に向かい手を合わせ拝む。
山の神、アオラキがそれを受け止める。
そしてマオリの父方の神、イーヨマトゥアが肩口から見守る中、ボクは下り始めた。



下りはあくまで慎重に。一歩一歩踏みしめながら歩く。
岩場では手を岩にかけながら、充分すぎるぐらい慎重に下る。
時間を競うわけではない。無事に下ることだけに意識を集中させる。
それでも下りは早い。
あえぎながら登ってきた斜面もあっという間に過ぎ、立体的な景色はどんどん狭くなる。
ガレ場を下りきりレッドターンズに着いた時に、ビリビリした緊張感は抜け、ホーっと肩から力が抜けた。
ボクはこの感覚も好きなのだ。
いつの間にか日は傾き、眼下のビレッジは半分影の中に入っているが、僕がいる場所や山々はまだ日が当たっている。
ここで休憩。リラックスタイムだ。
背後のセバストポールを見上げ、自分を誉める。
「あそこまで登ったのか、良くがんばったな」
そして再び山に手を合わせる。
「無事に降りてきました。ありがとうございます」
おおげさな、と思う人がいるかもしれないが、山の怖さをボクは知っている。
同時に山の美しさと暖かく包み込んでくれる感覚も知っている。
その両方、これが即ち自然の愛である。



レッドターンズからの下りは整備された道を下る。
山の余韻に浸りながら、最後の最後まで気を緩めずに麓へ着いた。
宿でシャワーを浴び、ビールを片手に外へ出る。
谷間の底は完全に影に入っているが、山の上部にはまだ日が当たっている。
山に登る前に冷蔵庫に入れておいたビールはキンキンに冷えている。
「大地に」
ボクはつぶやくとビールを大地に流した。
十年以上前になるが、友が始めた儀式『大地に』。
自然の中でとことん遊ばせてもらった日の、最初のビールの一口は大地に捧げるという儀式である。
これをするのも久しぶりだ。
ボクは冷たいビールを喉に流し込んだ。
「くわーっ、うめえ!幸せだなあ。」
山が黙ってボクを見つめていた。

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収穫

2012-04-04 | 
このところは毎日畑仕事に精を出す。
秋晴れの日に体を動かして仕事をするのは気持ちが良いものだ。
ボクが外で働いていた間にカボチャがぐんぐん育ち収穫の時期を迎えた。
家では二種類のカボチャを植えている。
一つはクリニシキという種類でこれは日本でもおなじみ、皮が濃い緑色をしたもので、煮物などに良い。
もう一つはクラウンパンプキンというこちらのもの。
煮物にするにはちょっと水っぽいのでボクはこれをよくスープにする。
かぼちゃは去年食べた後の種が、コンポストの中で一冬過ごし芽が出る。
ほっておくと雑草のようにかぼちゃの芽が出る。
ある程度間引きをしておいたらそれが育ち、大小十数個のかぼちゃが取れた。
取ってすぐだとまだ若いので、ある程度熟れさせる。
大きくて見栄えの良いものは友達におすそ分けも良い。
大地からの恵みはみんなでね。
小さいものもいくつも取れたので中をくりぬいて入れ物にして、庭の卵でかぼちゃプリンでも作ろうか。
それか豚挽き肉を味噌で味付けして中に詰めて、オーブン焼きでも良さそうだ。
夢は膨らむ。



庭仕事をしていると友達のマサが遊びに来た。
二月三月と仕事が詰まっている間は会えなかったが、ようやく会う時間ができた。
会えない時は会えないが、会うときはジグソーパズルのピースがはまるようにすんなり会える。
それがタイミングというものだ。
彼はシェフをやっていて、ボクのちょっといい加減な自然農に共感をしてくれる。
馬が合う、という言葉がある。何故馬なのか知らないが、僕たちは初対面から意気投合した。馬が合ったのだ。
そんなマサと庭でお茶を飲み色々な話をする。
印象に残ったのは食という言葉である。
人に良いとかいて食。食べることは人を良くするという話。
これは彼の師匠から教わった言葉なんだそうな。
なるほどなあ。全くだ。
健全で美味しい物を食べること。
ボクは人生において最も大切な事の一つだと常々考えていたが、後ろから背中を押された気がした。
全ては繋がる。
日本には食文化というものがある。
旬の物を美味しくありがたくいただくという所が根底にある。
食べ物はありがたくいただくものなので自然と無駄はなくなる。
今の日本はどうか?
工場で大量に作られた弁当が期限切れになり毎日何万食が捨てられている。
地球の裏側では食べるものがなくて毎日何万人もの人が死んでいるというのに。
みんながおかしいと思いながらも時勢に流されて生きている。
失われつつある食文化を残すのは僕たちの役目だ。
それには先ず、自分から家族から、健全で本物の食べ物を食べることから始まる。
マサは手土産に自家製のりの佃煮を持ってきてくれた。
シェフをやっているだけあって、当然美味い。
前回の話を読んで、炊きたてご飯にはこれが合うだろうと持ってきてくれた。
ありがたや、ありがたや。
お返しに庭で採れた野菜を持っていってもらう。
ニンニク、かぼちゃ、シソ、シルバービート。
家の野菜も彼の家族に食べてもらえるなら幸せだろう。
ボクも彼に野菜を持って行ってもらえて幸せ。
彼も旬の野菜をもらって幸せ。
のりの佃煮も我が家で旨い旨いと食ってもらって幸せ。
それを食う自分が幸せ。
そこに関わる人や物が全て幸せになる。
システムが健全な証拠だ。
その根底は愛である。
ただそれを信じるのみ。
簡単なことだが、一番簡単なことは一番難しいことでもある。





マサが帰った後も庭仕事を続ける。
トマト、ズッキーニ、かぼちゃ。夏に育った野菜は収穫の時期である。
収穫というものも大事な仕事だ。
時期を逃すと、美味しくなくなってしまう。
一番美味いという時、これもタイミングだな。それを逃さずにありがたく大地の恵みをいただく。
そして無駄なくそれを料理するのも大切な仕事。
今日はマサに教えてもらったスパゲティ・シソベーゼ。
ジュノバーゼはバジルペーストで作るのだがそれをシソで作る。
シソは雑草状態で生えており食べきれないぐらいにある。
松の実、ニンニク、オリーブオイル、シソの葉を大量、アンチョビ、これらをフードプロセッサーで混ぜるだけ。好みでパルメザンチーズを入れる。
これを茹で上げパスタに絡めるだけ。シンプルである。
娘は多分食べられないだろうからとニンニクとトマトでトマトソースを作った。
ニンニクは去年の今頃植えたものをお正月に収穫して干し、女房が編みこんだ物である。
使う分を常にガレージから取ってきて使う。
こうなればいいなと思うことはいつも実現する。
ニンニクやカボチャのように収穫して、ある時期をおいて美味しくなるものもあるし、葉物のように新鮮さが大切というようなものもある。
ブロッコリーは丁寧に虫を取って塩茹で。
レタスのサラダに木で熟したプチトマトときゅうりを入れる。きゅうりはカボチャの陰にひっそりと成っていたのを今日発見した。
ズッキーニはガーリックオリーブオイルで軽く焦げ目が付くぐらいに焼く。味付けは塩のみ。
全てが美味く全てが完璧。
旬の野菜はそれぞれの味を主張して、それでいて優しい。
以前いただいた白ワインがこれに良く合う。
旨い物に旨い酒、幸せである。
幸せは常にここにあり、それが愛なのだ。
ニュージーランドに居ても感じる日本の食文化。
ボクは喜んでその継承者となろう。



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美味いもの

2012-04-01 | 
ツアーからツアーへという仕事が一段落して、庭仕事をする時間ができた。
夏の間に育った野菜を収穫する。
ゴボウを植えたのは初めてだが今年は二株育った。
その大きな葉を茂らせたゴボウを掘り起こした。
根は太く直径5cmぐらいはあろうか。そこからいくつもの根が枝分かれしている。
これは食べ応えがありそうだ。
泥を落とし、深雪のお友達の家にもおすそ分け。
食べ物でも何でもそうだが、奪い合えば足りなくなる。分け合えば有り余る。
泥を落としたゴボウは庭のニンジンと一緒にきんぴらごぼうに。絶品である。

今日のメインはサーモンである。
この前のツアーの帰りに一匹買ってきた。
いつもなら刺身と照り焼きと汁物で食べるのだが、今回は趣向を変えてみた。
まず魚をおろし頭や尻尾などのあらで昆布と一緒にダシを取る。
ダシを取ったあらは、身をはずして犬のごちそうに。灰汁もすくって犬のごはんに混ぜてしまう。
犬を飼い始めてからムダが全く無くなった。一匹の魚が我が家では跡形も無くきれいになくなってしまう。なんかうれしい。
そこに庭のごぼうとにんじん、大根を入れて煮る。
根っこの野菜が煮えた頃、庭からシルバービートと太ネギを取ってきて入れる。
野菜が煮えたらほぐした鮭の身と豆腐を入れ、味付けはネルソン産の味噌。
野菜たっぷり、具沢山の味噌汁ができあがる。
ここまではいつもと同じだが今回は半身を干物にしてみた。
きれいにおろした半身に塩をたっぷりまぶす。
塩はブレナムの塩田からとれた天然塩である。
これを天日で干すこと数時間。
それをフライパンで焼く。
七輪で炭火で焼けば究極の鮭の塩焼きができるのが分かってはいるが今日は普通にフライパンで焼く。
皮はパリッと身はジューシーに。焼きすぎないように気をつけて塩焼きができあがった。
それを大根おろしでいただきます。

土鍋で炊いたご飯。野菜たっぷりの味噌汁。鮭の塩焼き。きんぴらごぼう。
全てが旨く、全てが完璧である。バランスも良い。
あまりに美味いので食いすぎに注意である。
ご飯はふっくら炊け、一粒一粒が立っている。
味噌汁は鮭と昆布のだしが効き、野菜の甘みに味噌のしょっぱさと麹の旨みが絶妙のバランスだ。
きんぴらごぼうは、ごぼう特有の泥臭さがなくにんじんの甘みが絡み、甘辛ソースに唐辛子がピリッと決まった。
鮭の塩焼きは言わずとも知れたこと。
太陽の光が魚の旨みを増すのか。普段とは違う旨さがある。

太陽の光というのは全てのエネルギーの源である。
日本語でもお日様、お天道様と呼ぶ。
人だって、動物だって、魚だって、野菜だって、太陽なくしては育たない。
だが地球がもう少し太陽に近かったら暑すぎて生き物は住めないし、遠かったら寒くてダメだ。
その絶妙なバランスの上にこの惑星はある。
そのバランスにそった太陽の力を借りて、美味い物を作る。
以前読んだ本で、鯵の干物の話があった。
最近では干物を作るのに工場内で熱風を送り乾燥させるんだそうな。その過程では干物は太陽の陽にさらされない。
昔ながらに天日で作った干物と工場で作った干物のどちらが美味いか、という話だった。
ボクが育った静岡県の清水という町は港町で、近所に魚屋がいくつもあった。
学校へ行く途中にも魚屋はあり、道路脇で鯵や秋刀魚を干していた。
手間はかかるが、太陽光というそこにあるエネルギーで食べ物を作る。エコである。
太陽の光というものは何か食べ物を美味しくするものがあると思う。
今度は本格的に干物を作ってみようかな。

太陽の光という天の恵み。
魚、そして野菜という大地の恵み。
僕ら人間の命というのは数々の命に支えられている。
それらの死の上に僕たちの生はある。
ムダにしない。
これは大前提なのだが、その上で食べ物の旨みを最大に引き出す工夫、努力を惜しまない。
これは茶の心に通じるものだし、禅の教えにも通ずると思う。
全ての宗教の根底は同じ。それが愛なのだ。
そうやってできたものからは感動を得ることができる。
感動、これを味わうために僕たちは生きる。
良い音楽を聴いたときの感動。
自然の中での感動。
素敵な人と出会ったときの感動。
すばらしい芸術を見たときの感動。
そして旨い食べ物を食べた時の感動。
ついでに旨い酒を飲んだときも感動。
感動とは瞬間の喜びであり、即ちこれが愛である。
これこそが僕たちが生きる原動力であり、この世で生きる理由なのだ。

たかが鮭の塩焼き。
されど鮭の塩焼き。
今日も又、貴重な命を、『いただきます』
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