あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

醗酵生活

2021-06-14 | 日記
醗酵という難しい漢字を使ったが発酵の話である。
発酵は菌の力で色々な物が変わる化学変化であり、日常にあふれている。
パン、チーズ、納豆、漬物、味噌、と言った食品から、ビール、ワイン、日本酒などのお酒なども全て発酵。
僕らが豊かな食生活をおくれるのは菌のおかげなのだ。
そして物が腐ったりカビたりするのも発酵。
人間にとって都合が良い物も悪い物も自然界に存在する。
それを知ることにより人類は質の向上を目指し、菌の育成に励み生活を営む。
と書くと何か小難しい話に聞こえるが、なんてことはない美味い物を食いたいがために、あれやこれややるということだ。
菌の力で発酵する、と一口に言っても菌の種類は千差万別。
空気を必要とする菌もあれば、空気が要らないという嫌気性の菌もある。
また光を好む菌もあれば、ドラキュラのように暗いのが好きな菌、どっちでもいーよという菌もある。
そして発酵の温度も寒いのから熱いのまで、これまたいろいろある。
まあ基本的に人間の生活上にあるものだから極端な物、例えば「あたしは摂氏100度以下の環境では生きていけません」などという菌は宇宙のどこかにあるかもしれないが身の回りにはないはずだ。
そういえば以前聞いた面白い話では、納豆菌宇宙人説。
納豆菌は発酵の時には空気が必要だが、胞子の状態ではプラスマイナス100度の温度でも真空状態でも1000年以上は死なない。
「1000年って誰が見たんだよ」とか「菌って状態ですでに宇宙人という人じゃあないだろ」とかそういう声は無視無視。
そんな納豆菌のご先祖様が何億年も前に隕石にくっついて地球にやってきて、そのおかげで僕らが納豆を食ってるなんて考えたら楽しい話じゃないか。
これでもまだ「そんな話は非科学的でけしからん」などという夢もロマンも想像力も知性のカケラも無いやつはこのブログ読むな!
話がそれた。
それぐらいに菌にはいろいろあるんだ、ということだ。
菌の性格を知り、菌が快適に過ごせるような環境を作ってやることで菌が増え、美味しい物ができる。



最近始めた発酵食品は糠漬け。
日本の製品だが糠はニュージーランドでも売っていて、それで始めてみた。
昆布だの唐辛子だのを入れて毎日かきまわす。
たいして難しいものではないが、糠床のポイントは毎日かき回さなくてはならない。
これだけのことだが、うっかり忘れるとダメになってしまう。
なので我が家では常に目に触れる所に置いておく。
始めて数ヶ月、味が馴染んで美味い漬物ができるようになった。
これの良い所は畑で取れた小さい大根や人参も使える。
小さく曲がりくねった人参や大根は料理に使うには面倒だが、そういった物も無駄にすることなく使える。
子供の頃に家で母親が作っていて、その時にはあまり好きではなかったが、年を取ると好みも変わっていくのだろう。
親にこれを食べさせてあげられないのが残念だ。

もう一つ、我が家の定番となったのがザワークラウト。
キャベツの千切りを塩もみして瓶で発酵させる。
使う物はキャベツと塩だけだが、これが美味い。
ポイントはできるだけ空気に触れないことで、これまた簡単にできる。
キャベツの葉っぱにはもともと乳酸菌が付いていて、この乳酸菌がお腹に良い。
たっぷり食べると翌日スッキリとウンコが出る。
ウンコは最大のデトックス、排毒作用なのだ。
ウンコがスッキリ出ると気持ちが良い。
これは人間に限ったことではなく、犬のココが散歩で大きなウンコをした後は「あー、スッキリした」という顔をする。
犬にも表情はあるのだ。
快食快便の話ではなくザワークラウトの話だ。
作り置きができるものだから、今年はキャベツを植える時期をずらしながらも大量に育てた。
野菜というものは一斉にできるものだから、いつもはキャベツなぞ収穫の時期を逃して花が咲いてしまう。
家庭菜園での野菜作りはただ作れば良いというものではなく、収穫、消費、保存、そういった一連の仕事なのだ。
ザワークラウトで乳酸菌が発酵した酸っぱさは、お酢の酸味とは一味違う。
ソーセージと一緒にパンに挟んで食うのが一般的だが、これが意外と和食にも合う。
締め鯵の上にたっぷり乗せて、熱々のご飯と共に食うのがいける。
もちろん洋食にも中華にもインドカレーにも合う。
材料がキャベツと塩だけだから何にでも合う。
月桂樹とか唐辛子とかスパイスとかいろいろ入れるレシピもあるが、そうすると和食に合わなくなるだろうな。
庭で赤キャベツを育てて、それで作ったら紅ショウガみたいなザワークラウトができた。



漬物のように、普段その辺にある菌を使うものもあるが、特定の菌を利用するものもある。
パンやピザ生地、それにビール作りにはイースト菌が欠かせない。
ビールを作り始めて何年か経つが、毎年冬になる頃には発酵温度の低いラガーを仕込む。
エールのイースト16度から22度ぐらいの間で発酵するが、お気に入りのボヘミアンイーストは8度から14度と低い。
低音でゆっくりと醸造するにはこれからの季節だ。
日本酒を冬に造るのと同じ原理だ。
ビールも本来ならずーっと同じ温度で発酵させるのが理想だろう。
確かに金をかければそういう道具も売っている。
でも趣味の世界でそこまでしなくても、自分で満足がいくビールができるのでほどほどのところでやっている。
こういった発酵食品と末長く付き合うコツは、適度ないい加減さだと思う。
あまり四角四面にやると疲れてしまう。
かと言ってズボラ過ぎるのもうまくいかない。
時には繊細に時には大胆に、何事もほどほどに菌と付き合うのが良かろう。
これは人間関係も同じだな。
バランス、中庸というものが大切なのだろう。



我が家で発酵しているのは食品に限ったものではない。
EMというものを発酵させて、ニワトリのエサとかトイレ掃除の洗剤とか野菜の肥料などを作っている。
ボカシという言葉を聞いたことがあるかもしれないが、発明者は琉球大学の教授だ。
色々な菌を使い、人間にも動物にも環境にも良いものを作って使おうというものだ。
ボカシを作り始めてから我が家では生ゴミが一切出なくなった。
台所の生ゴミのうち、ニワトリが食べられるものはニワトリのエサになるし、それ以外は堆肥となる。
コンポストの場所を整備したのもあるが、庭の落ち葉や雑草や芝生を刈ったものも含め、全て庭の片隅で堆肥にする。
クライストチャーチでは、生ゴミも含め土に帰る物は全て緑のフタの容器に入れて週1回、回収してくれる。
これを全く出さないということは微力ながらも社会の役にも立っていると言えよう。
ボカシを使うと分解の速度は速く、その量も多い。
微生物も多く、ミミズなどがウジャウジャいる。
自分の庭で分解そして生産から消費まで、一連のサイクルになっているのが嬉しい。
こうやって僕らは菌の力を借りて、菌と共に生きている。
今も部屋の片隅ではビールの樽から、コポコポと心地よい音が聞こえる。
菌は僕らが寝ている間も遊んでいる間も働いてくれる。
嗚呼、菌たちよ、ありがたや、ありがたや。





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秋深し

2021-06-04 | 日記
秋の日はつるべ落とし、という言葉がある。
秋の日が落ちるのは、つるべが落ちるように早い、という意味だ。
だが今の世代で一体どのくらいの人が、つるべなんてものを知っているだろう。
大阪のメガネをかけた落語家の話ではないぞよ。
昔、井戸にかかっていた水をくむ道具のことをつるべと言う。
僕も知識として知っているが実物を見たことがない。
日本では春から初夏へという時期だが、南半球では秋深し。
遠い祖国の死語となりつつある言葉を、ニュージーランドの空に浮かべてみた。
ああ風流だね.
まあそんな具合で秋である。
朝の日の出がめっぽう遅くなり、夕暮れ時はあっという間に暗くなる。
そういえば秋の夜長、なんて言葉もある。
日中の太陽の光はどことなく弱く、雲が厚ければ肌寒い。
晴れた日の空の青さも夏のそれとは明らかに違う。
季節は一歩づつ冬に向かっている。
どことなく物悲しいようなこの季節だが、僕は嫌いではない。
ともすれば夏と冬のつなぎのようであり、足早に過ぎ去ってしまう。
他の季節のように絶対的な季節感ではなく、おぼろげではかない。
そんな秋が好きだ。

我が家の庭にも秋が来た。
収穫の秋である。
桃と洋梨はすでに収穫を終えているが、りんごは真っ赤に熟れ、鳥が来て喜んでつつく。
フィジョアの実が熟れてそろそろ落ちるころで、地面に落ちたフィジョアの旨さは絶品だ。
イチジクは実を付け、熟れきって落ちたものをニワトリが喜んで食べる。
そうそう、ニワトリと言えば、ニワトリを買い足すのもこの時期だ。
しばらく前にニワトリエリアの門が壊れ、そこから逃げ出したヤツが犬のココに襲われて死んだ。
まだまだ卵を産む若い鳥だったが、仕方がない。
卵を産まなくなった古い鳥も絞めて埋めた。
以前は羽根をむしってさばいて食べていたが、苦労のわりに身が少なく、なおかつ噛み切れないぐらいに硬い。
なので最近は絞めたら埋めて土に還す。
古いのを絞めたら、若いのを3羽買ってきて、まず羽根を切る。
これをやらないと飛んでフェンスを越えてココの餌食となってしまう。
そして毎日暗くなってから止まり木に移してあげる。
慣れれば自分から止まり木に止まって寝るのだが、それまでは地面にしゃがんで寝てしまう。
餌も食べやすいように細かく切ってあげたり、子供は何かと世話がやけるのだ。
だいたい生後3ヶ月ぐらいのを買って、それが卵を産むのは2ヶ月ぐらい先だ。
卵を産み始めたら毎日1個産み、2年ぐらいは産み続け、パタリと産まなくなる。
産まなくなったら絞めて、また若いのを買い足してというのが、我が家のサイクルである。
健康的に育った鶏の卵は感動的に美味く、どこへあげても喜ばれる。
物でもなんでも奪い合えば足りなくなり、分け合えば余るのだ。

秋といえば収穫の秋。
コンニャク芋、長芋、キク芋の収穫も秋。
夏の間にお日さんの光をたっぷり浴びて、地中で育った芋が日の目を浴びる。
長芋は文字通り長く育つが簡単に折れる。
育てるより収穫が大変だ。
今年は鉄の波板を地中に斜めに埋め、それに沿って芋を育てた。
結果は見事に成功。
立派なのが何本もできた。
山芋はすりおろしてトロロ汁も良し、細く刻んで海苔をまぶし醤油で食うも良し、焼いても揚げても良し。
そしてまた、あのネバネバは健康にも良い、と良いことづくめである。
コンニャク芋も相変わらず絶好調で大ぶりなものがいくつも取れたし、小さいものはこれでもかというぐらいにできた。
コンニャク芋は簡単に増えていくので、庭の空いた場所がどんどんコンニャク畑になっていく。
独特の葉っぱの形をしていて栽培が簡単だからだろうか、最近では園芸屋で観葉植物のように売っているのを見た。
自家製コンニャクがこれまた美味い。
いつも思うのだが、この美味さは文では表現できない。
コンニャク自体には味も栄養も無いのだが、排毒作用がありこれまた体に良い。
コンニャクを食わなくても生きていけるが、美味い物を食うという意味において生活を豊かにする。
たかがコンニャクされどコンニャク。
コンニャクを笑う者はコンニャクに泣く。
泣かねーよ、誰も。

なんかしっとりと秋の話を書こうと思ったのだが、やっぱりグダグダと食い物の話になってしまった。
それに毎年同じような話を書いているな。
やはり食欲の秋なのだろうかね。



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笑って仕事ができる喜び

2021-05-26 | 日記


さてさて久しぶりのブログ更新。
最近どうしていたかと言うと、ラベンダー畑の毎日である。
何時に行って何時に帰るかは自由なので、朝の10時ぐらいから午後3時ぐらいまで。
朝の冷え込みが厳しい時は11時スタートにしたり、雲が出て冷えてきたら早上がり。
雨の日は問答無用で休みだし、晴れてポカポカ陽気ならば日が傾くまで、と常にお天道様と気分次第で決める。
これがいつ何時までに仕上げなければいけない、となればプレッシャーもかかって大変だ。
だがそういうわけでもなし、基本的に晴れた日に犬のココを連れて、のんびりとやる仕事なのだ。
ココも広い所を走り回り嬉しそうだ。
作業自体はタンポポなどの雑草取り。
楽しい仕事ではないが、イヤホンで落語とか講談を聞きながらやると、あっという間に時間が過ぎる。
広い所で一人でやっているので、一人でクスクス笑っていても不審がられない。
なによりも笑いながらやると気分が晴れる。
笑うという行為は病気を治すと言われている。
病院で入院患者に落語を聞かせたら症状が良くなったという実験もある。
落語家や漫才師、お笑い芸人、コメディアンをもっともっと増やせば病気は減る(のかな)。
親類にお笑い芸人を目指している甥がいるが、これなぞは人類を救う崇高なる仕事をする為に頑張っているとも言える。
えらいものだ。
まあ逆を言えば「医者はいらねえよ」と言ってるようなものだから、医者側の立場から言えばそんなことは認めたくないものだろう。
そしてまた、笑うということは不謹慎で不真面目でけしからん、という教育委員会のような人もいる。
そういう人とはあまり付き合いたくないなあ。
最近出会った人は不幸を絵に描いたような人だが、その人はどんよりとした顔をしていた。
身の回りの出来事がそうさせるのか、顔つきが不幸を呼ぶのか知らないが、因果関係はあると思う。
笑いはガハガハ笑わなくてもクスクス笑いでも良い。
世の中悪いニュースだらけだが、ニコニコしていることが明るい光になる。
仏教の教えで和顔施というものがある。
人に施す物を持っていない人は、笑顔を与えなさい。
要するに、常に笑顔でいるということが、自分の為にも相手の為にもなるということだ。



作業の時に落語を聞きながらやるが、家での家事仕事でも同じだ。
お気に入りの講談師のラジオを聞きながらやることが多い。
子供の頃から家にテレビが無かったので自然にラジオを聴くことが多かった。
音声だけの入力というのは聞いて、それを頭の中で組み立てて想像するという作業がある。
そういった作業を無意識にやっているのだ。
これに対して映像というのはそうではなく、受け身であり想像力は鍛えられない。
そして映像は中毒になりうる。
ある家庭では旦那が家にいる間、同じ場所でずーっとテレビを見続けているものだから、そこの場所だけソファに人間型のくぼみができたそうだ。
そういう人は中身が無く、ただ外からの情報だけで生きてるから会話がつまらない。
話をしても、知人友人のうわさ話ばかりでうんざりする。
日本の老人宅でも多くの人は常にテレビをつけていることだろう。
「テレビで言ってた」ことを信じる人も多いのだと思う。
若い世代はテレビを見なくなったという統計があるが、テレビを見なくなった分ユーチューブを見ている。
だから昔は成りたい職業がスポーツ選手だの芸能人だのテレビで活躍していた人だったが、今ではなりたい職業がユーチューバーだと言う。
そういう僕もちょっとヒマがあるとプロ野球の珍プレーとか人がずっこける面白ビデオなど、毒にも薬にもならない映像を見てしまう。
映像を見始めると他の作業ができなくなる。
器用な人はテレビを見ながら家事もできるが、僕にはできない。
それより映像を見るなら何かをしながらでなく、大きな画面でじっくりと見たい。
我が家では晩飯を食べ終わって寝るまでの1〜2時間ぐらいテレビで日本のドラマを見ることが多い。
今やネットでそういうものも見られるのだ。
今更だが半沢直樹のドラマを初めて見た。
これなぞは勧善懲悪、悪役はとことん憎らしく演じられて、そいつがギャフンとされるのが楽しいのだ。
現代版の水戸黄門みたいなものだ。
そういう気に入った連続ドラマは1日1話だけ見る。
人によっては連続ドラマを一気に全部見るような人もいるが、そうなるとただストーリーを追うだけになってしまう。
何にでも言えるが、全てのものは使い方によっては毒にも薬にもなるということだろう。



今日も落語を聴きながらラベンダー畑で農作業。
ニュージーランドで野良仕事をしながら頭の中は江戸時代という妙な取り合わせが楽しい。
花はすでに摘み終わっているがラベンダーの香りはする。
ラベンダーには交感神経と副交感神経のバランスを整えリラックスする効果があるそうな。
それだからか、畑に来て仕事をしていると妙に気分が良い。
犬のココちゃんも妙に嬉しそうなのはそのせいか。
そういえばこちらの大工などはよく仕事場に犬を連れてくる。
犬は御主人様が仕事をする間、繋がれるわけでなくその辺りを自由にウロウロしている。
それを見て、仕事に犬を連れて行けるなんて素敵だなあ、なんて思っていたのだが気がつけば自分がそれをやっていた。
こうなればいいなあ、と思うことは実現するのである。
まさかツアーの仕事に犬は連れて行けないからね。

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史上最大の茶番劇

2021-04-25 | 日記
久しぶりに自分のブログを見て、そのまま最近の過去を振り返ってみた。
日記というか忘備録というか、忘れていたことが次々と思い出される。
考えてみれば、世界中がロックダウンになり、異常と呼べる社会になって1年が経つ。
それまでは夏はクィーンズタウンで忙しく働きながら面白おかしくやり、秋になれば仕事がなくなりクライストチャーチへ戻って庭のことなどをした。
冬が来れば当たり前のように雪山へ仕事で行きスキーをして、春になれば庭の種まきなどをして夏が来る前にクィーンズタウンへ行く。
そんな生活サイクルで十数年もやってきた。
それが今回の騒ぎで完全に崩壊して、早1年。
この1年の間にも色々な出来事があった。
ロックダウン、そして実質状の鎖国。
個人的な話では、仕事が無くなりその代わりに今までとは違う仕事もしたし、新しい経験もあった。
ケガや病気、親しい友達との別れもあったが、新しい出会いや全黒のイベントやライブなどの楽しい事もあった。
とにかくたくさんの出来事があり、1年というものがあっという間に過ぎ去った。
感覚的にはずいぶんと時が経ったように感じられるが、まだたった1年なのだ。

ここからは僕の個人的な意見なので、不快に思う人は読み進んでいただけなくて結構。
いや、それよりも多くの人の反感を買うことだろう。
そういう人はこんなブログなんぞ読んでいる暇があるなら、街のゴミ拾いでもしていなさい。
その方がよっぽど世のため人のためになる。
まずこの騒ぎの最初から言っていたこと(ブログでは言ってないけど)だが、「みんな馬鹿騒ぎをやめて普通の生活をしようよ」
人が移動すれば病気が蔓延するから行動を自粛しなさい。
そんなことを言う人を茶化して「あんたの心が感染源」などという曲も作った。
僕は今回の騒ぎは茶番劇だと思っている。
世界中を巻き込んだ壮大なる茶番劇だ。
実体の無い伝染病とでも言おうか。
確かに何らかの病気はある。
だが世の中は常に、病気はつきものだ。
生老病死。
生きて老いて病んで死ぬ。
人が生きる上で避けて通れないものだ。
地球上で一瞬たりとも風邪をひいている人がゼロになったことがあるか?
1年経ってそろそろこの病気がどういうものか分かってくる頃だろう。
働き盛りの人や子供がバタバタ死んでいくような病気なのか?
今までのインフルエンザだって、それで死ぬ人はいたよな。
ただの風邪だって死ぬ人は死ぬ。
それで人が死ぬのはしょうがないだろう。
死ねば誰もが仏様になるのだから、神様になってバカな人間の営みを見守ってもらえばいいじゃないか。
そして実体のない伝染病の感染経路は、マスコミやネットなどの情報だ。
人間の死や病に対する考えや怖れという感情を巧みに利用しているのだ。
最初の頃はそれらしい宣伝を見て、「ああ、そういうものか」と一瞬思うようなものもあった。
今落ち着いてそれを考えると、何を隠して、何を広めたいのか、はっきりと分かる。
死なないために病気にならないために人間はいろいろなことをする。
それはある意味正しい。
ただ極度に死や病気を怖れるあまりに、違う方向に進んでいるのが今の社会だ。
思えば10年前にクライストチャーチの地震、そして日本の震災が起こった時に、ふと湧き出た想い。
そのうちにこれよりもはるかに大きく、世界規模で人々の生活を変えるような出来事が起こるぞ。
その時は漠然とした予感だったが、今となってはこのことだったんだなと思う。

そしてこの1年で人類に起こった最大の悲劇は分断である。
家族や親戚、友人知人、そういった人達と直接会えないように仕向けられた。
僕も簡単には日本に帰れない。
このままだと親父の死に目にも会えないだろうし葬式にも出られない。
「俺の葬式に帰って来るな」というのが遺言(まだ死んでないけど)だから、まあそれでもいいのだろう。
今のご時世、我が家のように国境を越えた家族はたくさんいる。
今まで自由に行き来できたものができなくなり、家族は分断された。
確かにズームなどで顔を見ながら話はできる。
便利になったと言えば便利なのだろうが、何か違うような気がする。
直接会うことで伝わるモノは確実に存在する。
それは言葉を変えれば『氣』というものではなかろうか。
つい先日、女房と娘が旅行に行った時にテレビ電話(あえてこの言葉を使う)で話をしたが、やはりどうも好きになれない。
それなら普通の電話の方が好きだ。
人と人とのコミュニケーションというのも時代と共に変わりつつある。
今では同じテーブルに座っていながら話をせずに、携帯を使って文字で会話をするなんて冗談のような話もあるようだ。
僕はとりわけライブというものを重要視するので、できるだけ人と直接会うようにこころがけている。
人を家に招くのも好きだし、出かけて人に会うのも良し。
人との関係は、会える時にはすんなり会えるものだが、会えない時にはどう時間を工面しても会えない。
そういったもの全てが縁というものだと思う。
そう考えると今の、家族でも簡単に会えない世界は、それ自体がそういう縁なのかもしれない。
時代遅れという歌があるが、今の自分がそうなってしまったのだろうか。
それならそれでまあいいや、と開き直っている自分がいる。

分断と言えば直接会って話をしても通じない人もいる。
ある知人とワクチンの話になった。
「世界中でワクチン射って死んでる人がいるだろう」と言っても
「それはきっと別の理由があったはずでワクチンは関係ない」とマスコミの発表だけを信じていた。
宗教と同じで何を信じるかはその人の自由なので、それ以上は会話も深まらない。
この件に関しては、この人と僕の関係もここまでなんだなと思った。
第一、今も続いているPCR検査。
この産みの親のキャリーマリス博士が「この検査方法は感染者をあぶり出すための物ではない」と生前言っていたそうだ。
その人が死んでからすぐにこのバカ騒ぎだ。
死人に口無し、陰謀の匂いがプンプン匂うぜ。
作った人が「そうやって使ってはいけない」という検査が今の世の中のベースになっている。
ワクチンに関しては、僕は自分から進んでは射たない。
だこれからの将来で充分考えられることだが、ワクチンパスポート。
ワクチンを打たなければ飛行機に乗れない、ということになったら仕方なく射つだろう。
だが強制ではなく、射つかどうかは自分で決める、という状態であるならば自分から進んではやらない。
それぐらいのものだ。
そしてまた「ワクチンを射ちます」という人に「止めなさい」と言う気もない。
「たかだか注射を射つぐらいでニュージーランドに行けて聖のおっさんのビールが飲めるなら、俺は喜んで10本でも20本でも射つぜ」
そういう人がいるのも知っている。
それはそれでありなんだと思う。
要は自分で決めてやればいい話ということだ。
これはあくまで大人の話であり、年端もいかない子供は親の判断に従うしかない。
そうなると親がどういう考えを持っているか、ということになる。
そしてそれを決めるには、世の中のどういう情報に耳を傾けるかという話に繋がっていく。

この壮大なる茶番劇から早1年。
前代未聞の大いなる分断で世界中がめちゃくちゃになった。
そして誰もこの茶番劇の終わらせ方を知らない。
政府、マスコミ、権力者は相変わらず本当の事を言わない。
PCR検査の産みの親、キャリーマリス博士の言葉をマスコミは絶対に流さない。
ロックダウンという政策はたいして意味がない、それどころか悪影響だということを政府は絶対に認めない。
その代償があまりに大きすぎるからだ。
はてさてこの先一体どうなることやら。
僕にもわからない。
ただ一つ言えることは、分からないから面白い、ということぐらいのものだ。
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蔵開き

2021-03-16 | 酒人


2月の終わりの週末にトウィゼルでサーモン&ワインというイベントがあった。
全黒も出店するというので僕もクライストチャーチからトワイゼルに向かった。
全黒はアルパインサーモンという会社とコラボで店を出した。
酒とサーモンで、サケ&サケというわけだ。
そのサーモン屋さんがシソを欲しいというので、庭のシソをどっさりと持って行った。
温室の中のシソは育ちに育ち、ある程度引っこ抜かないと他の野菜を植えられないぐらいになっていた。
僕のシソはたいそう喜ばれ、余った物はクィーンズタウンへ行き、友達の食卓に並んだ。



このご時世でイベントや祭り事が世界中で中止になっている。
イベントは人間の心をもみほぐすのに必要なものだし、祭り事は神様に捧げる行事だ。
そういったことができない世の中というのは異常であり、憂うことだ。
人間というのは飯食って寝て働いてというのを繰り返してればいいのではない。
何かしら普段とちょっと違う催しは生きるうえでて必要なのだ。
トワイゼルのイベントもみんな待ち望んでいたのだろう、入場のゲートには長蛇の列ができた。
マウントクックからはタイ家族が来て旧交を温めた。
愛娘のアイリがうちのキュウリの大ファンなので、そのためにキュウリもどっさりと持ってきたのだ。
前半はそれほど忙しくなく僕もウロウロと他の店を覗いていたが、中盤になるとお釣りのコインが足りないとか、料理を乗せる紙が足りないという問題もでてくる。
そうなると両替に走ったり、紙を折って皿に並べたり、しまいには盛り付けの手伝いまでと何かと忙しい1日だった。



一度クライストチャーチに戻り仕切り直し、今度はクィーンズタウンのイベントに向かう。
世界で日本酒を広める人を応援する、みたいな企画がありその一環で全黒が主催でイベントを行う。
その名も『蔵開き』地元のソムリエ、ラグビーの選手などを招待して、日本酒をもっと知ってもらう。
お酒の紹介や利き酒、日本酒のカクテルあり、バーベキューあり、子供達のクリケットあり、ライブミュージックあり、それらをビデオに撮って日本に送る。
招待客やスタッフで60名ぐらいと全黒としてはビッグイベントだ。
僕もその為に数日間のクィーンズタウン滞在となり、蔵頭のアキさん宅に世話になった。
催しは日曜日だが準備は金曜日から始まる。
蔵の中の片付けや掃除、バーベキュー台を借りてきたり、まあ雑用である。
久しぶりにアキさんやユーマとバカ話をしながら働くのは楽しいものだ。





お昼には当日お客様にお出しするお酒のチェック。
日本からも何種類かお酒が送られてきていて、その味見。
いやあ、こういう仕事は最高だな。
ゆず酒、梅酒、スパークリング酒、そして純米吟醸。
僕らはこれらを飲んで唸った。
美味いのは当たり前だが、美味いだけではない。
精度が高いという言葉が当てはまるのであろう。
絶妙のバランスの上に成り立っている。
繊細さ、それこそピンポイントのバランス感覚だ。
造り手側の立場にいるが、これらの酒を造った人はすごいなと素直に思った。



イベント当日は何かと忙しい。
蔵開きは1時からで、準備は朝9時から始まった。
まずは会場の設営から。
テントを立ててバーベキューの場所を造って、テーブルなどの設置。
会場ができたら各自の仕事に分かれる。
僕はバーベキュー担当なので料理の下準備にかかる。
この日の献立がすごかった。
前菜にチーズ盛り合わせ、野菜スティック、トマト、ぶどう。
バーベキューはホワイトベイト(白魚)のフリッター、鹿肉ソーセージ、鳥の手羽焼き、牛ヒレわさび風味、ムール貝の酒粕味噌汁、酒粕ラムチョップ、ナスとマッシュルームの炒めもの、豚のバラ肉焼き、エビのニンニク焼き。
これらを僕とクレイグの二人で焼いた。
その横で先週のイベントでも一緒だったサーモン屋のスコットが鮭の刺身のポン酢あえを出す。
そして昔からの友達ヘナレがワカティプ湖で獲って、奴の小僧が作ったウナギの燻製。
最終兵器はブラフオイスター(生ガキ)まで、これでもかというご馳走だ。
ともあれ総勢60名分の量である。
下ごしらえだって時間がかかるが、そこで手を抜いてはいけない、見えない所をしっかりとやるのが本当の仕事だ。
肉を切り、余計な水分や油を拭き取って下味をつける。
野菜もあらかじめ切っておく。
ホワイトベイト用に卵の卵黄と卵白に分け、卵白を泡立てる。
そんなことをやりながら下準備が終わった頃、ボチボチと招待客が来始めて、蔵開きが始まった。





料理が始まると、そこからは忙しい。
とにかく焼くものが多いのだ。
次から次へとぶっ通しで2時間半、水だけ飲んで焼きまくった。
スピーチやら鏡開きやらやっているのを横目で見ながら、ひたすら焼く。
最後の料理エビのガーリック焼きを出し終えて、一段落。
調理場をざっと片付けて、やっと本日初めの一杯を口にした。
その頃になると場も適度に乱れ、招待客と話しをする余裕もでてきた。
サーモン屋のスコットは日本で寿司修行をした本格派。
以前はウェリントンで寿司屋をやっていたと言う。
ちゃんと味が分かる男で、今のニュージーランドでの日本食のあり方で話が合った。
実際に彼が商品として作っているポン酢は旨く、以前買った日本製のポン酢よりも美味かった。
そのスコットが先週のシソのお礼にと、サーモンを一匹くれた。
それもでっかいもので、ゆうに3キロ以上はあるようなものだ。
庭では何を育てているか、ゴボウはやっているか?ミョウガはどうだ?コンニャクは?なんて話しにもなるぐらい日本食通だ。
彼ともこれから親密な付き合いになりそうだ。





場が乱れきる前に、もう一つ仕事がある。
ギター生演奏生歌、ライブミュージックの時間だ。
先ずはハーモニカ付きでボブデュランのナッキングヘブンズドア。
二曲目は誰もが知ってるマオリのポカレカレアナ。
僕が歌っているすぐ脇には、樽があり全黒の無濾過生原酒が入っている。
曲と曲の間のMCの時に「このシステムはいいよねー」などと言いつつ、樽から手酌でコップに酒を注ぐと笑いが起こった。
ちなみにみんなが持っているグラスは試飲用のワイングラスに足がないようなお洒落なグラスだが、僕はコーヒー用のマグカップだ。
料理の時にそれで水を飲みながらやっていて、そのまま中身が酒になった。
取っ手がついているので落とさないという理由だが、誰も信じてくれない。
その酒をグビリと飲んだら、全黒のテーマソング。
この歌は酔っ払って適当に作ったんだが、ここまで歌うことになるとは思わなかったなあ。
そして締めはマオリの神の歌、アウエで終わった。





招待客もあらかた帰ると残ったのは身内で、そのまま打ち上げになった。
まだまだ美味い酒も肴も残っている。
まあいつもの顔ぶれでいつもの飲み会となったのだが、それが妙に心地良い。
蔵開きのイベントは大盛況で、良い仕事をした後の充実感が酒を進ませる。
僕はバーベキューと歌で、やり尽くした感満載。
解放感と久しぶりにみんなと会えた嬉しさも手伝い、ギターを持ち出して即興で何曲かやったらしい。
というのも僕の記憶は後半でプッツリ途絶えている。
そりゃ熱唱してハーモニカを吹いたら、その時点で酔いは回る。
そしてまた美味い酒が飲み放題なんだから酔わないほうがおかしい。
どうやって帰ったかも分からないが、気がついてみるとアキさん宅の居間で二人で水を飲みながら反省会をしていた。
さすがに二人とも、もうこれ以上飲めないというぐらいに飲んだので、ひたすら仕込み水をガブガブと飲んだ。
その水のおかげか翌日は二日酔いにならずにすんだ。
二日酔いにはならなかったが記憶が完全に戻るわけではない。
怖いのはヤバイ曲をやることだ。
僕の作る歌はとても外ではやれない、その人には聞かせられないというものが多い。
宴会芸の域なので洒落ですむぐらいだが、それでもネタになる人には聞かせられない。
酒だけでなく歌も辛口だ。
ある人をちゃかした歌を作り、その人に愛想良く挨拶されて「ああ、この人は俺があんな歌を歌ってるなんて知らないんだなあ」と一瞬だけ反省したこともあった。
アキさん曰く、その日の歌はギリギリセーフだったらしい。
もう一つ気がかりだったのは、最後の片付けの辺りの記憶が完全に飛んでいる。
みんなが片付けしている時に、一人で一升瓶抱えて寝てたらダメじゃん。
アキさんが言うには「なんかパタパタ動いて片付けしてたよ」ということでちょっと安心。
へべれけになっていても、やる時はやるんだ。やるじゃん俺。



宴の次の日はゆっくりスタート。
本来ならもう1日片付けのために滞在を、というところだが用事があってクライストチャーチへ戻る。
別れ際に杜氏のデイビッドがしみじみと言った。
「やっぱみんなが集まって一緒に飲んで食って笑顔になるっていいよね」
全くその通りだ。
そもそも人は美味い物食って旨い酒飲んで、怒れない。
どうしても笑顔になる。
その笑顔がこの腐りきった社会を救う。
クリストチャーチへのお土産はスコットがくれたサーモン。
シソがサーモンに化けて、わらしべ長者みたいだとみんなにはやされた。
わらしべ長者は交換し続けて長者になったが、僕は貰ったサーモンを仲間や友達と一緒に食っちまった。
長者にはなれないが、仲間と一緒に旨い物を食べて笑顔になる。
これこそがライブであり、その瞬間ごとの喜びが財産なのだと思う。
たとえ覚えていなくても‥。

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あれから10年

2021-02-26 | 日記
正直言って、忘れていた。
あれから10年経ったということをだ。
地震があったことを忘れるわけがない、ただ10年経って昨日がその日だったということを忘れていた。
地震の事を忘れるわけがない。
だってその日にクライストチャーチに居合わせたのだから。
地震の前日の朝、クライストチャーチの空港へお客さんを送って一つのツアーを終わらせた。
まだまだ忙しい時で、本来なら翌日にクィーンズタウンに戻らなければならないぐらいだが、無理を言って翌々日に変えてもらった。
当日のお昼ごろ、のん気に庭仕事をしていたら大地が揺れた。
最初は大きめの余震の一つかな、などと思った。
と言うのもクライストチャーチではその前年の9月に大きな地震があり、それ以来何百回もの余震が続いていたのである。
自分が外で動いていた、というのもあるがそれほど大きいとは感じなかった。
だが水道が止まり電気が止まり、事の大きさに気がついた。
まずは家族の安否だ。
運良く女房の携帯に繋がり、無事が確認できた。
そして近所の小学校へ娘を迎えに行った。
夕方には女房も帰ってきて、当時居合わせた女房の両親と全員で食事をした。
翌日以降も仕事がある女房をクライストチャーチに残し、義父母と娘を載せ僕はクィーンズタウンへ車を走らせた。
地震当日の記憶としてはそんなものだ。
ひどい現場にいなかったからか、パニックにもならず、落ち着いて行動できたと思う。
その後、ツアーの仕事はキャンセルになり、観光業とはなんとはかない職業だと実感した。



あれから10年かあ。
その日の事柄は今でも記憶の引き出しに入っていて、鮮明に思い出す事ができる。
けれど常にそれを考えているわけでもない。
式典に出るわけでもないので言われるまで忘れていたぐらいだ。
はっきり言えば10年前の記憶より、今日のご飯をどうしようかという方が大事なのである。
式典でもニュースでも亡くなった方への追悼を述べる。
死者をぼうとくする気はないし、死んだ人のことはかわいそうだと思う。
だが死ねば誰もが仏様。
死んだ人はすでに痛みも悲しみも無い世界にいて、僕らを見守ってくれている。
もしくはすでに次の輪廻でこの世に生まれてきていることだろう。
それならそれで、今の混沌とした世の中で生きていくのは大変だ。
死んだ人よりも、残された人の方が大変なのだ。
特に自分の子供に先立たれた親の心境はいたたまれない。



地震の後、1年後に遺族がNZを訪れそのドライバーをした。
地震の前に娘さんがNZに着いて、翌日にホストファミリーが車で案内をした。
近くのビーチだの、高台の展望スポットだの、まあ普通に市民が行くような場所だ。
その翌々日に地震があり、若い娘さんは亡くなった。
そのコースと全く同じ所を回り、1年前に立ち寄ったデイリーでみんなでアイスクリームを食べた。
仕事とは言え、やりきれない気持ちが残った。
その後で普通のガイドの仕事をしたのだが、楽しむ為にこの国を訪れる人を案内する仕事っていいなあ、とつくづく思った。
クライストチャーチの地震が落ち着き始めた頃に、今度は日本で地震があった。
これで日本からのツアーは一切無くなり、ガイドの仕事は無くなった。
それでも冬のスキーバスの仕事はあったし、翌年には別の会社でガイドをすることになった。



それからも色々なことがあったが、10年という年月が長いのか短いのか分からない。
新しく出来た友達は地震の後に来たから、地震以前のクライストチャーチを知らない。
10年経ってやっと町の中心部も復興してきた。
同時に街中でも、10年経っても全く手をつけていない場所もある。
日本だったら2、3年で出来るぐらいのところだが、ここでは10年。
復興の仕方もこの国はのんびりだ。
これもまた流れている時間の違いなんだろうなぁ。

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美味い酒、不味い酒

2021-02-21 | 酒人


ブログを始めて10年以上になるが、文を書き始めて完成しないままにタイミングを逃してしまうことがある。
そうやってお蔵入りした話も多々ある。
この話は去年9月に蔵で働いた時の話だ。
タイミングが合わずに載せなかったが、ボツにするのは惜しいので加筆修正してこの話も日の目を当たることになった。





全黒は小さい酒蔵であるが故に、全員で多様な仕事をこなす。
これが大きな工場のような酒蔵ならば、流れ作業のような具合になるのかもしれない。
効率を考えたらそっちの方がいいのだろう。
だが小さい酒蔵ならではの楽しみや喜びもある。
仕込みの時には米や麹や水の分量を計る作業から始まり、米を洗う洗米、水に浸す浸漬などが下準備。
その翌日には米を蒸して、蒸しあがった米を冷ましてタンクに水と共に入れる。
同時に杜氏か蔵頭が麹や酵母の量を測り調合する。
そうやってできたもろみを4週間の間、毎日かき混ぜて温度管理をする。



役4週間後に布の袋に入れて数日吊るして吟醸酒を絞る。
絞った後のものを上手く並べて、上から重石を乗せてさらに絞る。
絞ったものは数日置いて、上澄みを取る澱引きという作業があり、次は火入れという作業がある。
それをフィルターにかけ、数ヶ月寝かせ、配合して瓶詰め、それを再び火入れをして、ラベルを貼り商品となる。
ざっとまあこんな具合であり、すべてが作業の連続だ。
小さい酒蔵なので、酒造りの最初から最後まで全て関われるのが良い点である。
発酵途中のもろみの状態から、絞り、澱引き、フィルター、火入れという要所要所で味見もする。
そうやって仕事をしていれば、どの時点での酒が一番旨いかということも分かる。
逆に言えば、どういう状態の酒が不味いかも分かるわけだ。





旨い酒と言えば、吟醸や大吟醸というものが一般的だ。
全黒も純米吟醸を作っていて、最近は純米大吟醸も作り始めた。
ここで吟醸と大吟醸の違いを書いておこう。
酒に使う米の旨みの成分は、米粒の中心に集まっている。
そこで米を精米して削っていき、外側にある雑味などを取って中心の旨さを残していく。
吟醸だと米粒の4割を削り、残りの6割の米で造る。
これが大吟醸だと5割削り、残り5割で造る。
米粒の大きさも大吟醸は小さくなるし、同じ量の酒を造るのにも大吟醸は米の量が多く必要となる。
そういう贅沢な酒なので、当然ながら値段も高くなる。
贅沢な酒だけあって、香りは良いし味も良い。
極めていくと精米を7割削り3割で造るといった大吟醸もあるようだが飲んだことはない。



全黒の大吟醸も順調に醸され、絞りの日となった。
毎日、もろみからサンプルを取り分析後の酒を味わってきたので旨いのは分かる。
けれどサンプルはサンプルであり実際に絞ったものとは味も違う。
実際にどんな味になるのか、ワクワクしながら僕もユーマもアキさんもニコニコ顏で仕事をこなす。
もろみというものはドロドロのゆるいお粥のような状態だが、それを11リットルづつ布袋に入れて棒で吊るす。
袋からは液体が染み出しポタポタと落ちて、船と呼ばれる大きな容器の下に溜まる。
釣り終えてわずか数時間で40リットルぐらいは溜まっただろうか。
さてお楽しみの利き酒の時間だ。
みんな仕事を一段落させ集まり、味を見て感想を言い合う。
この初日に絞ったものを『荒ばしり』と呼ぶ。
その名の通り、荒い味がするのだ。
荒いと言っても大吟醸。
風味もあり、飲み口良く、旨い。
今の時点では荒いが、時間が経って落ち着いたら旨い酒になることは想像できる。



その翌日の夕方、再び船から大吟醸を取る。
二日目に絞る酒を『中取り』と呼び、これが一番旨い。
昨日の味見で美味いのは分かっているが、1日置いてどんなに旨くなっているのか。
そんな期待を胸にワクワク、ニヤニヤしながら仕事をこなす。
楽しい時が来るのが分かっているので、妙にテキパキと仕事をこなす。
そして夕方、みんな集まり、味見をする。
香りが少し弱いが、吟醸香は確実に感じられる。
口の中に含むとすっきりとした味わいが広がり、喉を通ると同時にすべてが消える。
「何これ?このすっきり感!」
「これは危険だ。喉が渇いていたら一気飲みできちゃうな」
「この消えゆく感じ、桜の散り際のようだ。」
「これは侍だ。侍の潔さだよ」
みんなそれぞれに言葉は違うが、それぐらいにすっと消える旨さ。
ううむ、これが大吟醸なんだな。
そのスッキリ消える感じも含めて酒の旨さなのだ。
安い酒とか飲むとアルコール臭さがいつまでも口の中に残るが、さすが大吟醸そんな感覚は微塵も無い。
特に搾りたてなんてあーた、美味い所の先取りだ。
これを飲みたきゃ、蔵で働くしかない。
本当に美味い物は人に感動を与える。
この仕事をやっていて良かったと思える瞬間だ。



美味い物ばかりではない。
僕たちは勉強熱心なので、工程ごとに品質を自分の舌でチェックする。
もろみを袋に入れて吊るして絞り、さらにそれを平積みにして上から重石をして絞る。
その後で袋を積み上げて1週間ぐらい置くと、また数リットルの酒が出る。
これをカス酒と呼ぶ。
このカス酒は不味くてとても売り物なる代物ではない。
こういう酒は作業用に使う。
新品の瓶を酒に鳴らす作業を酒慣れと言い、それに使ったり、フィルターを通す前に流す『流し酒』などである。
勉強熱心なので、このカス酒さえも味を見る。
香りは飛び、味は甘すぎで苦味も感じられる。
同じ大吟醸でも、とどのつまりはカス酒になり、はっきり言って不味い。
だがこの不味い酒が料理に使うと化ける。



この酒を熱してアルコールを飛ばすと、みりんのように使える。
これはれっきとした和食の技術で、高輪プリンスの和食レストランの板前さんに昔教わった。
これを使った煮物は絶品で、得意技は豚肉の全黒煮である。
今ニュージーランドにある日本食はどれも甘すぎる。
砂糖べったりと醤油で味付けを濃くすれば売れるので仕方がないが、本来の和食とはかけ離れている。
逆に甘くしないと売れないのだろう。
砂糖の甘さは中毒になりやすく、自分でも気がつかないうちに味付けがどんどん濃くなっていく。
出汁をきかせ甘みを抑え素材の旨さを引き出す料理を、自分は目指している。
そうやって作った親子丼、卵は家の卵を使ったものは絶品である。
時々、全黒スタッフの賄いランチに出す。
みんなで美味い物を食べると自然に笑顔があふれる。
美味い物を食べる時に人間は不機嫌になれない。
親子丼に合わせ杜氏のデイブが気前よく新しい酒を品質チェックという名目で開けてくれたりする。



そうやって和気あいあいで仕事をして美味い酒ができる。
和醸良酒の話は以前書いたが、最後は心だろうな。
心が通っていればこそ、いい仕事ができる。
逆に言えば心が無ければ良い物は産まれない。
そんな心がこもった大吟醸、これは美味いぞ。
どれだけ美味いか、こればっかりは飲んでくれ、という他ない。
この話が遅れたのは、話を書いた時にはまだ大吟醸は製品になっていなかったからだ。
売り出したら話を載せようと思っていたらズルズルと時間が経って、年を超えてしまった。
まあ話も酒と同じで、ある程度熟成して味が出る、ということにしておこう。



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南へ 漁師との出会い

2021-02-11 | ガイドの現場
病気や怪我というのは嫌なものである。
だからこそ健康であることのありがたみを知る。
でも健康である時はそれが当たり前なのでわざわざそこに焦点を当てない。
当たり前のことに人は感謝をしないのだ。
本当はそこが大切なんだけどね。
膝の腫れが引くまで数日寝込むとさすがに気が滅入る。
それでも医者に行き「たいしたことはないからまずは自転車に乗って動け」と言われ、自転車で犬の散歩をやると気が晴れた。
単純だな。
腫れはどんどん引いていき、ゆっくりだが歩けるようになり庭仕事もできるようになると、もっと気も晴れ世の中が明るくなった。
ますます単純だな。
1月はのんびりリハビリしながら畑仕事かな、などと思っていたら電話が鳴った。

「急な話で、来週なんだけど仕事できますか?ティマルから始まって5日間、クィーンズタウン行ってミルフォードとか市内観光とかやってテカポ行って戻って来るルート」
「え〜、車の運転は大丈夫だけど、歩きはまだ完璧じゃないよ」
「大丈夫大丈夫、歩く仕事じゃないから、観光ドライバーガイドだから。そういうわけでお願いしまーす」
そんな具合にバタバタと仕事が決まった。
このご時世にガイドの仕事があるのはありがたいことである。
山歩きの仕事はまだ無理だが、まあドライバーガイドなら大丈夫だろう。
それに久しぶりにクィーンズタウンへ行けば、全黒の蔵にも顔を出せるし、バンド仲間とセッションできるかもしれない。
お客さんは日本人4人で船乗り、というところまで分かっているが、そこから先が分からない。
貨物船の乗組員なのか、漁船の漁師なのか。
ニュージーランド初めてなのか、それともずーっとこっちにいる人なのか。
食べ物はどういうのが好みなのか、ひょっとすると日本食に飢えているのか、などなど。
宿はキッチン付きなので、何でもリクエストに応えられるよう、炊飯器やら米やら、そば、うどん、調味料、カレーのルーなど、そんなものまでも一応車に積み込みティマルに向かった。

いつもの事ながら、お客さんと出会うまでは、どんな人が来るのか分からない。
お客さんと出会い、色々な話をするうちに向うのバックグラウンドが分かってくるのだ。
それにはこちらの身の上も伝える。
かと言って自分の話ばかりするのもいけない。
その辺のさじ加減が難しい。
ありきたりのつまらない人生論など聞きたくない、それよりも血湧き肉躍るような話を聞きたい、というのが人情だ。
僕は今まで色々な経験をしてきたので、お客さんはわりと僕の身の上話も喜んで聞いてくれる。
若い時の経験は財産、というのはこういうことだ。
お客さんは50代から60代ぐらいのおじさん3人と、33歳の若者K。
若いのが助手席に座るので、自然とKから色々な話を聞く事になる。
彼らは北海道の道東、釧路の辺りの人で、数年前に乗っていた舟がニュージーランドの会社に買われた。
舟が買われるということは乗組員も一緒に買われる、ということだ。
それまでも漁でニュージーランドには良く来ていたので、この国のこともよく知っている。
日本人の乗組員が6人にインドネシア人の船員が30人ほど。
今はティマルの港がベースとなり、そこから漁に出てホキなどの深海魚を取っている。
一回の船出でだいたい3週間から1ヶ月ぐらい、港に帰ってきて1週間ぐらいの休みがある。
だが彼らには家がない。
漁が休みの間も舟に住む。
街には自由に行けるのだが、基本寝泊りは舟の上で、同じ船員と顔を付き合わせる生活を続ける。
1年に一回、舟の修理で40日ぐらい漁に出ない時があり、その時に日本に帰るのだが、今は簡単には帰れない。
みんなのストレスも溜まるだろうからと、会社が今回のツアーを手配した。
僕が日本人船員の4名、もう一つは二十数名のインドネシア人のグループだ。

ティマルからオアマルを経てモエラキのビーチを散策している時に、日本の父親から電話が入った。
前回の北島ツアーの時もそうだったが、父は仕事の時を狙うように電話をかけてくる。
前回、北島ツアーでトンガリロで時間があったので、年賀状がわりに絵葉書を送ったのだ。
「おい、お前、字が上手くなったなあ。今までで一番上手だったぞ」
「そりゃ、ありがとう。今はツアーの最中でモエラキにいるぞ。丸い岩のある海岸。」
「おお、確かダニーデンの近くだったな」
「そうそう、よく覚えているな」
老人は遠い過去のことは覚えているが、その日のお昼ご飯を食べたかどうか思い出せないという。
ひとしきり親戚の誰それが死んだだのという話を聞いて、僕はいつもの言葉で電話を切った。
「じゃあ死ぬまで、元気でな。好きな物を食いまくってポックリ死んでくれ」
僕も本当は去年の5月に日本に帰る予定だったがそれもできず、今のままなら親の死に目にも会えない。
まあそれも仕方なかろう。

パーマストンから内陸に入り、クロムウェルの馴染みのフルーツショップへ立ち寄る。
今の時期はサクランボ、あんず、モモ、ネクタリンなどが旬である。
いつもならツアー客で混雑する店内も人はまばらだ。
多分今シーズン最初で最後のツアーだろうと、顔なじみのオバちゃんに挨拶をした。
明るい話題はなく、オバちゃんの愚痴を聞くだけ聞いて、店を出た。ふう。
クィーンズタウンではレイクビューのホリデーハウスに3連泊。
聞くとクィーンズタウンには以前1回来たことがあると。
「あの時は時化でブラフから動けなくなっちゃって、しょうがないからブラフからタクシーでクィーンズタウンまで来たんだよ。」
「へえ、そりゃタクシーの運ちゃんも喜んだでしょう」
「まあね、運ちゃんの分も街のホテル取ってやったからね。でもクィーンズタウンへ来る道も大雪で運転も大変そうだったけどな」
ブラフは南島の最南端の街でクィーンズタウンまで普通に走っても2時間半ぐらいかかるだろう。
金払いのいい客はどこでも喜ばれる。
これは世の常である。

二日目はミルフォードサウンド1日観光。
ミルフォードサウンドはニュージーランド観光の目玉と言っていい場所だ。
シーズン中は何回も来る場所だが、今年はこれが最初で最後だろう。
普段は大型バスが何十台も止まる駐車場もガラガラ。
最近ではそれでも駐車場が足りなくてバスを停める際のゴタゴタがあったのだが、それが嘘のようだ。
そしてお昼時のクルーズは1日で一番込み合う時間帯で、普段なら何百人もの人が舟に乗り込むのだが、この日のお客さんは20人程度。
自然を味わうという観点から見れば、今は最高の状況である。
だがツーリズムビジネスという方向から見れば、これではやっていけない。
夏休みでクィーンズタウンはそこそこの賑わいを見せているが、わざわざミルフォードサウンドまで足を延ばす人はそれほど多くない、ということだろう。
この先、夏休みが終わったらもっと人の行き来が少なくなるはずだ。
人が少なくなれば収入も少なくなる。
施設や道や国立公園の管理には当然金もかかる。
バスや舟や飛行機などの機材は使ってナンボのもので、使わなくても物は古くなっていくので何らかの金はかかる。
バス置き場で長いこと使われないバス、空港近くで野ざらしになっているレンタカー、ミルフォードサウンドで繋がれたままになっている観光船。
漠然と感じていたツーリズムビジネスの衰退が、ガラガラの施設を目の当たりにすると心に重くのしかかってくるのだ。

人が少ないのでいつもの大型船は出さずに、小さめの舟で湾内を回る。
この辺りは南緯45度ぐらいで赤道と南極の中間。
船乗りの間では『吠える45度』という言葉があって、45度を超えてそれ以上南へ行くと、海が吠えるように波が荒くなる。
というような説明をいつもお客さんにする。
船乗りでもない僕が偉そうに船乗りの話をするのだ。
「え?そうなの。そんなの知らなかったよ」と本職の船乗りのお客さんが笑った。
「うちらが行くのはだいたい48度ぐらいだからなあ」
ううむ、きっと想像を絶する世界なんだろうなあ。
低気圧の真っ只中ということもありタスマン海に出るとうねりが高くなり、船長がアナウンスで注意を促した。
舟に乗っている人もバランスを保とうとしている横で若いKが言った。
「ベタ凪ッス。」
いやあ、海の上ではかないませんがな。

翌日は市内観光。
ゴンドラに乗ってリュージュ、バンジージャンプ、アロータウン、ジェットボートツアー、ワイナリーなどなど。
もちろん全黒の酒蔵見学もありだ。
そういう所での金の使い方がすごい。
ワイナリーでは一番高い180ドルのワインをポンと買う。
街中でノースフェイスの店に立ち寄れば、パッと見たジャケットのサイズだけ確認して、袖も通さずに買う。
店員も「ご試着ですか?え?お買い上げ?あ、ありがとうございます」と驚く。
まあ普通は驚くわな。
「ええ?それで着てみて気に入らなかったらどうするの?」という素朴な疑問には
「そん時は誰かにあげちゃう」と実に気前が良い。
レストランでも値段をさほど気にせず、食べたい物を食べ飲みたい酒を飲む。
「シェフのおすすめコース人数分、あと生ガキを20個ほどもらおうかな」
なんて注文をして、コースの中で気に入った物があれば追加注文。
もちろん全黒の酒蔵見学の時も純米大吟醸をお買い上げ。
毎度あり〜、チーン。
Kは毎晩カジノへ行き、1日数千ドル単位で勝ったり負けたりしている。
まあ、普段の生活では金を使うことがないのだからそうなるのか、それとも性格だからか。
そこで「会社からのお金がこれだけで・・・」なんて話をするとしみったれた気分になるのだ。
金銭感覚がここまで違う人と出会うことは稀なので、それはそれで楽しいものもあった。
いろいろ美味しい物もおごってもらったしね。
ケチくさくないっていいねえ。

クィーンズタウンからワナカを経てマウントクック。
シーズン真っ盛りで普段は賑わうホテルだが、今は閑散とした雰囲気が漂う。
眺めを売りにしているホテルだが、地元の人が簡単に泊まれる値段ではない。
ここでも超多忙な時を知っているだけに寂しさが募るばかりだ。
だがその反面、人が少ない分自然を堪能するには良い。
どこもそうだが、あまりに人が多いと大自然を味わうという雰囲気ではなくなる。
大自然の中にいながら『観光地』になってしまう。
今なら簡単に歩ける観光トラックも良いだろうな。
そして振り出しに戻ってしまうが、大自然の中の観光施設は人がいないとさびれた雰囲気になる。
不思議なものだ。

その晩はテカポ宿泊。
テカポでは定番の湖畔レストランで晩御飯。
若いKはここでもコップ酒をぐいぐいあおる。
普段、海にいる時には全く飲まない。
それでなのか、だからなのか、この旅行中は毎晩かなりの量を飲んでいた。
クィーンズタウンでは毎晩カジノに行っていたがテカポにはカジノが無い。
村にひとつだけあったスロットマシンのある酒場も火事で焼けてしまい、ギャンブルは何もない。
健全な村だ。
若いKはかなり酔っ払っていて、ぼくもかなり酔っ払っていたので、付き合って遅くまで話をした。
友達のシノちゃんも働いていて、仕事が終わった後に話につきあってくれた。
酔っていたので何を話したかあまり覚えてないが、若者の悩み、葛藤、愚痴につきあった。
同じ人と毎日共同生活をして、1年以上も日本に帰らず、ストレスも溜まっていることだろうし別のものも溜まっているだろう。
たまには違う人と話をして、風を通すのもいい。

最終日はテカポからティマルへ帰るだけだ。
まっすぐ走れば1時間半の距離である。
途中の街で寄り道をし、ビール醸造所でお昼を食べて、早い時間にティマルへ戻った。
本来ならそこでお別れだが舟を見せてくれるというので、Kの案内で見学させてもらった。
船首にはレーダーやら計器類が並ぶブリッジ。
片隅には立派な神棚があり、いつも御神酒をお供えするそうだ。
全黒の大吟醸もお供えするのかなぁ。
食堂、調理場、洗濯場、風呂、トイレ、という居住区は限りあるスペースを使った機能的な造りだ。
だが40人もの男が生活をする場として考えると、正直狭い。
若いKの部屋を見せてもらったが、狭くて乱雑な船室の壁には女のヌードのカレンダーがかかっていた。
船乗りのイメージそのままで、思わず笑ってしまった。
Kの仕事場である機関部、取れた魚を捌いて凍らせる作業場、そして凍らせた魚を入れる船倉。
これらの設備はさながら工場である。
小さめの工場がそのまま船の中にある、という感想だ。
狭い通路で機関長と呼ばれていたお客さんとすれ違う。
彼はすでに仕事用の作業服に着替えて仕事に向かうところだった。
生活の場は仕事の場でもある。
ブリッジに戻りコーヒーをいれてもらった。
不思議なことに、船に戻ってくるとおじさん達やKの顔つきが海の男の顔になった。
いい顔だ。
「これからはホキのフライを食べる度に皆さんの事を思い出します。どうぞこれからもご安全に魚を獲ってください。僕がそれを美味しくいただきます。」
みんなと固い握手を交わし船を降りた。

クライストチャーチまで2時間のドライブの間、思いを馳せる。
一つの仕事をやり終えた充実感、自分の家に帰って家族に会える安堵感。
久しぶりに見たリゾート地での先が見えないツーリズムの暗さ。
たまに再開してセッションをした仲間の笑顔。
雑多な感情が渦を巻く中でのドライブは悪くない。
そして想いは再び、海の世界へ飛ぶ。
別れ際にわずかだが彼らの世界を覗かせてもらった。
すごい世界だった。
逃げ場のない海の上の狭い空間に何十人もの男が生活する。
時にはいざこざもあるだろう。
ケンカの末に海に投げ込まれてしまえば、はいそれまでよ、おさらばえ〜。
警察だってどうこうできるわけでなし、事故として処理されてしまう。
この船ではそういうことはないが、他所の船ではたまにあると言う。
そりゃストレスだって半端なものではないだろう。
ああいう人達が獲った魚を食べているのだ。
仕事とは言え、過酷な環境で生きている人が高給を取るのは当たり前だ。
これからは「魚が高い」とぼやくのをやめよう。
高くて当たり前だ。
自分に欠けていたのは感謝の心だ。
頭で考える感謝と心で感じる感謝は違うものだ。
それに気がついた事が今回の収穫だ。

住む世界が違う、という言葉があるがまさにそれだった。
人生観、価値観、生活の場、金銭感覚、全てが違う。
彼らと繋がっている物があるとすれば、心の奥底にある「自然の中では人間は無力だ」という虚無感のようなものだろうか。
そこにあるのは死生観であり、故に刹那的になるのではなかろうか。
人間の営みさえも自然の一部として考えるのならば、今の狂った世の中も自然界の出来事の一つだ。
自然の中では、じたばたしてもどうしようもない、というような開き直りの極意。
そして船に戻った時、海の男の顔になった時、自分に出来る事やるべき事をたんたんとやる態度。
僕は僕なりに想うことがあった。
コロナの渦はさまざまなところで影響を与え、その波紋は今も広がっている。
今まで知らなかっただけで、今回のように見ず知らずの人も影響を受けている。
自分だってガイドの仕事がこの先いつあるのか分からない。
そうならないことを祈るが、ひょっとするとこれが最後かもしれない。
でも何かしら自分にできること、自分がやるべきことをやっていこう。
彼らとは二度と会わないかもしれないが、彼らとの出会いは深く胸に刻まれた。
一期一会。
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北島ツアー

2021-02-02 | ガイドの現場


気がつけば2月に入ってしまった。
ブログを書くタイミングというものがあり、良い内容の話があるがタイミングが合わなくてお蔵入りしたものも多数ある。
書くのが遅いというのもあるが、物事が風化する前にちゃんと残しておくことも大切かな、などと思うのだ。
混乱、困惑、混沌の2020年の締めくくりは北島ツアーだった。
12月の後半に13日間という長いツアーで、お客さんは海外からの留学生。
ニュージーランドに留学をしているが、夏休みだが家に帰れずにいる子ども達で、出身は日本、台湾、韓国、中国、香港、トンガ。
ちなみに全員男子高校生で、ある意味あいにおいて楽である。
僕はサブのドライバーガイド、メインのガイドは学生の旅行に長けたベテランガイドのダーモットが付いた。
そして学校からは引率の教師が一人。
おじさんガイド、男子高校生14人というなんとなくむさ苦しい御一行様だ。



初日の朝、クライストチャーチを出発し北上、カイコウラで昼食後、ピクトンへ。
ピクトンで早めの夕食後フェリーに乗りこんだ。
旅というのは非日常である。
車に乗ったまま船に乗り込むというのでワクワク感が高まる。
このフェリーが遅れた。
予定では夜の10時半にウェリントンに着くはずが、2時間遅れの12時半。
それからホテルチェックインやらなんだかんだで眠りに付いたのは2時近くだった。



翌日、旅の興奮からか早めに起きてしまったので街を散歩した。
首都ウェリントンはあまり良く知らない。
いやウェリントンどころか北島を良く知らない。
ニュージーランドに来て数十年になるが、南島からほとんど出ることなく過ごしてきた。
ウェリントンには10年ぐらい前に友達の結婚式で来たぐらいだ。
♪知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい そんな歌を思い出しながら、ウェリントンの街を歩く。
娘の深雪は今は大学1年生でウェリントンのビクトリア大学へ通う。
子どもが親から離れ自分の人生を進んでいく真っ只中である。
親離れする時というのは、親も子離れする時だ。
子どもから離れ、改めて自分の人生について考える時なのだ。
ここが娘の住む街かあ、などと妙に感慨深く街を眺めた。



その日は移動日、ウェリントンからヘイスティングスへ向かう。
地図でしか見たことのない地名の街を通過する。
穏やかな山並みがあり、牧場に牛や羊がいる光景は南島に似てはいるが、やはりどことなく違う。
メインのガイドのダーモットがいろいろと説明をしていくれるのが有難い。
夕方にはヘイスティングスに着き、そこではキャンプとバーベキューだ。
今回のツアーは朝飯と夕飯も僕らが作る。
当然食材の買い出しなどもあるので、かなり忙しい。
夕飯が終わり、ほっと一息ついたところで、昔の知人がヘイスティングスに住んでいたことを思い出した。
初めてワーホリでニュージーランドに来た時にクィーンズタウンのお土産物屋で一緒に働き、英語の下手糞な僕をなにかと面倒を見てくれた。
最後に会ったのは20年ぐらい前のことだろうか。
それからは音信も途絶えてしまった。
こちらから連絡を取れば思い出すだろうが、そうでなければ僕のことなど忘れているだろう。
それはこっちだってお互い様だ。
この先、ましてやヘイスティングスに来ることはもう無いだろう。
あの人にも今生で会うことはもう無いかもしれない。
会うも縁なら会わぬも縁の 宿命(さだめ)なり。
そうやって自分を慰めて生きていこう。



ネイピア、タウポを経てロトルアで2泊。
連泊の合間に市内観光が入る。
南島で長年ガイドをやっている者の視線で北島の観光地を眺めるのもなかなか良い。
連泊ともなればそれなりに時間に余裕ができる。
街を一人でブラブラと歩いていると、街角で歌っているマオリのカップルがいた。
曲の合間に彼らに尋ねた。
「俺の知り合いでロトルア出身のナイロとダニエルって兄弟がいるんだが、知っている?昔クィーンズタウンに何年か居て、彼らにマオリの歌を教わったんだ」
雲をつかむような話だが、ナイロは音楽の方ではそこそこ有名だと言っていたのを思い出した。
「ええ、よく知ってるわよ」
「ええ?本当?今もロトルアにいる?」
「しばらく前にタウランガに行っちゃったわ。」
「そうかあ、彼らは今も元気でやってるのかねえ?」
「うん、とっても元気よ」
「ありがとう」
マオリの歌の師匠にも会えずか。
でも元気でやっているなら、それでいいだろう。



ロトルアを出てしばらく走り、映画ロードオブザリングスで有名なホビット村へ立ち寄る。
あの映画が好きな人には聖地のような場所だ。
以前出会ったお客さんも「これから北島へ行ってホビット村に行くんですう。もう楽しみで楽しみで」と言う人も何人かいた。
そこは現場のガイドがついて一緒に歩き色々と説明をしてくれる。
なるほど色々と興味深いが、同行した子供達のほとんどは映画を見たこともなければ興味も無い。
ガイドの話をつまらなそうに聞いていて、1時間で飽きてしまったようだ。
ぼくだって自分でドライブをしていたら高いお金を払ってまで来ないだろうが、仕事でこういう場所も来れるのは役得というものだ。
その後コロマンデル半島のフィティアンガへ行き、再びキャンプそしてバーベキュー。
そして大都会オークランドへ。



オークランドに着いたのは12月23日の午後だった。
オークランドでは街の中心のユースホステルに2泊、買い物には便利だが交通事情は悪い、普段なら。
世間はクリスマス休暇に入っていて、街の中心部はガラガラだ。
オークランドでは市内観光と自由行動。
僕もブラブラと街を歩く時間ができた。
僕が初めてニュージーランドに来たのは1987年の5月。
高校を出たばかりで日本から飛び出し、この街で3ヶ月英語学校に通った。
ショートランドストリートというドラマのタイトルの道にその英語学校はあった。
その場所に行ってみたが今では建物も変わって当時の面影は全く残っていない。
若い時に通った坂をぼんやり見つめ、当時の事を色々と思い出した。
初めて親元から離れ、初めての海外、初めてのホームステイ、初めてできた外国人の友達。
思い出はセピア色で、甘くもあり苦くもあり塩辛くもあった。
ただ間違いなく自分の青春の1ページがあった。
その時にホームステイをした家の親父さんが亡くなった話を聞いたのが20年ぐらい前か。
その後は連絡も取れなくなり、奥さんも今では生きていないだろう。
恩を返せなかったな。
学校の先生だった人は今でもオークランドに住んでいるが、今回はなんとなく連絡をしなかった。
仕事で来ているので時間がない、と言い切ってしまえばその通りなのだが、今回はそのタイミングではなかった。
人との縁が、なんとなく疎遠になる時はある。
それはそれで仕方のないものだろう。
誰もがそれぞれの生活があり、人間というものは常に動いているものなのだ。
30年前の自分と10年前の自分と今の自分は違うし、互いの環境だって違う。
それでも、いや、だからこそ、生で会うことができるというのは、何かしら運命のようなものを感じるのだ。



オークランドの初日は外食で、宿のすぐ近くの中華にいくことになった。
このツアー初の外食だ。
相方のダーモットに子供達の面倒を頼んで、その晩はユカちゃん夫妻と会った。
ユカちゃんは昔一緒に仕事をして、それ以来付き合いが続いている。
二人は最近オークランド郊外でカフェを初めて、自分達でも驚く具合に全てがトントン拍子に進んだ。
地元の評判も良く、コロナで大変なご時勢でも順調にやっていると言う。
彼女が昔働いていたという日本食の店に連れて行ってもらい、お酒を飲みながら話をした。
たしかに彼らは良い『氣』を持っていた。
なるほどな、こんな気を持っているのなら、その話はうなづける。
周り、これは人間社会も霊的な世界も含め、それがその人達に、これをやりなさいと道を指し示すことがある。
そういう時は全てが上手くいく。
そしてそれをやっている時の人の顔は輝いている。
それが『氣』というものなのだと思う。
こういう人と会っていると氣をもらえるし、こちらからも送るので互いに高まる。
エネルギーを奪い合うのでなく、互いに分け与える。
そういう時の場は和やかで刺々しいところがない。
会えない人もいるならば 簡単に会える人もいる それもまたご縁。
オークランドの夜はそうやって更けていった。



クリスマスの日にオークランドから北島の真ん中辺りにあるナショナルパークへ移動。
クリスマス休暇の移動ラッシュとずれるので道は空いていて快適なドライブである。
ナショナルパークではユースホステルに3連泊。
クリスマスの日というわけで、僕がローストポークを作りクリスマスディナー。
そしてちょっとしたクリスマスパーティー。
ナショナルパークでは当初はトンガリロクロッシングという1日ハイキングを予定していたがキャンセル。
代わりに近くファカパパスキー場のゴンドラに乗ってそこからちょっとした散策。
この辺りの山は全て火山であり、場所によっては白い煙をあげている。
普段見ることのない火山帯の散策は非常に興味深いものがあった。
トンガリロ国立公園。日本から来る山歩きツアーで、北島ハイキングなら必ず寄る場所。
南島ならばアオラキマウントクックのような場所だ。
風光明媚で今回のツアーの目玉なのだが子供達はそんなの興味無く、できることなら宿で1日ゲームをしていたいという人もいた。
まあ本来クリスマスに本国に帰るはずがそれができなくて、周りが勧めるから仕方なくこのツアーに参加しているのだ。
かわいそうと言えばかわいそうだが、感動というものの強要はできない。
ニュージーランドの自然を見たくてツアーに参加する、そういう人と一緒に歩き感動を共有していた去年は幸せだったなあ、とそれができない今になってあらためて思うのだ。





そんな矢先にやってしまった。
坂道を歩いていた時に膝を変にひねってしまったのか、何かしら違和感があった。
最初は痛みも腫れもなかったので、普通に歩いていたらだんだん腫れてきて、膝が曲がらなくなった。
痛みはないのだが膝が曲がらないので、歩くのもびっこをひいて歩くので難儀だ。
ツアーはその後はウェリントンへ移動して一泊。
そしてクライストチャーチへ帰るだけという行程なので、なんとか無事こなした。
ツアーが終わったのが12月30日の深夜。
激動でカオスの2020年の暮れはそんな具合だった。
そのおかげで2021年は人生初の寝正月になった。
普段ならば、超忙しい時でとても怪我だ病気だなんて言ってられない時期である。
いままでとは違う世界に住んでいるのだな、とも思った。
その後、膝の怪我はたいしたことがないことが分かり、順調にリハビリを続けていた。
1月はのんびりリハビリしながら庭仕事かなあ、などと思っていたら電話が鳴った。

続く・・・・・・のか?この話?
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大雪に思ふ。

2021-01-18 | 日記
越後から大雪の知らせが届く。
越後と言うと越後湯沢を連想する人も多いが、僕が言っているのは今の上越市の辺りである。
1990年代半ば、僕はその辺りで時を過ごした。
当時は20代後半、怖いもの失うものなど無くイケイケでやっていた頃だ。
雪の深さは定評のあるスキー場で、朝普通に出勤して夕方帰ろうと駐車場へ行くと車が雪で埋まっていてどれが自分の車か分からない。
雪かきをして車へたどり着いて端から掘ってみたら、違う車だったというのも2度や3度ではない。
しまいには雪が降る日は竹竿などを車の脇に立てて目印にした。
そんな場所だが地元の人は「昔の雪はこんなもんじゃあなかった」と言った。
確かに市街地では大雪の時に二階から出入りできるような造りになっているが、僕が住んでいた時にはそこまでの雪は降らなかった。
それでもそこに住んでいれば、雪かきという仕事からは逃れられない。
朝仕事へ行く前に雪かきをして、スキー場ではパトロールの仕事で雪かきをして、夕方駐車場で雪かきをする。
そんな日もあった。
おかげで雪かきがずいぶん上手になったものだった。

僕の出身は駿河の国、清水である。
ちなみに今では合併で清水は静岡市の一部となってしまった。
これは清水に限ったことではないが、日本中どこでも合併合併で昔の地名が失われ、代わりに由緒もロマンもセンスのかけらもない地名ができている。
時代の流れと言えばそれまでだが、地名には土地ごとの歴史があり、それが廃れていくのは憂べきことだ。
話が逸れたが、清水は上越とは本州を挟んだ太平洋側にあり、気候も温暖で雪なぞ降ったことがない。
九州で雪が降っても清水には雪は降らない。
風花(かざはな)と呼ばれる、晴れた日に微小な雪がチラチラと舞う現象が数年に一度起こるぐらいか。
清水では雪は降るのでなく舞う物なのだ。
そんな所に住んでいれば雪かきなどという仕事は一生することなく、それはテレビの向こうの出来事だ。
雪国の生活は大変だと頭では想像できても、経験しないしする必要もないから所詮は他人事なのだ。
頭で考えて理解するのと、実際に身をその場に置き経験して感じるのではえらい違いだ。
人間というのはかなりの頻度で、頭での理解で全てを分かったような気になる。
それに初めて意識的に気がついたのは20代の半ばだった。

僕はスキーパトロールの仕事で、福島県のアルツ磐梯というスキー場に居た。
新潟ほどではないがそれなりに雪の多い場所で、里も雪に覆われる。
あれは忘れもしない春の1日、仕事が休みで買い物に行く為、会津若松の市内へ行く道の交差点で信号待ちをしている時だった。
道の周りでは雪が溶け、雪の合間から草木が顔を覗かせて春の日を浴びていた。
なんの変哲もない、どこにでもある雪国の風景だ。
当時はスキー場近くの寮に住んでいて、里に降りるのも久しぶりだった。
信号待ちをしながら、ああ、里では雪もだいぶ溶けてきているんだなあ、と思ったその矢先。
周りの草木が穏やかな春の日差しを浴びて喜んでいる様子が心に飛び込んできた。
同時に草木だけでなく、人間を含めすべての動物、植物、虫などの微生物、そして大地までもが春の到来を喜んでいるのを心で感じた。
これはどう表現して良いのか分からないが、ある意味トランス状態、心が開いて森羅万象と一つになったというか。
覚せい剤などやっていないが文字通り『覚醒』してしまったのである。
「これが雪国の人が待つ春の訪れか」僕は思わず口に出してその言葉を言った。
それまでも長野のスキー場で何シーズンも雪山で過ごして、似たような景色は見ているはずである。
でも心の奥からそれを感じたのは、会津の田舎道が初めてのことだ。
これはその時の自分の年齢、境遇、人生と深く関わりあっている。
そしてその感覚をどんなに上手く表現しても人には伝わらない。
その後何年も雪深い上越で過ごしたが、その時と全く同じ感覚は得られなかった。
それでもそれを知る以前とは季節の移り変わりをより深く感じるようにはなった。
それを成長と呼ぶのかもしれない。

春よ来い 早く来い
歩き始めたみいちゃんが 
赤い鼻緒のじょじょ履いて
おんもへ出たいと待っている。

よく知られた童謡である。
昔は今よりもっと雪が深く、それこそ冬の間は外に出られなかった。
そのことを感じ取ったのは、新潟の能生という場所のスキー場で働いた時だった。
豪雪地帯の山間部にある旧家が雪に埋もれている姿を見て、この歌が心に飛び込んできた。
雪に閉ざされ春を待ち焦がれる心。
この感覚は雪の無い場所に住んでいる人には絶対に分からない。
頭では理解できても、心の奥底から感じることはできない。
歌の奥に秘められた想いとはそういうものだと思う。

話を元に戻すが、今回は日本海側を中心に大雪が降ったそうで、スキー場も除雪が間に合わなくてクローズした所もあった。
文字通り雪に閉ざされたわけで、「昔は毎年こうだったんだろうな」というメールを友達にした。
「地元の人が『海沿いでこんな大雪見たことない』ってマスコミが喜びそうなことを言っていたよ」と返信があった。
「いや俺が言う昔って上杉謙信の頃の話だけど・・・。」
戦国時代は全ての武将が京都へ登る機会を狙っていた。
名将と言われた上杉謙信も宿敵武田信玄に牽制されながらも上京をしようと試みたが、いかにせん北陸の雪である。
除雪機などない時代、今よりさらに雪は多く、大きな軍隊が通る道を確保するだけで疲弊してしまうことは想像出来る。
雪に閉ざされ上京することなく無念の最期を迎えた。
当時最強の上杉軍も雪には勝てなかったわけだ。

除雪をしたことがないという人の為に書こう。
除雪の何が大変かと言えば、雪の捨て場が無いのだ。
特に住宅が密集しているような市街地ではそれが表れる。
なので水の流れで雪を流す流雪溝なんてものもある。
新しい住宅地ではそういったものも無く、雪捨て場の為に隣近所とトラブルになるなんて話も聞く。
そしてまた新潟の雪は重いのだ。
スキーで滑って重い雪は、運ぶのも重い。
水分をたっぷり含んだ雪は重く、ちゃちなプラスチック製の道具だとすぐに壊れてしまう。
頑丈な道具は重く、それで重い雪を運ぶ。
これはかなりの重労働である。
雪が降って喜ぶのはスキーヤーだけで、住む人にとって雪なんぞ無い方がよっぽど良い。
今は除雪機という便利なものだってあるが、これだって買うのにお金がかかる。
それに屋根の上の雪下ろしに機械は使えない。
人力でせっせとやるしかないのだ。
こうやって考えると、雪国で生きる為に除雪に費やすエネルギーは計り知れないものがあるなあ。
それだけの苦労困難があるから、春を待ち焦がれる心、春を迎える喜びも大きいのだと思う。
「あの野郎、ニュージーランドでぬくぬくしながら、俺の除雪の話をブログのネタにしやがって」
というような友の声が聞こえてきそうだ。
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