あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

あれから10年

2021-02-26 | 日記
正直言って、忘れていた。
あれから10年経ったということをだ。
地震があったことを忘れるわけがない、ただ10年経って昨日がその日だったということを忘れていた。
地震の事を忘れるわけがない。
だってその日にクライストチャーチに居合わせたのだから。
地震の前日の朝、クライストチャーチの空港へお客さんを送って一つのツアーを終わらせた。
まだまだ忙しい時で、本来なら翌日にクィーンズタウンに戻らなければならないぐらいだが、無理を言って翌々日に変えてもらった。
当日のお昼ごろ、のん気に庭仕事をしていたら大地が揺れた。
最初は大きめの余震の一つかな、などと思った。
と言うのもクライストチャーチではその前年の9月に大きな地震があり、それ以来何百回もの余震が続いていたのである。
自分が外で動いていた、というのもあるがそれほど大きいとは感じなかった。
だが水道が止まり電気が止まり、事の大きさに気がついた。
まずは家族の安否だ。
運良く女房の携帯に繋がり、無事が確認できた。
そして近所の小学校へ娘を迎えに行った。
夕方には女房も帰ってきて、当時居合わせた女房の両親と全員で食事をした。
翌日以降も仕事がある女房をクライストチャーチに残し、義父母と娘を載せ僕はクィーンズタウンへ車を走らせた。
地震当日の記憶としてはそんなものだ。
ひどい現場にいなかったからか、パニックにもならず、落ち着いて行動できたと思う。
その後、ツアーの仕事はキャンセルになり、観光業とはなんとはかない職業だと実感した。



あれから10年かあ。
その日の事柄は今でも記憶の引き出しに入っていて、鮮明に思い出す事ができる。
けれど常にそれを考えているわけでもない。
式典に出るわけでもないので言われるまで忘れていたぐらいだ。
はっきり言えば10年前の記憶より、今日のご飯をどうしようかという方が大事なのである。
式典でもニュースでも亡くなった方への追悼を述べる。
死者をぼうとくする気はないし、死んだ人のことはかわいそうだと思う。
だが死ねば誰もが仏様。
死んだ人はすでに痛みも悲しみも無い世界にいて、僕らを見守ってくれている。
もしくはすでに次の輪廻でこの世に生まれてきていることだろう。
それならそれで、今の混沌とした世の中で生きていくのは大変だ。
死んだ人よりも、残された人の方が大変なのだ。
特に自分の子供に先立たれた親の心境はいたたまれない。



地震の後、1年後に遺族がNZを訪れそのドライバーをした。
地震の前に娘さんがNZに着いて、翌日にホストファミリーが車で案内をした。
近くのビーチだの、高台の展望スポットだの、まあ普通に市民が行くような場所だ。
その翌々日に地震があり、若い娘さんは亡くなった。
そのコースと全く同じ所を回り、1年前に立ち寄ったデイリーでみんなでアイスクリームを食べた。
仕事とは言え、やりきれない気持ちが残った。
その後で普通のガイドの仕事をしたのだが、楽しむ為にこの国を訪れる人を案内する仕事っていいなあ、とつくづく思った。
クライストチャーチの地震が落ち着き始めた頃に、今度は日本で地震があった。
これで日本からのツアーは一切無くなり、ガイドの仕事は無くなった。
それでも冬のスキーバスの仕事はあったし、翌年には別の会社でガイドをすることになった。



それからも色々なことがあったが、10年という年月が長いのか短いのか分からない。
新しく出来た友達は地震の後に来たから、地震以前のクライストチャーチを知らない。
10年経ってやっと町の中心部も復興してきた。
同時に街中でも、10年経っても全く手をつけていない場所もある。
日本だったら2、3年で出来るぐらいのところだが、ここでは10年。
復興の仕方もこの国はのんびりだ。
これもまた流れている時間の違いなんだろうなぁ。

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美味い酒、不味い酒

2021-02-21 | 酒人


ブログを始めて10年以上になるが、文を書き始めて完成しないままにタイミングを逃してしまうことがある。
そうやってお蔵入りした話も多々ある。
この話は去年9月に蔵で働いた時の話だ。
タイミングが合わずに載せなかったが、ボツにするのは惜しいので加筆修正してこの話も日の目を当たることになった。





全黒は小さい酒蔵であるが故に、全員で多様な仕事をこなす。
これが大きな工場のような酒蔵ならば、流れ作業のような具合になるのかもしれない。
効率を考えたらそっちの方がいいのだろう。
だが小さい酒蔵ならではの楽しみや喜びもある。
仕込みの時には米や麹や水の分量を計る作業から始まり、米を洗う洗米、水に浸す浸漬などが下準備。
その翌日には米を蒸して、蒸しあがった米を冷ましてタンクに水と共に入れる。
同時に杜氏か蔵頭が麹や酵母の量を測り調合する。
そうやってできたもろみを4週間の間、毎日かき混ぜて温度管理をする。



役4週間後に布の袋に入れて数日吊るして吟醸酒を絞る。
絞った後のものを上手く並べて、上から重石を乗せてさらに絞る。
絞ったものは数日置いて、上澄みを取る澱引きという作業があり、次は火入れという作業がある。
それをフィルターにかけ、数ヶ月寝かせ、配合して瓶詰め、それを再び火入れをして、ラベルを貼り商品となる。
ざっとまあこんな具合であり、すべてが作業の連続だ。
小さい酒蔵なので、酒造りの最初から最後まで全て関われるのが良い点である。
発酵途中のもろみの状態から、絞り、澱引き、フィルター、火入れという要所要所で味見もする。
そうやって仕事をしていれば、どの時点での酒が一番旨いかということも分かる。
逆に言えば、どういう状態の酒が不味いかも分かるわけだ。





旨い酒と言えば、吟醸や大吟醸というものが一般的だ。
全黒も純米吟醸を作っていて、最近は純米大吟醸も作り始めた。
ここで吟醸と大吟醸の違いを書いておこう。
酒に使う米の旨みの成分は、米粒の中心に集まっている。
そこで米を精米して削っていき、外側にある雑味などを取って中心の旨さを残していく。
吟醸だと米粒の4割を削り、残りの6割の米で造る。
これが大吟醸だと5割削り、残り5割で造る。
米粒の大きさも大吟醸は小さくなるし、同じ量の酒を造るのにも大吟醸は米の量が多く必要となる。
そういう贅沢な酒なので、当然ながら値段も高くなる。
贅沢な酒だけあって、香りは良いし味も良い。
極めていくと精米を7割削り3割で造るといった大吟醸もあるようだが飲んだことはない。



全黒の大吟醸も順調に醸され、絞りの日となった。
毎日、もろみからサンプルを取り分析後の酒を味わってきたので旨いのは分かる。
けれどサンプルはサンプルであり実際に絞ったものとは味も違う。
実際にどんな味になるのか、ワクワクしながら僕もユーマもアキさんもニコニコ顏で仕事をこなす。
もろみというものはドロドロのゆるいお粥のような状態だが、それを11リットルづつ布袋に入れて棒で吊るす。
袋からは液体が染み出しポタポタと落ちて、船と呼ばれる大きな容器の下に溜まる。
釣り終えてわずか数時間で40リットルぐらいは溜まっただろうか。
さてお楽しみの利き酒の時間だ。
みんな仕事を一段落させ集まり、味を見て感想を言い合う。
この初日に絞ったものを『荒ばしり』と呼ぶ。
その名の通り、荒い味がするのだ。
荒いと言っても大吟醸。
風味もあり、飲み口良く、旨い。
今の時点では荒いが、時間が経って落ち着いたら旨い酒になることは想像できる。



その翌日の夕方、再び船から大吟醸を取る。
二日目に絞る酒を『中取り』と呼び、これが一番旨い。
昨日の味見で美味いのは分かっているが、1日置いてどんなに旨くなっているのか。
そんな期待を胸にワクワク、ニヤニヤしながら仕事をこなす。
楽しい時が来るのが分かっているので、妙にテキパキと仕事をこなす。
そして夕方、みんな集まり、味見をする。
香りが少し弱いが、吟醸香は確実に感じられる。
口の中に含むとすっきりとした味わいが広がり、喉を通ると同時にすべてが消える。
「何これ?このすっきり感!」
「これは危険だ。喉が渇いていたら一気飲みできちゃうな」
「この消えゆく感じ、桜の散り際のようだ。」
「これは侍だ。侍の潔さだよ」
みんなそれぞれに言葉は違うが、それぐらいにすっと消える旨さ。
ううむ、これが大吟醸なんだな。
そのスッキリ消える感じも含めて酒の旨さなのだ。
安い酒とか飲むとアルコール臭さがいつまでも口の中に残るが、さすが大吟醸そんな感覚は微塵も無い。
特に搾りたてなんてあーた、美味い所の先取りだ。
これを飲みたきゃ、蔵で働くしかない。
本当に美味い物は人に感動を与える。
この仕事をやっていて良かったと思える瞬間だ。



美味い物ばかりではない。
僕たちは勉強熱心なので、工程ごとに品質を自分の舌でチェックする。
もろみを袋に入れて吊るして絞り、さらにそれを平積みにして上から重石をして絞る。
その後で袋を積み上げて1週間ぐらい置くと、また数リットルの酒が出る。
これをカス酒と呼ぶ。
このカス酒は不味くてとても売り物なる代物ではない。
こういう酒は作業用に使う。
新品の瓶を酒に鳴らす作業を酒慣れと言い、それに使ったり、フィルターを通す前に流す『流し酒』などである。
勉強熱心なので、このカス酒さえも味を見る。
香りは飛び、味は甘すぎで苦味も感じられる。
同じ大吟醸でも、とどのつまりはカス酒になり、はっきり言って不味い。
だがこの不味い酒が料理に使うと化ける。



この酒を熱してアルコールを飛ばすと、みりんのように使える。
これはれっきとした和食の技術で、高輪プリンスの和食レストランの板前さんに昔教わった。
これを使った煮物は絶品で、得意技は豚肉の全黒煮である。
今ニュージーランドにある日本食はどれも甘すぎる。
砂糖べったりと醤油で味付けを濃くすれば売れるので仕方がないが、本来の和食とはかけ離れている。
逆に甘くしないと売れないのだろう。
砂糖の甘さは中毒になりやすく、自分でも気がつかないうちに味付けがどんどん濃くなっていく。
出汁をきかせ甘みを抑え素材の旨さを引き出す料理を、自分は目指している。
そうやって作った親子丼、卵は家の卵を使ったものは絶品である。
時々、全黒スタッフの賄いランチに出す。
みんなで美味い物を食べると自然に笑顔があふれる。
美味い物を食べる時に人間は不機嫌になれない。
親子丼に合わせ杜氏のデイブが気前よく新しい酒を品質チェックという名目で開けてくれたりする。



そうやって和気あいあいで仕事をして美味い酒ができる。
和醸良酒の話は以前書いたが、最後は心だろうな。
心が通っていればこそ、いい仕事ができる。
逆に言えば心が無ければ良い物は産まれない。
そんな心がこもった大吟醸、これは美味いぞ。
どれだけ美味いか、こればっかりは飲んでくれ、という他ない。
この話が遅れたのは、話を書いた時にはまだ大吟醸は製品になっていなかったからだ。
売り出したら話を載せようと思っていたらズルズルと時間が経って、年を超えてしまった。
まあ話も酒と同じで、ある程度熟成して味が出る、ということにしておこう。



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南へ 漁師との出会い

2021-02-11 | ガイドの現場
病気や怪我というのは嫌なものである。
だからこそ健康であることのありがたみを知る。
でも健康である時はそれが当たり前なのでわざわざそこに焦点を当てない。
当たり前のことに人は感謝をしないのだ。
本当はそこが大切なんだけどね。
膝の腫れが引くまで数日寝込むとさすがに気が滅入る。
それでも医者に行き「たいしたことはないからまずは自転車に乗って動け」と言われ、自転車で犬の散歩をやると気が晴れた。
単純だな。
腫れはどんどん引いていき、ゆっくりだが歩けるようになり庭仕事もできるようになると、もっと気も晴れ世の中が明るくなった。
ますます単純だな。
1月はのんびりリハビリしながら畑仕事かな、などと思っていたら電話が鳴った。

「急な話で、来週なんだけど仕事できますか?ティマルから始まって5日間、クィーンズタウン行ってミルフォードとか市内観光とかやってテカポ行って戻って来るルート」
「え〜、車の運転は大丈夫だけど、歩きはまだ完璧じゃないよ」
「大丈夫大丈夫、歩く仕事じゃないから、観光ドライバーガイドだから。そういうわけでお願いしまーす」
そんな具合にバタバタと仕事が決まった。
このご時世にガイドの仕事があるのはありがたいことである。
山歩きの仕事はまだ無理だが、まあドライバーガイドなら大丈夫だろう。
それに久しぶりにクィーンズタウンへ行けば、全黒の蔵にも顔を出せるし、バンド仲間とセッションできるかもしれない。
お客さんは日本人4人で船乗り、というところまで分かっているが、そこから先が分からない。
貨物船の乗組員なのか、漁船の漁師なのか。
ニュージーランド初めてなのか、それともずーっとこっちにいる人なのか。
食べ物はどういうのが好みなのか、ひょっとすると日本食に飢えているのか、などなど。
宿はキッチン付きなので、何でもリクエストに応えられるよう、炊飯器やら米やら、そば、うどん、調味料、カレーのルーなど、そんなものまでも一応車に積み込みティマルに向かった。

いつもの事ながら、お客さんと出会うまでは、どんな人が来るのか分からない。
お客さんと出会い、色々な話をするうちに向うのバックグラウンドが分かってくるのだ。
それにはこちらの身の上も伝える。
かと言って自分の話ばかりするのもいけない。
その辺のさじ加減が難しい。
ありきたりのつまらない人生論など聞きたくない、それよりも血湧き肉躍るような話を聞きたい、というのが人情だ。
僕は今まで色々な経験をしてきたので、お客さんはわりと僕の身の上話も喜んで聞いてくれる。
若い時の経験は財産、というのはこういうことだ。
お客さんは50代から60代ぐらいのおじさん3人と、33歳の若者K。
若いのが助手席に座るので、自然とKから色々な話を聞く事になる。
彼らは北海道の道東、釧路の辺りの人で、数年前に乗っていた舟がニュージーランドの会社に買われた。
舟が買われるということは乗組員も一緒に買われる、ということだ。
それまでも漁でニュージーランドには良く来ていたので、この国のこともよく知っている。
日本人の乗組員が6人にインドネシア人の船員が30人ほど。
今はティマルの港がベースとなり、そこから漁に出てホキなどの深海魚を取っている。
一回の船出でだいたい3週間から1ヶ月ぐらい、港に帰ってきて1週間ぐらいの休みがある。
だが彼らには家がない。
漁が休みの間も舟に住む。
街には自由に行けるのだが、基本寝泊りは舟の上で、同じ船員と顔を付き合わせる生活を続ける。
1年に一回、舟の修理で40日ぐらい漁に出ない時があり、その時に日本に帰るのだが、今は簡単には帰れない。
みんなのストレスも溜まるだろうからと、会社が今回のツアーを手配した。
僕が日本人船員の4名、もう一つは二十数名のインドネシア人のグループだ。

ティマルからオアマルを経てモエラキのビーチを散策している時に、日本の父親から電話が入った。
前回の北島ツアーの時もそうだったが、父は仕事の時を狙うように電話をかけてくる。
前回、北島ツアーでトンガリロで時間があったので、年賀状がわりに絵葉書を送ったのだ。
「おい、お前、字が上手くなったなあ。今までで一番上手だったぞ」
「そりゃ、ありがとう。今はツアーの最中でモエラキにいるぞ。丸い岩のある海岸。」
「おお、確かダニーデンの近くだったな」
「そうそう、よく覚えているな」
老人は遠い過去のことは覚えているが、その日のお昼ご飯を食べたかどうか思い出せないという。
ひとしきり親戚の誰それが死んだだのという話を聞いて、僕はいつもの言葉で電話を切った。
「じゃあ死ぬまで、元気でな。好きな物を食いまくってポックリ死んでくれ」
僕も本当は去年の5月に日本に帰る予定だったがそれもできず、今のままなら親の死に目にも会えない。
まあそれも仕方なかろう。

パーマストンから内陸に入り、クロムウェルの馴染みのフルーツショップへ立ち寄る。
今の時期はサクランボ、あんず、モモ、ネクタリンなどが旬である。
いつもならツアー客で混雑する店内も人はまばらだ。
多分今シーズン最初で最後のツアーだろうと、顔なじみのオバちゃんに挨拶をした。
明るい話題はなく、オバちゃんの愚痴を聞くだけ聞いて、店を出た。ふう。
クィーンズタウンではレイクビューのホリデーハウスに3連泊。
聞くとクィーンズタウンには以前1回来たことがあると。
「あの時は時化でブラフから動けなくなっちゃって、しょうがないからブラフからタクシーでクィーンズタウンまで来たんだよ。」
「へえ、そりゃタクシーの運ちゃんも喜んだでしょう」
「まあね、運ちゃんの分も街のホテル取ってやったからね。でもクィーンズタウンへ来る道も大雪で運転も大変そうだったけどな」
ブラフは南島の最南端の街でクィーンズタウンまで普通に走っても2時間半ぐらいかかるだろう。
金払いのいい客はどこでも喜ばれる。
これは世の常である。

二日目はミルフォードサウンド1日観光。
ミルフォードサウンドはニュージーランド観光の目玉と言っていい場所だ。
シーズン中は何回も来る場所だが、今年はこれが最初で最後だろう。
普段は大型バスが何十台も止まる駐車場もガラガラ。
最近ではそれでも駐車場が足りなくてバスを停める際のゴタゴタがあったのだが、それが嘘のようだ。
そしてお昼時のクルーズは1日で一番込み合う時間帯で、普段なら何百人もの人が舟に乗り込むのだが、この日のお客さんは20人程度。
自然を味わうという観点から見れば、今は最高の状況である。
だがツーリズムビジネスという方向から見れば、これではやっていけない。
夏休みでクィーンズタウンはそこそこの賑わいを見せているが、わざわざミルフォードサウンドまで足を延ばす人はそれほど多くない、ということだろう。
この先、夏休みが終わったらもっと人の行き来が少なくなるはずだ。
人が少なくなれば収入も少なくなる。
施設や道や国立公園の管理には当然金もかかる。
バスや舟や飛行機などの機材は使ってナンボのもので、使わなくても物は古くなっていくので何らかの金はかかる。
バス置き場で長いこと使われないバス、空港近くで野ざらしになっているレンタカー、ミルフォードサウンドで繋がれたままになっている観光船。
漠然と感じていたツーリズムビジネスの衰退が、ガラガラの施設を目の当たりにすると心に重くのしかかってくるのだ。

人が少ないのでいつもの大型船は出さずに、小さめの舟で湾内を回る。
この辺りは南緯45度ぐらいで赤道と南極の中間。
船乗りの間では『吠える45度』という言葉があって、45度を超えてそれ以上南へ行くと、海が吠えるように波が荒くなる。
というような説明をいつもお客さんにする。
船乗りでもない僕が偉そうに船乗りの話をするのだ。
「え?そうなの。そんなの知らなかったよ」と本職の船乗りのお客さんが笑った。
「うちらが行くのはだいたい48度ぐらいだからなあ」
ううむ、きっと想像を絶する世界なんだろうなあ。
低気圧の真っ只中ということもありタスマン海に出るとうねりが高くなり、船長がアナウンスで注意を促した。
舟に乗っている人もバランスを保とうとしている横で若いKが言った。
「ベタ凪ッス。」
いやあ、海の上ではかないませんがな。

翌日は市内観光。
ゴンドラに乗ってリュージュ、バンジージャンプ、アロータウン、ジェットボートツアー、ワイナリーなどなど。
もちろん全黒の酒蔵見学もありだ。
そういう所での金の使い方がすごい。
ワイナリーでは一番高い180ドルのワインをポンと買う。
街中でノースフェイスの店に立ち寄れば、パッと見たジャケットのサイズだけ確認して、袖も通さずに買う。
店員も「ご試着ですか?え?お買い上げ?あ、ありがとうございます」と驚く。
まあ普通は驚くわな。
「ええ?それで着てみて気に入らなかったらどうするの?」という素朴な疑問には
「そん時は誰かにあげちゃう」と実に気前が良い。
レストランでも値段をさほど気にせず、食べたい物を食べ飲みたい酒を飲む。
「シェフのおすすめコース人数分、あと生ガキを20個ほどもらおうかな」
なんて注文をして、コースの中で気に入った物があれば追加注文。
もちろん全黒の酒蔵見学の時も純米大吟醸をお買い上げ。
毎度あり〜、チーン。
Kは毎晩カジノへ行き、1日数千ドル単位で勝ったり負けたりしている。
まあ、普段の生活では金を使うことがないのだからそうなるのか、それとも性格だからか。
そこで「会社からのお金がこれだけで・・・」なんて話をするとしみったれた気分になるのだ。
金銭感覚がここまで違う人と出会うことは稀なので、それはそれで楽しいものもあった。
いろいろ美味しい物もおごってもらったしね。
ケチくさくないっていいねえ。

クィーンズタウンからワナカを経てマウントクック。
シーズン真っ盛りで普段は賑わうホテルだが、今は閑散とした雰囲気が漂う。
眺めを売りにしているホテルだが、地元の人が簡単に泊まれる値段ではない。
ここでも超多忙な時を知っているだけに寂しさが募るばかりだ。
だがその反面、人が少ない分自然を堪能するには良い。
どこもそうだが、あまりに人が多いと大自然を味わうという雰囲気ではなくなる。
大自然の中にいながら『観光地』になってしまう。
今なら簡単に歩ける観光トラックも良いだろうな。
そして振り出しに戻ってしまうが、大自然の中の観光施設は人がいないとさびれた雰囲気になる。
不思議なものだ。

その晩はテカポ宿泊。
テカポでは定番の湖畔レストランで晩御飯。
若いKはここでもコップ酒をぐいぐいあおる。
普段、海にいる時には全く飲まない。
それでなのか、だからなのか、この旅行中は毎晩かなりの量を飲んでいた。
クィーンズタウンでは毎晩カジノに行っていたがテカポにはカジノが無い。
村にひとつだけあったスロットマシンのある酒場も火事で焼けてしまい、ギャンブルは何もない。
健全な村だ。
若いKはかなり酔っ払っていて、ぼくもかなり酔っ払っていたので、付き合って遅くまで話をした。
友達のシノちゃんも働いていて、仕事が終わった後に話につきあってくれた。
酔っていたので何を話したかあまり覚えてないが、若者の悩み、葛藤、愚痴につきあった。
同じ人と毎日共同生活をして、1年以上も日本に帰らず、ストレスも溜まっていることだろうし別のものも溜まっているだろう。
たまには違う人と話をして、風を通すのもいい。

最終日はテカポからティマルへ帰るだけだ。
まっすぐ走れば1時間半の距離である。
途中の街で寄り道をし、ビール醸造所でお昼を食べて、早い時間にティマルへ戻った。
本来ならそこでお別れだが舟を見せてくれるというので、Kの案内で見学させてもらった。
船首にはレーダーやら計器類が並ぶブリッジ。
片隅には立派な神棚があり、いつも御神酒をお供えするそうだ。
全黒の大吟醸もお供えするのかなぁ。
食堂、調理場、洗濯場、風呂、トイレ、という居住区は限りあるスペースを使った機能的な造りだ。
だが40人もの男が生活をする場として考えると、正直狭い。
若いKの部屋を見せてもらったが、狭くて乱雑な船室の壁には女のヌードのカレンダーがかかっていた。
船乗りのイメージそのままで、思わず笑ってしまった。
Kの仕事場である機関部、取れた魚を捌いて凍らせる作業場、そして凍らせた魚を入れる船倉。
これらの設備はさながら工場である。
小さめの工場がそのまま船の中にある、という感想だ。
狭い通路で機関長と呼ばれていたお客さんとすれ違う。
彼はすでに仕事用の作業服に着替えて仕事に向かうところだった。
生活の場は仕事の場でもある。
ブリッジに戻りコーヒーをいれてもらった。
不思議なことに、船に戻ってくるとおじさん達やKの顔つきが海の男の顔になった。
いい顔だ。
「これからはホキのフライを食べる度に皆さんの事を思い出します。どうぞこれからもご安全に魚を獲ってください。僕がそれを美味しくいただきます。」
みんなと固い握手を交わし船を降りた。

クライストチャーチまで2時間のドライブの間、思いを馳せる。
一つの仕事をやり終えた充実感、自分の家に帰って家族に会える安堵感。
久しぶりに見たリゾート地での先が見えないツーリズムの暗さ。
たまに再開してセッションをした仲間の笑顔。
雑多な感情が渦を巻く中でのドライブは悪くない。
そして想いは再び、海の世界へ飛ぶ。
別れ際にわずかだが彼らの世界を覗かせてもらった。
すごい世界だった。
逃げ場のない海の上の狭い空間に何十人もの男が生活する。
時にはいざこざもあるだろう。
ケンカの末に海に投げ込まれてしまえば、はいそれまでよ、おさらばえ〜。
警察だってどうこうできるわけでなし、事故として処理されてしまう。
この船ではそういうことはないが、他所の船ではたまにあると言う。
そりゃストレスだって半端なものではないだろう。
ああいう人達が獲った魚を食べているのだ。
仕事とは言え、過酷な環境で生きている人が高給を取るのは当たり前だ。
これからは「魚が高い」とぼやくのをやめよう。
高くて当たり前だ。
自分に欠けていたのは感謝の心だ。
頭で考える感謝と心で感じる感謝は違うものだ。
それに気がついた事が今回の収穫だ。

住む世界が違う、という言葉があるがまさにそれだった。
人生観、価値観、生活の場、金銭感覚、全てが違う。
彼らと繋がっている物があるとすれば、心の奥底にある「自然の中では人間は無力だ」という虚無感のようなものだろうか。
そこにあるのは死生観であり、故に刹那的になるのではなかろうか。
人間の営みさえも自然の一部として考えるのならば、今の狂った世の中も自然界の出来事の一つだ。
自然の中では、じたばたしてもどうしようもない、というような開き直りの極意。
そして船に戻った時、海の男の顔になった時、自分に出来る事やるべき事をたんたんとやる態度。
僕は僕なりに想うことがあった。
コロナの渦はさまざまなところで影響を与え、その波紋は今も広がっている。
今まで知らなかっただけで、今回のように見ず知らずの人も影響を受けている。
自分だってガイドの仕事がこの先いつあるのか分からない。
そうならないことを祈るが、ひょっとするとこれが最後かもしれない。
でも何かしら自分にできること、自分がやるべきことをやっていこう。
彼らとは二度と会わないかもしれないが、彼らとの出会いは深く胸に刻まれた。
一期一会。
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北島ツアー

2021-02-02 | ガイドの現場


気がつけば2月に入ってしまった。
ブログを書くタイミングというものがあり、良い内容の話があるがタイミングが合わなくてお蔵入りしたものも多数ある。
書くのが遅いというのもあるが、物事が風化する前にちゃんと残しておくことも大切かな、などと思うのだ。
混乱、困惑、混沌の2020年の締めくくりは北島ツアーだった。
12月の後半に13日間という長いツアーで、お客さんは海外からの留学生。
ニュージーランドに留学をしているが、夏休みだが家に帰れずにいる子ども達で、出身は日本、台湾、韓国、中国、香港、トンガ。
ちなみに全員男子高校生で、ある意味あいにおいて楽である。
僕はサブのドライバーガイド、メインのガイドは学生の旅行に長けたベテランガイドのダーモットが付いた。
そして学校からは引率の教師が一人。
おじさんガイド、男子高校生14人というなんとなくむさ苦しい御一行様だ。



初日の朝、クライストチャーチを出発し北上、カイコウラで昼食後、ピクトンへ。
ピクトンで早めの夕食後フェリーに乗りこんだ。
旅というのは非日常である。
車に乗ったまま船に乗り込むというのでワクワク感が高まる。
このフェリーが遅れた。
予定では夜の10時半にウェリントンに着くはずが、2時間遅れの12時半。
それからホテルチェックインやらなんだかんだで眠りに付いたのは2時近くだった。



翌日、旅の興奮からか早めに起きてしまったので街を散歩した。
首都ウェリントンはあまり良く知らない。
いやウェリントンどころか北島を良く知らない。
ニュージーランドに来て数十年になるが、南島からほとんど出ることなく過ごしてきた。
ウェリントンには10年ぐらい前に友達の結婚式で来たぐらいだ。
♪知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい そんな歌を思い出しながら、ウェリントンの街を歩く。
娘の深雪は今は大学1年生でウェリントンのビクトリア大学へ通う。
子どもが親から離れ自分の人生を進んでいく真っ只中である。
親離れする時というのは、親も子離れする時だ。
子どもから離れ、改めて自分の人生について考える時なのだ。
ここが娘の住む街かあ、などと妙に感慨深く街を眺めた。



その日は移動日、ウェリントンからヘイスティングスへ向かう。
地図でしか見たことのない地名の街を通過する。
穏やかな山並みがあり、牧場に牛や羊がいる光景は南島に似てはいるが、やはりどことなく違う。
メインのガイドのダーモットがいろいろと説明をしていくれるのが有難い。
夕方にはヘイスティングスに着き、そこではキャンプとバーベキューだ。
今回のツアーは朝飯と夕飯も僕らが作る。
当然食材の買い出しなどもあるので、かなり忙しい。
夕飯が終わり、ほっと一息ついたところで、昔の知人がヘイスティングスに住んでいたことを思い出した。
初めてワーホリでニュージーランドに来た時にクィーンズタウンのお土産物屋で一緒に働き、英語の下手糞な僕をなにかと面倒を見てくれた。
最後に会ったのは20年ぐらい前のことだろうか。
それからは音信も途絶えてしまった。
こちらから連絡を取れば思い出すだろうが、そうでなければ僕のことなど忘れているだろう。
それはこっちだってお互い様だ。
この先、ましてやヘイスティングスに来ることはもう無いだろう。
あの人にも今生で会うことはもう無いかもしれない。
会うも縁なら会わぬも縁の 宿命(さだめ)なり。
そうやって自分を慰めて生きていこう。



ネイピア、タウポを経てロトルアで2泊。
連泊の合間に市内観光が入る。
南島で長年ガイドをやっている者の視線で北島の観光地を眺めるのもなかなか良い。
連泊ともなればそれなりに時間に余裕ができる。
街を一人でブラブラと歩いていると、街角で歌っているマオリのカップルがいた。
曲の合間に彼らに尋ねた。
「俺の知り合いでロトルア出身のナイロとダニエルって兄弟がいるんだが、知っている?昔クィーンズタウンに何年か居て、彼らにマオリの歌を教わったんだ」
雲をつかむような話だが、ナイロは音楽の方ではそこそこ有名だと言っていたのを思い出した。
「ええ、よく知ってるわよ」
「ええ?本当?今もロトルアにいる?」
「しばらく前にタウランガに行っちゃったわ。」
「そうかあ、彼らは今も元気でやってるのかねえ?」
「うん、とっても元気よ」
「ありがとう」
マオリの歌の師匠にも会えずか。
でも元気でやっているなら、それでいいだろう。



ロトルアを出てしばらく走り、映画ロードオブザリングスで有名なホビット村へ立ち寄る。
あの映画が好きな人には聖地のような場所だ。
以前出会ったお客さんも「これから北島へ行ってホビット村に行くんですう。もう楽しみで楽しみで」と言う人も何人かいた。
そこは現場のガイドがついて一緒に歩き色々と説明をしてくれる。
なるほど色々と興味深いが、同行した子供達のほとんどは映画を見たこともなければ興味も無い。
ガイドの話をつまらなそうに聞いていて、1時間で飽きてしまったようだ。
ぼくだって自分でドライブをしていたら高いお金を払ってまで来ないだろうが、仕事でこういう場所も来れるのは役得というものだ。
その後コロマンデル半島のフィティアンガへ行き、再びキャンプそしてバーベキュー。
そして大都会オークランドへ。



オークランドに着いたのは12月23日の午後だった。
オークランドでは街の中心のユースホステルに2泊、買い物には便利だが交通事情は悪い、普段なら。
世間はクリスマス休暇に入っていて、街の中心部はガラガラだ。
オークランドでは市内観光と自由行動。
僕もブラブラと街を歩く時間ができた。
僕が初めてニュージーランドに来たのは1987年の5月。
高校を出たばかりで日本から飛び出し、この街で3ヶ月英語学校に通った。
ショートランドストリートというドラマのタイトルの道にその英語学校はあった。
その場所に行ってみたが今では建物も変わって当時の面影は全く残っていない。
若い時に通った坂をぼんやり見つめ、当時の事を色々と思い出した。
初めて親元から離れ、初めての海外、初めてのホームステイ、初めてできた外国人の友達。
思い出はセピア色で、甘くもあり苦くもあり塩辛くもあった。
ただ間違いなく自分の青春の1ページがあった。
その時にホームステイをした家の親父さんが亡くなった話を聞いたのが20年ぐらい前か。
その後は連絡も取れなくなり、奥さんも今では生きていないだろう。
恩を返せなかったな。
学校の先生だった人は今でもオークランドに住んでいるが、今回はなんとなく連絡をしなかった。
仕事で来ているので時間がない、と言い切ってしまえばその通りなのだが、今回はそのタイミングではなかった。
人との縁が、なんとなく疎遠になる時はある。
それはそれで仕方のないものだろう。
誰もがそれぞれの生活があり、人間というものは常に動いているものなのだ。
30年前の自分と10年前の自分と今の自分は違うし、互いの環境だって違う。
それでも、いや、だからこそ、生で会うことができるというのは、何かしら運命のようなものを感じるのだ。



オークランドの初日は外食で、宿のすぐ近くの中華にいくことになった。
このツアー初の外食だ。
相方のダーモットに子供達の面倒を頼んで、その晩はユカちゃん夫妻と会った。
ユカちゃんは昔一緒に仕事をして、それ以来付き合いが続いている。
二人は最近オークランド郊外でカフェを初めて、自分達でも驚く具合に全てがトントン拍子に進んだ。
地元の評判も良く、コロナで大変なご時勢でも順調にやっていると言う。
彼女が昔働いていたという日本食の店に連れて行ってもらい、お酒を飲みながら話をした。
たしかに彼らは良い『氣』を持っていた。
なるほどな、こんな気を持っているのなら、その話はうなづける。
周り、これは人間社会も霊的な世界も含め、それがその人達に、これをやりなさいと道を指し示すことがある。
そういう時は全てが上手くいく。
そしてそれをやっている時の人の顔は輝いている。
それが『氣』というものなのだと思う。
こういう人と会っていると氣をもらえるし、こちらからも送るので互いに高まる。
エネルギーを奪い合うのでなく、互いに分け与える。
そういう時の場は和やかで刺々しいところがない。
会えない人もいるならば 簡単に会える人もいる それもまたご縁。
オークランドの夜はそうやって更けていった。



クリスマスの日にオークランドから北島の真ん中辺りにあるナショナルパークへ移動。
クリスマス休暇の移動ラッシュとずれるので道は空いていて快適なドライブである。
ナショナルパークではユースホステルに3連泊。
クリスマスの日というわけで、僕がローストポークを作りクリスマスディナー。
そしてちょっとしたクリスマスパーティー。
ナショナルパークでは当初はトンガリロクロッシングという1日ハイキングを予定していたがキャンセル。
代わりに近くファカパパスキー場のゴンドラに乗ってそこからちょっとした散策。
この辺りの山は全て火山であり、場所によっては白い煙をあげている。
普段見ることのない火山帯の散策は非常に興味深いものがあった。
トンガリロ国立公園。日本から来る山歩きツアーで、北島ハイキングなら必ず寄る場所。
南島ならばアオラキマウントクックのような場所だ。
風光明媚で今回のツアーの目玉なのだが子供達はそんなの興味無く、できることなら宿で1日ゲームをしていたいという人もいた。
まあ本来クリスマスに本国に帰るはずがそれができなくて、周りが勧めるから仕方なくこのツアーに参加しているのだ。
かわいそうと言えばかわいそうだが、感動というものの強要はできない。
ニュージーランドの自然を見たくてツアーに参加する、そういう人と一緒に歩き感動を共有していた去年は幸せだったなあ、とそれができない今になってあらためて思うのだ。





そんな矢先にやってしまった。
坂道を歩いていた時に膝を変にひねってしまったのか、何かしら違和感があった。
最初は痛みも腫れもなかったので、普通に歩いていたらだんだん腫れてきて、膝が曲がらなくなった。
痛みはないのだが膝が曲がらないので、歩くのもびっこをひいて歩くので難儀だ。
ツアーはその後はウェリントンへ移動して一泊。
そしてクライストチャーチへ帰るだけという行程なので、なんとか無事こなした。
ツアーが終わったのが12月30日の深夜。
激動でカオスの2020年の暮れはそんな具合だった。
そのおかげで2021年は人生初の寝正月になった。
普段ならば、超忙しい時でとても怪我だ病気だなんて言ってられない時期である。
いままでとは違う世界に住んでいるのだな、とも思った。
その後、膝の怪我はたいしたことがないことが分かり、順調にリハビリを続けていた。
1月はのんびりリハビリしながら庭仕事かなあ、などと思っていたら電話が鳴った。

続く・・・・・・のか?この話?
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