正直言って、忘れていた。
あれから10年経ったということをだ。
地震があったことを忘れるわけがない、ただ10年経って昨日がその日だったということを忘れていた。
地震の事を忘れるわけがない。
だってその日にクライストチャーチに居合わせたのだから。
地震の前日の朝、クライストチャーチの空港へお客さんを送って一つのツアーを終わらせた。
まだまだ忙しい時で、本来なら翌日にクィーンズタウンに戻らなければならないぐらいだが、無理を言って翌々日に変えてもらった。
当日のお昼ごろ、のん気に庭仕事をしていたら大地が揺れた。
最初は大きめの余震の一つかな、などと思った。
と言うのもクライストチャーチではその前年の9月に大きな地震があり、それ以来何百回もの余震が続いていたのである。
自分が外で動いていた、というのもあるがそれほど大きいとは感じなかった。
だが水道が止まり電気が止まり、事の大きさに気がついた。
まずは家族の安否だ。
運良く女房の携帯に繋がり、無事が確認できた。
そして近所の小学校へ娘を迎えに行った。
夕方には女房も帰ってきて、当時居合わせた女房の両親と全員で食事をした。
翌日以降も仕事がある女房をクライストチャーチに残し、義父母と娘を載せ僕はクィーンズタウンへ車を走らせた。
地震当日の記憶としてはそんなものだ。
ひどい現場にいなかったからか、パニックにもならず、落ち着いて行動できたと思う。
その後、ツアーの仕事はキャンセルになり、観光業とはなんとはかない職業だと実感した。
あれから10年かあ。
その日の事柄は今でも記憶の引き出しに入っていて、鮮明に思い出す事ができる。
けれど常にそれを考えているわけでもない。
式典に出るわけでもないので言われるまで忘れていたぐらいだ。
はっきり言えば10年前の記憶より、今日のご飯をどうしようかという方が大事なのである。
式典でもニュースでも亡くなった方への追悼を述べる。
死者をぼうとくする気はないし、死んだ人のことはかわいそうだと思う。
だが死ねば誰もが仏様。
死んだ人はすでに痛みも悲しみも無い世界にいて、僕らを見守ってくれている。
もしくはすでに次の輪廻でこの世に生まれてきていることだろう。
それならそれで、今の混沌とした世の中で生きていくのは大変だ。
死んだ人よりも、残された人の方が大変なのだ。
特に自分の子供に先立たれた親の心境はいたたまれない。
地震の後、1年後に遺族がNZを訪れそのドライバーをした。
地震の前に娘さんがNZに着いて、翌日にホストファミリーが車で案内をした。
近くのビーチだの、高台の展望スポットだの、まあ普通に市民が行くような場所だ。
その翌々日に地震があり、若い娘さんは亡くなった。
そのコースと全く同じ所を回り、1年前に立ち寄ったデイリーでみんなでアイスクリームを食べた。
仕事とは言え、やりきれない気持ちが残った。
その後で普通のガイドの仕事をしたのだが、楽しむ為にこの国を訪れる人を案内する仕事っていいなあ、とつくづく思った。
クライストチャーチの地震が落ち着き始めた頃に、今度は日本で地震があった。
これで日本からのツアーは一切無くなり、ガイドの仕事は無くなった。
それでも冬のスキーバスの仕事はあったし、翌年には別の会社でガイドをすることになった。
それからも色々なことがあったが、10年という年月が長いのか短いのか分からない。
新しく出来た友達は地震の後に来たから、地震以前のクライストチャーチを知らない。
10年経ってやっと町の中心部も復興してきた。
同時に街中でも、10年経っても全く手をつけていない場所もある。
日本だったら2、3年で出来るぐらいのところだが、ここでは10年。
復興の仕方もこの国はのんびりだ。
これもまた流れている時間の違いなんだろうなぁ。
あれから10年経ったということをだ。
地震があったことを忘れるわけがない、ただ10年経って昨日がその日だったということを忘れていた。
地震の事を忘れるわけがない。
だってその日にクライストチャーチに居合わせたのだから。
地震の前日の朝、クライストチャーチの空港へお客さんを送って一つのツアーを終わらせた。
まだまだ忙しい時で、本来なら翌日にクィーンズタウンに戻らなければならないぐらいだが、無理を言って翌々日に変えてもらった。
当日のお昼ごろ、のん気に庭仕事をしていたら大地が揺れた。
最初は大きめの余震の一つかな、などと思った。
と言うのもクライストチャーチではその前年の9月に大きな地震があり、それ以来何百回もの余震が続いていたのである。
自分が外で動いていた、というのもあるがそれほど大きいとは感じなかった。
だが水道が止まり電気が止まり、事の大きさに気がついた。
まずは家族の安否だ。
運良く女房の携帯に繋がり、無事が確認できた。
そして近所の小学校へ娘を迎えに行った。
夕方には女房も帰ってきて、当時居合わせた女房の両親と全員で食事をした。
翌日以降も仕事がある女房をクライストチャーチに残し、義父母と娘を載せ僕はクィーンズタウンへ車を走らせた。
地震当日の記憶としてはそんなものだ。
ひどい現場にいなかったからか、パニックにもならず、落ち着いて行動できたと思う。
その後、ツアーの仕事はキャンセルになり、観光業とはなんとはかない職業だと実感した。
あれから10年かあ。
その日の事柄は今でも記憶の引き出しに入っていて、鮮明に思い出す事ができる。
けれど常にそれを考えているわけでもない。
式典に出るわけでもないので言われるまで忘れていたぐらいだ。
はっきり言えば10年前の記憶より、今日のご飯をどうしようかという方が大事なのである。
式典でもニュースでも亡くなった方への追悼を述べる。
死者をぼうとくする気はないし、死んだ人のことはかわいそうだと思う。
だが死ねば誰もが仏様。
死んだ人はすでに痛みも悲しみも無い世界にいて、僕らを見守ってくれている。
もしくはすでに次の輪廻でこの世に生まれてきていることだろう。
それならそれで、今の混沌とした世の中で生きていくのは大変だ。
死んだ人よりも、残された人の方が大変なのだ。
特に自分の子供に先立たれた親の心境はいたたまれない。
地震の後、1年後に遺族がNZを訪れそのドライバーをした。
地震の前に娘さんがNZに着いて、翌日にホストファミリーが車で案内をした。
近くのビーチだの、高台の展望スポットだの、まあ普通に市民が行くような場所だ。
その翌々日に地震があり、若い娘さんは亡くなった。
そのコースと全く同じ所を回り、1年前に立ち寄ったデイリーでみんなでアイスクリームを食べた。
仕事とは言え、やりきれない気持ちが残った。
その後で普通のガイドの仕事をしたのだが、楽しむ為にこの国を訪れる人を案内する仕事っていいなあ、とつくづく思った。
クライストチャーチの地震が落ち着き始めた頃に、今度は日本で地震があった。
これで日本からのツアーは一切無くなり、ガイドの仕事は無くなった。
それでも冬のスキーバスの仕事はあったし、翌年には別の会社でガイドをすることになった。
それからも色々なことがあったが、10年という年月が長いのか短いのか分からない。
新しく出来た友達は地震の後に来たから、地震以前のクライストチャーチを知らない。
10年経ってやっと町の中心部も復興してきた。
同時に街中でも、10年経っても全く手をつけていない場所もある。
日本だったら2、3年で出来るぐらいのところだが、ここでは10年。
復興の仕方もこの国はのんびりだ。
これもまた流れている時間の違いなんだろうなぁ。