あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

歴史の勉強

2021-06-24 | 日記
学校の授業で一番嫌いなものは歴史だった。
なにせ面白くない。
『なくよ うぐいす 平安京』だの『いい国 作ろう 鎌倉幕府」だの
年号とか人の名前をただ暗記するだけの授業が嫌で嫌で仕方がなかった。
そんな昔の事なんか今を生きる俺らには関係ねー、という態度だった。
また中学校時代の担任で社会の先生とも折り合いが悪かった。
前世では敵味方に分かれ殺し合いをしたのではないか、という具合に嫌いだった。
多分同じぐらい向こうも僕の事を嫌いだっただろう。
今となっては、その先生も生活のために仕事をしていて僕のような小生意気なクソガキがクラスにいて可哀想だったなと思う。
中学校を卒業して以来、その先生には会っていない。
当時の年齢からして、今はもうこの世にはいないだろう。
死ねば誰もが仏様。
その先生を恨む気持ちは無い。
だが当時の僕にとって、その先生の授業は絶望的につまらなかった。
歴史の教科書の偉人の肖像画には一つ残らず落書きをした。
歴史の授業が年号を覚えるだけで、人間のドラマとして感じ取れないところに原因があった。

学校の歴史の授業は嫌いだったが、歴史小説は好きだ。
特に司馬遼太郎の本はほとんど読み漁った。
小説の中の主人公は生きた人間であり、それぞれが自分の正義のために短い人生を駆け抜けた。
思えば中学校時代の僕は、歴史を学ぶほど成熟してなかったのだろう。
だが一貫した学校教育は、そういった例外を許さない。
算数で言えば、分数の割り算などという、もともと割ってある分数をさらに割ることを学ぶ。
これは数学上は意味があるかもしれないが、実生活では全くありえない話だ。
何故それを勉強しなくてはならないか分からないがとにかくやれ、というのが向こうの言い分である。
これについては友人から面白い話を聞いた。
それは一人のアインシュタインを出すためだと。
そういう基礎的な数学を全員で学べば、全体的に数学のレベルが上がる。
するとその全体的に高まったレベルから、一人の天才数学者が生まれる。
そのために必要なんだと。
では話を元に戻して、僕という個人が人生で分数の割り算というものを使う時が来るのか?
その友人は断言した「それは無い」
まあ、そんなところだろうな。

歴史というのはごくごく近い近代史を除いて、見てきた人はいない。
残された物、伝え聞いた話、書き記した書物などから推測する物だと思う。
そこにはひょっとすると嘘があるかもしれないし、勝者にとって都合の良い資料も当然ある。
さらにそれらを読み取って解釈の仕方によっても変わる。
誰かが言ったことや書いたことを自分なりに解釈して理解する。
そういう積み重ねなんだろう。
なんでこんな話を書いているか、そろそろ本題に入ろうか。



今は相変わらずラベンダー畑で働く毎日である。
作業は単調なので何かしら聞きながらやる。
最初は気に入った音楽を聞きながらやっていたが、先月ぐらいから落語や講談を聞きながらやるようになった。
演目にもよるが30分ぐらいの話を聞きながらやると、あっというまに時間が経つ。
そして最近の流行りは歴史の話で、これがとても面白い。
こてんラジオという名前で、ラジオ番組のような構成である。
自称歴史弱者という人がパーソナリティーで歴史に詳しい二人にいろいろと聞くのだが、とにかく面白い。
学校では教えないような事を話し、彼らが話す史上の人物は生き生きとしている。
例えば幕末に吉田松陰という人がいたが、イメージ的には偉い先生というところだろう。
ところがこの人の人生はロックであり、突っ走る激情家であり、おまけに童貞。
こんな教え方を学校ではしない。
一つの歴史上の出来事を紐解くと、はるか以前の出来事に起因して、という具合に流れというものを分かりやすく話してくれる。
そしてまた解釈をする人の基本的な考え方に賛同ができる。
繰り返して書くが、歴史というのは基本的にだれも知らないことを推測をしながら理解する。
それを話してくれる人、書いた人の思想というものが大きく関与する。
極端な例で言えば、ただ自分の生活のために金を稼ぐ手段として歴史を教える人。
逆に歴史が好きで好きで、一人でも多くの人に歴史の面白さを伝えたい、そのためなら金なんかいらないという人。
同じ歴史を話すにしても前者と後者では月とすっぽんぐらい違う。

僕はこのラジオを聴き始めて夢中になってしまった大きな理由は、しゃべっている人の基本的な思想に共感したからである。
彼らは物事を『良い』と『悪い』で分けない。
これを徹底している。
では何かというと、その状況に合った行動かどうかである。
今の社会では人を殺すことは悪いことだが、歴史上では人を殺すことが善という時代や社会もあった。
それを今の倫理にあてはめて、あーだこーだ言っても始まらない。
その時の人間の行動、後世から見れば愚かに見えるようなことでも、それを受け入れ客観的に見ている。
その結果、歴史がどういうふうに動いたのか、俯瞰的に物事をとらえている。
それを今の世の中に映し出して考えている。
そして歴史上の成功、失敗、どーでもいいこと、全てを愛している。
あー、やっぱり根底に愛があるんだろうな。
つきつめればそこに至るのか。

今や便利な世の中になったもので、彼らの話をポッドキャストというもので聞くことができる。
一回の話が20分から30分ぐらいで、全部で200以上あり今も続いている。
古くはアレクサンドロス大王から、世界史、日本史、中国史、近代史、宗教、天皇制、お金の歴史まで、話は多岐にわたり全てが繋がっている。
そして話の切り込み方も絶妙で、例えば幕末の話では吉田松陰と高杉晋作をメインに時代を語る。
第二次世界大戦ではヒットラーが主人公という具合である。
僕もまだ全てを聞いたわけではないが、これからまだまだ聞くべき話がたくさんあるのでワクワクしている。
これも元はといえば娘の深雪が聞いていて、それを女房が聞いて、さらに僕へと感染した。
このブログを読んで、ここから誰かに感染するかもしれない、というより感染して欲しくてこの話を書いた。
こういう感染なら万々歳だな。
愛が根底にある場合、感染というか伝播というか同じことだが伝わる人を幸せにする。
根底が恐怖だったり怖れの感染は、人を不幸せにする。
媒体は病原菌ではなく人の心だ。
ラベンダー畑で働く身なので、聞く時間はいくらでもある。
だだっ広いラベンダー畑でのんびりと仕事をしながら、時々クスリと笑いながら歴史を学ぶ。
資格のための勉強ではなく、知識を満たす学問に喜びを覚える。
馬鹿馬鹿しい世の中だが、そんな中でも新しい刺激を感じ『人生まんざら捨てたものではないな』と空を見上げて一人思うのだ。
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醗酵生活

2021-06-14 | 日記
醗酵という難しい漢字を使ったが発酵の話である。
発酵は菌の力で色々な物が変わる化学変化であり、日常にあふれている。
パン、チーズ、納豆、漬物、味噌、と言った食品から、ビール、ワイン、日本酒などのお酒なども全て発酵。
僕らが豊かな食生活をおくれるのは菌のおかげなのだ。
そして物が腐ったりカビたりするのも発酵。
人間にとって都合が良い物も悪い物も自然界に存在する。
それを知ることにより人類は質の向上を目指し、菌の育成に励み生活を営む。
と書くと何か小難しい話に聞こえるが、なんてことはない美味い物を食いたいがために、あれやこれややるということだ。
菌の力で発酵する、と一口に言っても菌の種類は千差万別。
空気を必要とする菌もあれば、空気が要らないという嫌気性の菌もある。
また光を好む菌もあれば、ドラキュラのように暗いのが好きな菌、どっちでもいーよという菌もある。
そして発酵の温度も寒いのから熱いのまで、これまたいろいろある。
まあ基本的に人間の生活上にあるものだから極端な物、例えば「あたしは摂氏100度以下の環境では生きていけません」などという菌は宇宙のどこかにあるかもしれないが身の回りにはないはずだ。
そういえば以前聞いた面白い話では、納豆菌宇宙人説。
納豆菌は発酵の時には空気が必要だが、胞子の状態ではプラスマイナス100度の温度でも真空状態でも1000年以上は死なない。
「1000年って誰が見たんだよ」とか「菌って状態ですでに宇宙人という人じゃあないだろ」とかそういう声は無視無視。
そんな納豆菌のご先祖様が何億年も前に隕石にくっついて地球にやってきて、そのおかげで僕らが納豆を食ってるなんて考えたら楽しい話じゃないか。
これでもまだ「そんな話は非科学的でけしからん」などという夢もロマンも想像力も知性のカケラも無いやつはこのブログ読むな!
話がそれた。
それぐらいに菌にはいろいろあるんだ、ということだ。
菌の性格を知り、菌が快適に過ごせるような環境を作ってやることで菌が増え、美味しい物ができる。



最近始めた発酵食品は糠漬け。
日本の製品だが糠はニュージーランドでも売っていて、それで始めてみた。
昆布だの唐辛子だのを入れて毎日かきまわす。
たいして難しいものではないが、糠床のポイントは毎日かき回さなくてはならない。
これだけのことだが、うっかり忘れるとダメになってしまう。
なので我が家では常に目に触れる所に置いておく。
始めて数ヶ月、味が馴染んで美味い漬物ができるようになった。
これの良い所は畑で取れた小さい大根や人参も使える。
小さく曲がりくねった人参や大根は料理に使うには面倒だが、そういった物も無駄にすることなく使える。
子供の頃に家で母親が作っていて、その時にはあまり好きではなかったが、年を取ると好みも変わっていくのだろう。
親にこれを食べさせてあげられないのが残念だ。

もう一つ、我が家の定番となったのがザワークラウト。
キャベツの千切りを塩もみして瓶で発酵させる。
使う物はキャベツと塩だけだが、これが美味い。
ポイントはできるだけ空気に触れないことで、これまた簡単にできる。
キャベツの葉っぱにはもともと乳酸菌が付いていて、この乳酸菌がお腹に良い。
たっぷり食べると翌日スッキリとウンコが出る。
ウンコは最大のデトックス、排毒作用なのだ。
ウンコがスッキリ出ると気持ちが良い。
これは人間に限ったことではなく、犬のココが散歩で大きなウンコをした後は「あー、スッキリした」という顔をする。
犬にも表情はあるのだ。
快食快便の話ではなくザワークラウトの話だ。
作り置きができるものだから、今年はキャベツを植える時期をずらしながらも大量に育てた。
野菜というものは一斉にできるものだから、いつもはキャベツなぞ収穫の時期を逃して花が咲いてしまう。
家庭菜園での野菜作りはただ作れば良いというものではなく、収穫、消費、保存、そういった一連の仕事なのだ。
ザワークラウトで乳酸菌が発酵した酸っぱさは、お酢の酸味とは一味違う。
ソーセージと一緒にパンに挟んで食うのが一般的だが、これが意外と和食にも合う。
締め鯵の上にたっぷり乗せて、熱々のご飯と共に食うのがいける。
もちろん洋食にも中華にもインドカレーにも合う。
材料がキャベツと塩だけだから何にでも合う。
月桂樹とか唐辛子とかスパイスとかいろいろ入れるレシピもあるが、そうすると和食に合わなくなるだろうな。
庭で赤キャベツを育てて、それで作ったら紅ショウガみたいなザワークラウトができた。



漬物のように、普段その辺にある菌を使うものもあるが、特定の菌を利用するものもある。
パンやピザ生地、それにビール作りにはイースト菌が欠かせない。
ビールを作り始めて何年か経つが、毎年冬になる頃には発酵温度の低いラガーを仕込む。
エールのイースト16度から22度ぐらいの間で発酵するが、お気に入りのボヘミアンイーストは8度から14度と低い。
低音でゆっくりと醸造するにはこれからの季節だ。
日本酒を冬に造るのと同じ原理だ。
ビールも本来ならずーっと同じ温度で発酵させるのが理想だろう。
確かに金をかければそういう道具も売っている。
でも趣味の世界でそこまでしなくても、自分で満足がいくビールができるのでほどほどのところでやっている。
こういった発酵食品と末長く付き合うコツは、適度ないい加減さだと思う。
あまり四角四面にやると疲れてしまう。
かと言ってズボラ過ぎるのもうまくいかない。
時には繊細に時には大胆に、何事もほどほどに菌と付き合うのが良かろう。
これは人間関係も同じだな。
バランス、中庸というものが大切なのだろう。



我が家で発酵しているのは食品に限ったものではない。
EMというものを発酵させて、ニワトリのエサとかトイレ掃除の洗剤とか野菜の肥料などを作っている。
ボカシという言葉を聞いたことがあるかもしれないが、発明者は琉球大学の教授だ。
色々な菌を使い、人間にも動物にも環境にも良いものを作って使おうというものだ。
ボカシを作り始めてから我が家では生ゴミが一切出なくなった。
台所の生ゴミのうち、ニワトリが食べられるものはニワトリのエサになるし、それ以外は堆肥となる。
コンポストの場所を整備したのもあるが、庭の落ち葉や雑草や芝生を刈ったものも含め、全て庭の片隅で堆肥にする。
クライストチャーチでは、生ゴミも含め土に帰る物は全て緑のフタの容器に入れて週1回、回収してくれる。
これを全く出さないということは微力ながらも社会の役にも立っていると言えよう。
ボカシを使うと分解の速度は速く、その量も多い。
微生物も多く、ミミズなどがウジャウジャいる。
自分の庭で分解そして生産から消費まで、一連のサイクルになっているのが嬉しい。
こうやって僕らは菌の力を借りて、菌と共に生きている。
今も部屋の片隅ではビールの樽から、コポコポと心地よい音が聞こえる。
菌は僕らが寝ている間も遊んでいる間も働いてくれる。
嗚呼、菌たちよ、ありがたや、ありがたや。





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秋深し

2021-06-04 | 日記
秋の日はつるべ落とし、という言葉がある。
秋の日が落ちるのは、つるべが落ちるように早い、という意味だ。
だが今の世代で一体どのくらいの人が、つるべなんてものを知っているだろう。
大阪のメガネをかけた落語家の話ではないぞよ。
昔、井戸にかかっていた水をくむ道具のことをつるべと言う。
僕も知識として知っているが実物を見たことがない。
日本では春から初夏へという時期だが、南半球では秋深し。
遠い祖国の死語となりつつある言葉を、ニュージーランドの空に浮かべてみた。
ああ風流だね.
まあそんな具合で秋である。
朝の日の出がめっぽう遅くなり、夕暮れ時はあっという間に暗くなる。
そういえば秋の夜長、なんて言葉もある。
日中の太陽の光はどことなく弱く、雲が厚ければ肌寒い。
晴れた日の空の青さも夏のそれとは明らかに違う。
季節は一歩づつ冬に向かっている。
どことなく物悲しいようなこの季節だが、僕は嫌いではない。
ともすれば夏と冬のつなぎのようであり、足早に過ぎ去ってしまう。
他の季節のように絶対的な季節感ではなく、おぼろげではかない。
そんな秋が好きだ。

我が家の庭にも秋が来た。
収穫の秋である。
桃と洋梨はすでに収穫を終えているが、りんごは真っ赤に熟れ、鳥が来て喜んでつつく。
フィジョアの実が熟れてそろそろ落ちるころで、地面に落ちたフィジョアの旨さは絶品だ。
イチジクは実を付け、熟れきって落ちたものをニワトリが喜んで食べる。
そうそう、ニワトリと言えば、ニワトリを買い足すのもこの時期だ。
しばらく前にニワトリエリアの門が壊れ、そこから逃げ出したヤツが犬のココに襲われて死んだ。
まだまだ卵を産む若い鳥だったが、仕方がない。
卵を産まなくなった古い鳥も絞めて埋めた。
以前は羽根をむしってさばいて食べていたが、苦労のわりに身が少なく、なおかつ噛み切れないぐらいに硬い。
なので最近は絞めたら埋めて土に還す。
古いのを絞めたら、若いのを3羽買ってきて、まず羽根を切る。
これをやらないと飛んでフェンスを越えてココの餌食となってしまう。
そして毎日暗くなってから止まり木に移してあげる。
慣れれば自分から止まり木に止まって寝るのだが、それまでは地面にしゃがんで寝てしまう。
餌も食べやすいように細かく切ってあげたり、子供は何かと世話がやけるのだ。
だいたい生後3ヶ月ぐらいのを買って、それが卵を産むのは2ヶ月ぐらい先だ。
卵を産み始めたら毎日1個産み、2年ぐらいは産み続け、パタリと産まなくなる。
産まなくなったら絞めて、また若いのを買い足してというのが、我が家のサイクルである。
健康的に育った鶏の卵は感動的に美味く、どこへあげても喜ばれる。
物でもなんでも奪い合えば足りなくなり、分け合えば余るのだ。

秋といえば収穫の秋。
コンニャク芋、長芋、キク芋の収穫も秋。
夏の間にお日さんの光をたっぷり浴びて、地中で育った芋が日の目を浴びる。
長芋は文字通り長く育つが簡単に折れる。
育てるより収穫が大変だ。
今年は鉄の波板を地中に斜めに埋め、それに沿って芋を育てた。
結果は見事に成功。
立派なのが何本もできた。
山芋はすりおろしてトロロ汁も良し、細く刻んで海苔をまぶし醤油で食うも良し、焼いても揚げても良し。
そしてまた、あのネバネバは健康にも良い、と良いことづくめである。
コンニャク芋も相変わらず絶好調で大ぶりなものがいくつも取れたし、小さいものはこれでもかというぐらいにできた。
コンニャク芋は簡単に増えていくので、庭の空いた場所がどんどんコンニャク畑になっていく。
独特の葉っぱの形をしていて栽培が簡単だからだろうか、最近では園芸屋で観葉植物のように売っているのを見た。
自家製コンニャクがこれまた美味い。
いつも思うのだが、この美味さは文では表現できない。
コンニャク自体には味も栄養も無いのだが、排毒作用がありこれまた体に良い。
コンニャクを食わなくても生きていけるが、美味い物を食うという意味において生活を豊かにする。
たかがコンニャクされどコンニャク。
コンニャクを笑う者はコンニャクに泣く。
泣かねーよ、誰も。

なんかしっとりと秋の話を書こうと思ったのだが、やっぱりグダグダと食い物の話になってしまった。
それに毎年同じような話を書いているな。
やはり食欲の秋なのだろうかね。



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