あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

一休さん

2012-12-26 | 日記
あるところで読んだ話。
一休さんが死ぬ前に弟子に手紙を渡した。
「わしが死んだ後、お前たちに問題が起こって、どうしようもなくなった時、もう極限まできてどうにもならない、という時にこれを開けなさい。
それまでは開いてはいかん。」
その後何年も経ち、ある問題が起こり弟子達が奔走したがどうにもならなくなった。
弟子達が手紙を開けると、中に書いてあった言葉は。
「大丈夫、心配するな、なんとかなる」だった。

♪ 好き好き好き好き好き、愛してる。
  好き好き好き好き好き、一休さん。

さすが一休さん。
その通り、何とかなるのだ。
それには各自が今自分にできる事をやるだけ。
自分がやるべきことをやり、あとは天命を運にまかせる。
それだけ。
シンプルである。

僕の好きな言葉に「しゃあないやん」というものがある。
しゃあないやん。
嗚呼、なんという素敵な言葉の響きだろう。
「しゃあないやん」と言われれば、「しゃあないしゃあない」と言ってしまう。
しかたないという意味だが、言葉によって微妙にニュアンスは違う。
『しゃあないやん』は、しゃあないのである。
この言葉には裏がある。
しゃあない、と言ってやるべきことをやらない使い方もできる。
自分がやるべき事を全てやり、最後は天命に任せる、しゃあないやん。
この二つの差は大きい。

自分がやるべきこと。
自分が何故この世に生まれてきたのか。
それを思い出すのだ。
今はそれを忘れているだけ。
答は楽しむという中に在る。
食事を楽しむ。仕事を楽しむ。お酒を楽しむ。山歩きを楽しむ。生活を楽しむ。人生を楽しむ。
そう考えるとこの世は楽しい事だらけだ。
くよくよ悩んでも、最後はしゃあないやん。
やるだけのことをやって、最後は一休さんの手紙。
大丈夫 心配するな なんとかなる。
そこに『でも』はない。

クリスマスの朝からまとまりのない文を書いてしまった。
散文ついでにもう一つ。
クライストチャーチは穏やかなクリスマスを迎えたが、世界各地ではクリスマスどころではない、という人々も大勢居る。

http://oka-jp.seesaa.net/article/309703990.html

この人のブログはよく見るのだが、何を言っているのかさっぱり分からんものもあれば、「おお、その通り、お主良く言った」というものもある。
今回の話でもフィリピンの台風、ロシアの大寒波、イギリスの洪水と世界ではいろいろな事が起こっている。
そういう自分だって事故をしていればクリスマスどころの騒ぎではない。
我が家のクリスマスはと言えば、家族で普段は行かないドッグパークで長い散歩をして、夕方は友達の家に招かれてお酒を飲みご馳走をたらふく食べギターを弾いた。
友達のマサ、その息子の海人とのライブセッションは楽しく、居合わせた人も喜んでくれた。
世界の裏側で災難にあっている人がいるから、楽しむのを控えるのではない。
そういう人がいるのを知りながら、今自分達が置かれている状況を知り、その状況を楽しむ。
楽しむことを自粛してはいけない。
楽しむ事は罪ではないのだ。
楽しむ事に対して変に罪悪感をくっつけてしまうことがよくあるが、それは違うと思う。
今、この瞬間を楽しむということの中にこそ、全ての答がある。
自分がそういう気分にならなかったら、そうすべきではないが、自分が楽しめる状況ならば100%の力をもって、全身全霊をかたむけて楽しむべきである。
なんといっても最後の最後には一休和尚の言葉、「大丈夫 心配するな 何とかなる」 のだから。






コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危機一髪

2012-12-23 | 日記
昨日の出来事である。
マウントクックからお客さんを乗せてクライストチャーチへ向う仕事だった。
この時期はクリスマスホリデーが始まる時で、国道も混む。
ボートやトレーラーハウスを牽引した、『さあ今からホリデーだ』という車も多い。
国道1号線へ出て、アシュバートン付近の長い直線道路、僕はお客さんにこの国の野菜とエネルギーの関係などといった話をしていた。
対向車がふらっとセンターラインをはみ出した。
「?」と思いアクセルを緩めた。
対向車はなおもフラフラと近寄って来た。
車内では全員が息をのむ。
「おいおい、どこまで来るんだよ」と思ったが向こうは進路を変えず、こちらの道を完全にふさいでしまい、なおも寄って来る。
100キロ近いスピードで走っている車だ。
いきなり急ハンドルを切って路肩の草むらに載せたら横転するかもしれない。
僕は妙に冷静に片輪を草むらにつっこませ、右側のタイヤをアスファルトぎりぎりに乗せその車をやり過ごした。
「はあああ」
大きく息を吐いた。
助かった。

今、考えても不思議なのだが、ブレーキは踏まなかった。
いや、無意識のうちに軽くブレーキはかけたかもしれないがよく覚えていない。
50キロで走っていれば急ブレーキで何とかなるかもしれないが、ここは100キロで対面通行だ。
急ブレーキで何とかなる問題ではない。
急ブレーキを踏んでいたら衝突、もしくは横転していただろう。
その時は車が慣性の法則にしたがい進むのを、コントロールを失わないようにするのに夢中だった。
クラクションなど鳴らす余裕はなかった。
今、冷静に考えてもその時の僕の行動は正解だったと思う。
自分を誉めてやろう。「やるじゃん、俺。」
不思議と恐怖はなかった。
頭の一部は妙に冴えていて、「このまま行ける」と思った。
そして、護られている、とも思った。

サイドミラーで見るとその車は路肩に止まり、後続の車も止まっていた。
後ろの車も無事だったようだ。よかった。
居眠り運転だろう。
20代の僕だったら車を停め、そのドライバーを怒鳴りつけに行ったことだろう。
40半ばの僕は何事も無かったように車を走らせた。
不思議と腹は立たなかった。
過失は100%向こうにあるとはいえ、向こうも怖い思いをしたことだろう。
それで充分だ。
その人を責めたところで何も始まらない。
人を責めれば、自分も落としてしまう。
地獄に落ちろと言えば、その地獄に落ちるのは自分である。
人が人を裁くのではない。
天が人を裁くのだ。
大切なことは人を許す心である。
それよりも、自分と相手が無事だった事に感謝を感じた。

最悪のシナリオは死である。
僕たちは常に死と隣り合わせに生きている。
僕は死を恐れない。怖れないがいつかは死ぬのも知っている。
ただ未だ今は死ぬ時ではないと思う。
日本に父親がまだ生きているので、死ぬのはまだ僕の番ではない。
順番でいえば次は父だ。
父親には「ポックリ逝ってくれ」と常々頼んである。
父親が死んで、自分の番になるまで、先に逝った母親が僕を護ってくれる。
こうやって僕は大いなる力によって生かされている。

死なないにしても事故で怪我というものもある。
そうなれば、ツアー関係で働く周りの人も余計な仕事が増える。
医者だって仕事が増える。
警察だって仕事が増える。
車が壊れればそれを運んだり直したりという仕事も増える。
全てエネルギーの無駄使いだ。
そういう余計なエネルギーを使わずに済んだことにも感謝。
相手だってせっかくのクリスマスホリデーが台無しだ。
気を引き締めて運転する事だろう。
もしそこで反省しなくて、別の場所で事故を引き起こしたならばそれも天命。
そこまでは僕の知ったこっちゃない。
天が人を裁くだけだ。

少し走ると後続の車が追い抜いていった。
きっと一部始終を見ていたのだろう。
助手席の女の人が親指を立てて『Good』のサインを出したので僕も親指を立てて合図をした。
その車にはマウントオリンパスのステッカーが貼ってあった。
なんとなく嬉しかった。
空港近くになり僕は自分の死生観、そして当たり前に生きている喜びをお客さんに伝えた。
お客さんも怖い思いをしたが、納得してくれたようである。
そして無事お客さんを降ろし、一日の仕事を終えた。
家に帰ると女房が餃子を作って待っていた。庭のニラとシルバービートの餃子である。
この日の出来事を話し、ビールで乾杯をした。
あんな事があったからか、いつもよりビールは旨く、餃子も旨い。
家庭は笑い声が響き、犬のココがウロウロする。
食後、マウンテンバイクで犬の散歩にいつもの公園に行った。
だだっ広い空を見ながら以前出会った人との会話を思い出した。
「僕は今まで死にそうな目に何回もあっているんですが、それも守護神様が助けてくれたんでしょうか?」
「そうです。全部守護神が助けてくれています」
「その守護神様にお礼をしたい時はどうすればいいんですか?」
「言葉に出してお礼をしてください。それだけです」
「それだけ?」
「それだけです。言葉に出すということが大切です」
「はあ、そうですか」
今はその言葉が身にしみる。
ちなみに僕の守護神様は大国主命(おおくにぬしのみこと)である。
僕は手を合わせ唱えた。
「ダイコク様、今日は救っていただきありがとうございました。」
その守護神は自分の母親、先祖達、自然の中のもの全てと共に僕を護ってくれる。

当たり前に1日が終わった事に感謝。
旨いギョーザを作ってくれる、できた女房に感謝。
笑い声の響く家庭に感謝。
可愛い娘に感謝。
犬のココに感謝。
庭の野菜に感謝。
旨いビールに感謝。
お腹一杯食べられる事に感謝。
犬の散歩に来られる事に感謝。
そういったことをあらためて気づかせてくれた居眠り運転の相手に感謝、せっかく拾った命だ、いいクリスマスホリデーを過ごしてくれ。
天と地に感謝。
守護神と護ってくれた母親に感謝。
この世の全ての物事、ワンネス。そして自分もその一部であるということに感謝。

今日の締めの一句

護られて 生きる喜び ありがたや
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人との出会い

2012-12-20 | 
この世に偶然はない。
全て必然のものであり、その中で僕達は生かされている。
人との出会いも又、然り。
なるべくしてなっている。
それらはタイミングというもので調整されている。
会うべくする人とは自然にそうなるし、会わない時はどんなにがんばっても会えないものなのだ。
僕は仕事をしていて、常にそれを感じる。
そういった出会いを感じることは楽しいものだ。

この前出会った添乗員は霊感の強い人で僕の前世が見えるようだった。
「あなたは以前僧侶だったようですね」
「はあ、そうですか」
僕自身、輪廻転生を信じているのでこういった話もすんなり受け入れられる。
こういう話を聞いても驚かない。
それよりも『やっぱりそうか』という思いがあった。
その人曰く、僕は仏師だった時もあるそうだ。
仏師という慣れない言葉を聞いて物資と勘違いして、物資を荷馬車で運ぶ人を思い浮かべたがピンと来なかったが、よくよく聞いてみてると仏像などを彫る人だったのだそうな。
それならば心の遠い奥にそういうイメージが湧くことはたまにある。ピンと来る。
それからキリスト教徒だった時もあるそうだ。
僕の宗教観とは、キリスト教も仏教もイスラム教も聖教も根底では全て一つ、というものだからこれもありえるだろうな、と思った。
「人間以外の物はないんですか?ミジンコだったとか、ガラパゴスの大亀だったとか、恐竜だったとか、マンモスで生まれてきてはじめ人間ギャートルズに食べられちゃったとか、そういうのはないんですか?」
と尋ねたが、笑って相手にしてくれなかった。
とまあ面白い出会いもあるものである。

もう何年も前になるが、その時の人はこれ以上無いというぐらい嫌味なババアで、僕の言う事全てにケチをつけた。
たまたま一緒のツアーになった人が「もうあの婆さんとは一緒に行動したくない」と言い出すぐらいの意地悪婆さんだった。
僕はツアーの時にも気が向けばマオリの唄などを歌う事がある。
その時もマオリの唄を一曲歌ったが、その婆さんはこう言った。
「日本の人でもボサノバを歌う人がいるけど、どんなにがんばっても土着の人のようには歌えない。そんなのがんばるだけ無駄だわ。悲しくなるわね」
僕は手を握り締め、怒りに耐えた。
何故、僕が怒ったのか。
それはその婆さんの言う事が真実だからである。
僕はマオリではない。
日本人の僕がどんなにがんばろうと、マオリのようには唄えない。
婆さんの言うとおりだ。
真実を突きつけられると人は傷つく。
だけど、だけど、だけど、一言言わせてもらえるならば・・・。
「お前には言われたくねえぞ、クソババア」
そのツアーでは嬉しい出会いもあったが、その婆さんに振り回されエネルギーを奪われ僕はぐったりした。
エネルギーが下がったまま次のツアーが始まり、そこでまた新たな出会いがあった。
今から考えると、あの時にあの婆さんに出会う事に意味があったのだろう。
一度、落ちる必要があったのだ。
その後の色々な流れを見ると、あの時の出会いは納得がいく。
その婆さんは今でも好きになれないが感謝をしている。
嫌いな人にもありがたやありがたやなのだ。

それからというもの、嫌な感じの出会いはほとんどなくなった。
人は自分を映す鏡なので、自分の目の前に現れる人を見れば自分の状態が分かる。
こうなると面白い物で、エネルギーを奪うような人は僕を避ける。
避けるというより自然に遠ざかっていくのだ。
同じ店にいながらタイミング良くというのか、会わない時は会わない。
それよりも嬉しい出会い、楽しい出会いは次々にやってくる。
それも信じられないようなタイミングでやって来る。
どんなに忙しかろうが、会うべく人達がNZに来るという時だけ、まるでジグソーパズルがぴったりはまるようにポッカリと時間が取れる。
直前でスケジュールが変わった時なども、『ああ、この人に会うために仕事が急に変わったんだな』と思うことは数多い。
もちろん前々から決まっていた仕事で、『やっぱりこういう出会いだったのか』と思うことも多い。
出会う人も様々である。
普通の勤め人から大会社の会長さんまで。
一流のスキーヤーや映画スター、はたまた貧乏旅行をしている若者。
先日は噂に聞く薩摩隼人にも出会った。
自転車で世界一周をしている人との出会いもあった。今そいつはアフリカにいる。
何年も前から仕事で顔を合わせている人とも繋がりができて、家に来てくれるようになった。
一度だけ出合った人が、僕の話を聞いてルートバーンを歩きたくなり再びNZにやってきた、というものもあった。嬉しい限りである。
出合うのは人だけではない。
我が家の犬のココとも運命的な出会いがあった。
この前会った人は「自分はシリウスから来たとずーっと思っていたが実は違う星から来ていることが分かった」と言っていた。
まあ僕の周りは自称宇宙人の友達は何人もいるので、こういう話も別に驚かない。
庭の鶏達とも出会いだし、野菜たちとも出会いだ。
様々な人々がいて、様々な出会いがある。
一度だけの出会いもあるし、仲良くなって家に遊びに来る出会いもある。
みんな違ってみんな良し、なのだが根底にあるのは一期一会だ。
今まであった全ての出会いに感謝。
そしてこれからやってくる出会いにも感謝。
最後はやっぱり、ありがたやありがたや、なのである。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感謝

2012-12-11 | 日記
朝起きて、美味しいお茶が飲めることに感謝。
良く眠れた事に感謝。
お日様が大地を照らしてくれる事に感謝。
雨が大地を潤してくれる事に感謝。
それによって庭の野菜が育ってくれる事に感謝。
野菜を食べて鶏が育ってくれる事に感謝。
そして毎日美味しい卵を産んでくれる事に感謝。
庭の食材で家族揃ってご飯を食べられる事に感謝。
美しい景色を眺められる事に感謝。
お客さんが喜んでくれる事に感謝。
仕事をしてお金を頂くことに感謝。
チップを頂くことに感謝。
頂いたチップでお酒を飲めることに感謝。
友達と出会えることに感謝。
フリスビーゴルフでエーちゃんをぎゃふんと言わせられることに感謝。
そのあとで一緒にビールを飲めることに感謝。
ツアーの後で犬が喜んで出迎えてくれる事に感謝。
娘の寝顔を見れることに感謝。
パソコンが当たり前に繋がることに感謝。
交差点で道を譲られる事に感謝。
ゴミ収集車がゴミを持っていってくれることに感謝。
人からの戴き物に感謝。
タイミングが合わなくて会えなくても、「鶏のからあげがあるから持っていこうか?」と言ってくれる気持ちに感謝。
庭の食材を喜んでもらってくれる人に感謝。
鶏の糞や残飯を分解してくれる微生物に感謝。
ツアー中、立ち寄る店でコーヒーを出してくれる人に感謝。
高価な山のギアを使わせてくれるスポンサーに感謝。
普通に息ができることに感謝。
森を歩ける事に感謝。
手作り豆腐を頂いた事に感謝。
それがとんでもなく旨いことに感謝。
笑い声のある家庭に感謝。
娘の成長に感謝。
そして全てをひっくるめた、今この瞬間生きているという事に感謝。

幸せに生きるということは、今そこにある物事に焦点をあてて感謝の気持ちを感じることである。
目に見えないような微生物のおかげで自分の暮らしが成り立っている、というような事を自覚することである。
当たり前に太陽が東の空から昇ると言う事に喜びを感じることである。
人間から見ればありがたくないようなことでも、自然の摂理の一つとしてとらえ、地球にとってこれが必要な事として受け入れることである。
だが、そうは言っても人間である。
虫が好かないヤツもいれば、腹が立つことだってある。
本来ならそういったものにも感謝をするべきだが、感情としてそれは無理。
それならそれで、そこに至らない自分を見つめ、それも受け入れる。
人間とは所詮、不完全なものなのだ。
そんな不完全な人達がこの社会を作り上げている。
社会が不完全なのは当たり前だ。
だがそこであきらめてはいけない。
「何故、自分はこの世に生まれてきたのか」という答の出ない問いの答の一つがそこにある。
不完全な人間が、少しでも物事を良くしようと上を目指してがんばる。
その姿勢ではなかろうか。
ヨーガの目的がポーズを作り上げることではなく、できようができまいが、そこに向かって努力することが目的のように。
自分にとって嬉しいことに感謝をすることは簡単だが、自分にとって嬉しくない事にまで感謝するのは容易ではない。
それができれば聖人なのだろう。
ボクの名前は聖だが、まだ名前に追いついていない。
心を落ち着けて、全ての物事を受け入れて、感謝。
この探求の旅は永遠に続く。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする