あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

忘れ物

2011-01-26 | 
結論から書くと、忘れ物が出てきた。
ただそれだけの話である。

1月頭、ボクはある仕事をして、お客さんに食事をおごってもらった。
お客さんは楽しんで森を歩き、ボクも納得のいく仕事ができた。クィーンズタウンの明の店で美味い料理をたらふく食い、美味い酒を飲み、タクシーで家に帰った。
それから数日、忙しい日が続き、ハイキングの仕事の時にサンハットを探したが見つからない。そのうちにどこからか出てくるだろうと予備の帽子で仕事をしながら数日。
その合間に部屋をくまなく探したが見つからない。
車に置き忘れたかな?車を探したが見つからない。
たぶん明の店で飲んだときに忘れてきたんだろう。帽子を最後に見たのはあの店でだ。

明は20年来の友達で、若い時には僕の家にいりびたり、浴びるほど酒を飲んだ。今ではクィーンズタウンで一番流行っている中華レストランを経営する。
中国人だが中国語と英語と日本語を使いこなす。ボクの数少ない中国人の友達である。
20年前、ヤツが日本に来たとき、ぼくらは東京駅で会う約束をして、僕が2時間も遅刻した。携帯もなく連絡も取れない時代である。ヤツは遅刻したぼくを全く責めることなく、再開を暖めあい東京のどこかで酒を飲んだ。
その後ヤツはニュージーランドでレストランを開き、以来ボクはずいぶんヤツに世話になった。
最近では一緒に飲む回数もめっきり減ったが、心の奥でのつながりを感じる。シーズンに何回かはヤツの店で酒を飲む、そんな間柄だ。

ある日、時間が出来たのでヤツの店に寄り、忘れ物を聞いてみたが無いとの事だった。
あと考えられるのはタクシーの中かな?でもタクシーの中で帽子を出した覚えはないけどなぁ。
そして又忙しさにかまけ数日経った。
タクシー会社はどこだったかな?そうだ明に聞けばいいんだ。あの時はヤツがタクシーを呼んでくれたんだっけ。
電話をすれば早いのだが、こういう時に限って電話帳が見つからない。やっと見つけても電話がつながらない。
又今度にしよう。そして数日。その間、ぼくは予備の帽子で仕事をする。
これでも問題は無いのだが、使い慣れた道具がないのはちょっとさびしい。
この帽子は以前、あるメーカーのカタログ撮影の仕事をしたときに、仲良くなった人からそのメーカーの帽子をもらったのだ。
以来、気に入って使い続けている。
無いなら無いであきらめよう。だけど最後にタクシーの会社に聞いてみてからだな。

数日後、街に行く用事が出来たので、ついでに明の店に立ち寄りタクシーの会社を聞いた。
その直後、目の前にその会社のタクシーが止まった。これはタイミングだろう。
ボクは迷わずそのタクシーに行き聞いてみた。
「前にタクシーに乗って忘れ物をしたかもしれないんですが、届いてないですか?グレーのサンハットです」
「ちょっと待ちな、聞いてあげるから」
「ありがとう。1月の○日です」
「○日?だいぶ経ってるな」
ドライバーが怪訝そうな顔をした。確かに忙しさに身を任せていたら、すでに10日以上経っていた。
ドライバーが無線でオフィスを呼び出し尋ねたところ、忘れ物は無いとのこと。
ボクはドライバーに礼を言い家に帰った。
気に入っていた帽子だが無いんじゃしょうがないな、あきらめよう。

その直後、ボクは帽子を見つけてしまった。
どこにあったかと言うと、その日に着ていたジャケットのポケットに入っていたのだ。
こうやって自分のバカさをネタにするのだが、その日その服を着ていたことをすっかり忘れ、さんざん部屋の中とかザックの中を探していたのだ。
そう、全部自分が忘れていただけなのだが、あきらめたとたんに見つけるこのタイミング?
ボクはその時、錬金術師の話を思い出した。
あらすじはこうである。
遠い昔、ある男が宝の埋まっている場所の地図を手に入れた。
そこははるか遠い場所で、長い旅をしなくてはいけない。
危険もあることだろう。旅の途中で死んでしまうかもしれない。
家族や今持っている物全てを捨てて旅立たなくてはならない。
男は考えに考え抜いたあげく、全てを捨てて旅に出た。
長い旅の末、地図に示された場所にたどり着き、そこを掘ってみると一枚の地図が出てきた。
それは本当の宝が隠されている場所の地図だった。
その場所とは・・・
自分が全てを捨てた、以前住んでいた場所だったのだ。

何故この話を思い出したのか分からない。
しかし何か人生を示唆している気がするのも確かである。
物事に執着しているうちは何も始まらない。
執着を解き放ったときに本当の宝は見つかるのだろう。
たかだか忘れ物の話だが、偶然で片付けてしまうには大きすぎるタイミングである。
これにはどんな意味があるのだろうか。
お気に入りの帽子をかぶって、今日もボクは森を歩く。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何かあったらどうするの!

2011-01-11 | 日記
世の中の人のほとんどは観念というものに縛られている。
観念とは「こうあるべきだ」とか「こうしなければいけない」という思い込みのことだ。
観念は人によって違う。その人をとりまく状況や人間関係によって作られることが多い。
例えば中世では地球の周りを太陽や月が回っているという大きな観念があった。
観念に縛られている人はそのことに気がつかない。
外から見れば「何でこんなことに気がつかないんだろう」という事も、当事者にとっては当たり前のことであり、疑うということが馬鹿げていることなのだ。
誰だって自分が信じていることが「実はそれは間違いなんですよ~」とは言われたくないだろう。
それが観念というものだ。

今、ボクはクィーンズタウンの郊外の友達の家に世話になっている。
彼女はトモ子さんといい、マウントハットで働いていたころから、かれこれ十数年のつきあいだ。トモ子さんはスキーインストラクターを長い間やっていて、夏の間はボクが働くタンケンツアーズの仕事もたまに手伝う。ポジティブな人で、もちろん内面からにじみ出る美人である。
彼女は7歳になる娘の仁紀と二人暮しで、この娘も小さいころから知っている。可愛いらしい女の子で、深雪の次に可愛い。そんな家に夏の間、住まわせてもらうことになった。
先週、トモ子さんが怪我をした。両肘、顎骨折?の大怪我である。
その怪我のしかたも、スケートボードパークでさんざん子供と遊び、最後の最後にスケボーに乗らずに走って大転倒して怪我をしたというのだから、何と言うか北村家二軍筆頭のエーちゃんと同じぐらい自ら痛い思いをしてネタを作る人だ。そしてそれだけの大怪我をその場で笑い話にするぐらい強い人でもある。
病院でレントゲンを撮ってもらった結果、手術は必要なくそのまま治しなさい、と言われたそうだ。
さすがに怪我をした日は元気もなかったが、元々ポジティブな人なので治るのも早い。数日経つと顔色もよくなり、見る見るうちに回復していった。
「どうよ?まだ痛い?」
「うーん、だいぶ良くなったかなあ。怪我した日には自分の顔もさわれない位に痛かったけど、今はだいぶ動くからねえ。じっとしていると痛くないし、ある所まで肘を伸ばすと、あいたたたた、このあたりまで伸ばすと痛いけど、そこまではなんともないからね」
「じゃあ痛くない程度に動かしても大丈夫でしょう。リハビリ、リハビリ。痛いというのは体からのメッセージだからね。自分の体は自分が一番よくわかるでしょう」
「そう!そうなのよね。自分の体は自分が分かるのよ。たまにそれが通じない人もいるけどね」
「と言うと?」
彼女はゆっくりと肘を曲げお茶をすすり話し始めた。

以前、知り合いに妊婦さんがいてアドバイスを求められたそうだ。「自分の体と相談しながら無理をしなければ、普段からやっている運動をしても大丈夫。」というアドバイスをしたところ、その人はどういう経緯か具合が悪くなり、病院に運び込まれてしまったそうだ。
「あたしが大丈夫だったから、他の人も大丈夫だと思って言ったら『あちゃー、大丈夫じゃない人もいるんだー』ってね。それからは下手なアドバイスはしないようにしてるわ」
「ふーん、トモ子さんは妊娠の時には平気だったの?」
「うん、つわりもなくてね、元気だったのよ。だからイントラで働いていたわよ」
「えええ~?何ヶ月ぐらいまで?」
「8ヶ月ぐらいかな。あたしは体の様子を見ながら具合が悪くなったらやめればいいと思っていたし、スキースクールのボスも気を遣ってくれてね『トモ子、レッスンは初級者でも中級者でも上級者でもオマエが選んでいいからな。なんでも好きなように言ってくれ。』なんて言ってくれるしね。」
「へえ、素晴らしいボスじゃん」
「その人がその後にこう言ったの『もしもオマエがお腹が痛くなったり具合が悪くなったらいつでも携帯に電話してくれ。オレがその分をカバーするから。』だって」
男気のあるボスだ。こういう人の下で働くのは幸せなことだ。労働というものが信頼関係の上に成り立つ。こうあるべきであろう。幸いボスの出番は最後までなかった。
「最初に妊娠してるけどスキーのインストラクターをやりたいって言ったらね、『大丈夫、大丈夫、双子が生まれる前日までスキーの仕事をしてたヤツもいるからな』だって。笑っちゃうよね」
「そうそう、大きなお腹してレース用のポールを担いで滑ってる人とかいるよね」
「そうなの、こっちの世界ではわりと当たり前なんだけど、周りの日本人には猛反対されたわよ。」
「へえ、そうなの?」
「もう大変よ。『何かあったらどうするの!』とか『何を考えているの!?』とかいろいろ言われたわ。」
出た~『何かあったらどうするの?』ボクが一番きらいな言葉だ。
何故みんなあるかないか分からないことを心配するんだろう。何かあったら?その時は全力で対処するさ。それよりも起こらないことを心配して何もできなくなってしまうことの方が深刻だ。むしろ何もないのに『何かあったら』と不安を持つことにより、もともとない『何か』をひきよせてしまうだろうに。
「結局ここにいる日本人で賛成してくれた人は一人もいなかったわ。」
「一人も?」
「うーん、正確には一人だけかな。メスベンにいるハルちゃんを覚えている?」
「ハイハイ、ハルちゃんね、もちろん覚えているよ。彼女が?」
「そう。ハルちゃんも妊娠の時にインストラクターで働いていたのね。それで話を聞いたの。彼女のお父さんは産婦人科医で、『普段やっていることを体に無理のない程度にやるなら問題ない』ってね。それでハルちゃんもそうやって元気な男の子を産んだのよ。」
「なるほどねえ。自分の体は自分が分かるってやつか」
「そう。そうなんだけど、日本人の友達はみんな理解してくれなくてね。すごく仲の良かった友達なんかも止めに入るわけよ。まあ、みんな私の体を心配してくれるからなんだけどね。最後には『日本人とキウィは違うのよ、日本人は弱いんだから絶対だめよ、そんなこと』なんていう人も出てきちゃってね。」
妊婦はスキーをしてはいけない、という観念なんだろう。日本のスキースクールでも同じこと。日本で妊婦がスキーのインストラクターをしたいと言っても雇ってくれる場所はないだろう。起こるかどうか分からない『何か』を心配する。
ニュージーランドのスキースクールにはその観念がない。
なので周りの人達が本人の意思を尊重してくれる。周りの人々がそれを受け容れてくれる。妊娠している人に振り回されるのではなく、自然体でボスも同僚もその人を包み込んでシステムを回す。
女性の社会的立場が認められている国ならではである。
そういう意味でこの国は日本よりはるかに進んでいる。
女だからという変な偏見がない。

妊婦はスキーをしてはいけない、その観念に縛られると、それを覆されたときに人は不快に思うのではないか。
だから感情が先走って、日本人は弱いなどとトンチンカンなことを言い出す。
理解のあるボスが「初級者でも上級者でも何でも選んでいいぞ。何かあったら俺がカバーするから」と言った話を聞くと「そんなわがままな人に振り回されてボスや同僚が可哀想」などとネガティブな思いを創り上げる。
わがままを言うのではない。下手クソが突っ込んでくるような場所でのレッスンを避け、自分が安全に仕事ができるクラスを選ばせてくれるのだ。それを判断するのも自分だ。避けられる危険は回避するに越したことは無い。
妊婦でパウダーに入っちゃうトモ子さんもどうかと思うが、それも個人の意志と判断である。
もちろん個人差というものはある。
誰もがトモ子さんのようにインストラクターができるとは思わない。つわりとかがひどい人もいるし、もともと体が強くない人もいる。スキーを普段やらない人には異次元の話だ。
だが彼女やハルちゃんのように妊娠中でもスキーを仕事にして、無事に子供を生んでということは現実にある。今その子供達はすくすく育ち、元気にスキーをやっている。
『何かあったらどうするの』という無用な心配事が全く無い人もいるのだ。
それはその人達が自分の体とまっすぐ向き合って、自分で判断すればいいだけの話である。
自分の狭い観念に縛られていると、それを人に押し付けようとする。大きなお世話だ。

「仁紀がおなかの中にいたころは、スキーのレッスンをしている時はすごくおとなしいの。レッスンが終ってスタッフルームに戻ると動き出すのよ。」
お母さんのおなかにいたころからスキーをするなんて、すばらしい胎教ではないか。
男親のぼくは、娘が首が据わるのと同時に背中に背負ってあちこち滑っていたが、母親である彼女達は一歩先を進んで、その子が生まれる前から滑る喜びを教えていた。
悔しいが逆立ちしてもできない事はある。
生まれ変わって、ボクが女に生まれ母親になったら胎教でパウダーを滑る喜びを子供に教えてあげよう。
そんな仁紀も今は7歳。部屋には親子でスキーをしている写真が飾ってある。
いつかこの親子とうちの家族でブロークンリバーに行って、みんなでスキーをしたいものだ。
そしてボクは、こうなればいいなと思うことは実現することを知っている。
その時が楽しみだ。


コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする