あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

必要な物

2011-02-27 | 日記
地震があって数日が経った。
今回の地震でもいろいろな面が見えてきた。
ポジティブな点もあればネガティブな点もある。
たくさんの人が言ってくれる。
「必要な物があったら言って下さい」
「自分にできることがあったら言って下さい」
ありがたいことだ。その気持ちがとてもうれしい。
ではお言葉に甘えて言わせてもらおう。
お金が必要だ。お金を送ってくれ。
と言ってもボク個人宛てではない。
幸いなことにボクの家は被害も無く、家族もニワトリも無事だ。しばらくは食っていく貯金もある。
だがこうしているうちも24時間で復旧作業は続いている。
今まで住んでいた家に住めなくて、避難所で生活をしている人達もいる。
物資が不足しているわけではない。食べ物は足りているし毛布だってある。
こういった物資を機能的に廻すためにお金が必要なのだ。

お金はエネルギーである。
遠い所に住んでいる人が、何かをしたいと思ったときにお金を使えば合理的に機能的に、そのエネルギーを必要な場所へ送ることができる。
今の時代、オンラインというものでより簡単により効率よくエネルギーを伝えることができる。
ある友達はこう書き込んだ。
「必要ならいつでも参上します」
ありがたいことだ。だが今の時点で君が来ることは必要ではない。
人が来るとなれば航空券だってタダではないし、滞在費、食費などを考えれば何十万円というお金が必要である。
それよりその1%のお金を寄付してくれれば効率よくこちらで廻すことができる。
いつでも駆けつけるという、君の気持ちはボクが全力で受け止めた。ありがとう。
もし今後、必要な時が来るならば、その時には遠慮なく頼むだろう。
だが今はその気持ちをお金に換えて寄付をしてもらえないだろうか?
ぼくはこれを読んでいるみんなにお願いする。

昨日まで、あるツアーの仕事をした。
ぼくはその時にこういう話をした。
ニュージーランドの自然というものは、人間が持ち込んだ植物や動物のせいで大きく変化をした。飛べない鳥達は絶滅の危機に瀕しているし、強い雑草に覆われ土地として使い物にならなくなった山もある。
この国の人達は過去にそういうことがあったことを認め、今自分達ができることをやっている。
その表れがきびしい検疫であり、国立公園内のイタチなどの駆除、雑草の駆除なのだ。
今回の地震でも同じこと。
前回の地震の影響がどうのこうのと言っても何も始らない。
今、必要なのは生存者を助けることであり、そこに住む人に水や電気やガスを供給することだ。
常に今というものを見つめ、そこで自分に何ができるのか考えて行動するのがこの国のやり方だ。
まあこんな話をしたのだが、その日の夕方頃にはツアーのお客さんから財布が傷まない程度の寄付を募ってクライストチャーチに寄付をするなんて話も生まれてきた。
ありがたいことである。

さて、じゃあどれぐらいのお金を寄付すればいいのだろうか?
それは多いほうがいいに決まっているが、多すぎて自分が不幸せになってしまってはもともこもない。
1億円もっている人と100万円もっている人では当然ながら寄付の金額も変わってこよう。
多く払ったから偉いということは全くない。あたりまえだ。
寄付金が少ないからといって恥じることもない。
要は行動を起こすその気持ち。
それが大切なのだ。
みんなの気持ちはお金というエネルギーと共にクライストチャーチへ届く。
その光は崩れた街を照らし、亡くなった人の魂を撫で、傷ついた人を癒すだろう。




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部分的な情報

2011-02-24 | 日記
大地震の翌日、クィーンズタウンへ戻ってきた。
当たり前に電気があり、当たり前に水がでるというありがたさを感じた。
しばらくはトモ子さんの家に娘ともども世話になる。
娘と一緒に地元の小学校の校長に会う。一目でピンと来た。この人は信頼できる人だ。
「クライストチャーチからこういう生徒が来るだろうということは予想していました」
社会が合理的に動いているこの国では、編入のシステムも簡単だ。
校長の態度からも、自分が自分達が今できることをやる、というものが感じられた。
クライストチャーチでは復旧にどれだけ時間がかかるのか全くめどがついていない。
それまで一週間でも、必要であればもっと長くでも、そういう生徒を受け容れてくれる。
校長と話していて、うれしくて涙がにじんできた。
深雪は金曜日からクィーンズタウンの小学校に行くことになった。

友達のサダオからも連絡が来た。
電話をすると大喜びでワインを持って遊びにきた。
サダオはトレッキングガイドをやっていて地震の時、山小屋に入ってきた情報は『クライストチャーチで大地震があり建物が崩れ何人も死んだ』というものだったらしい。
ヤツはボクの家族のことを心配しながら山を歩き仕事を終え街に戻ってきた。
「聖さんの家は大丈夫だと思ったけど、徳子さんが一番心配でした」
確かにそうだろう。女房は地震の被害が一番大きい場所で仕事をしている。
ボクだって携帯で連絡が取れるまでは心配をした。
サダオが言った。
「部分的な情報は不安感が増しますね」
「そうだな。それが人間の本質なんだろうな」
情報が全く無ければ不安は生まれない。
知り合いが無事という確かな情報があれば不安は消える。

ボクやボクの家族の安否を気遣ってくれた人達も不安だったことだろう。
言い訳ではないが、地震当日、夜になって電気が復旧した時に『無事だ』という簡単な記事を新規投稿したが翌朝見たら何故か消えていた。
その間にも大丈夫か?というメールは続々届く。
朝、もう一度試したがダメ。
クィーンズタウンに来て、やっとアップできた次第だ。
みんな、情報を流せなくてスマン。
心配してくれてありがとう。
まだまだ混乱は続くだろうが、自分がやるべきことをやるのみ。
前に向って進め。
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無事

2011-02-23 | 日記
クライストチャーチで地震があった。
ボクはたまたま仕事でクライストチャーチに来ていて地震にあった。
市内中心部は被害が大きかったけど、北村家は被害もなく平穏そのもの。
皆元気です。

励ましや安否を気遣う電話、メール、テキスト多数。
皆、心配してくれているんだなあ。
ありがたやありがたや。
市内は前回の地震より被害が大きいので深雪と女房の両親を連れてクィーンズタウンに今日移動した。
この先はどうなるか分からないけど、今自分にできることをやるのみ。
心配して連絡をくれた皆様。
ありがとう。本当にありがとう。
今後しばらくの間はこちらにメールをください。
hijiri_1968@mail.goo.ne.jp

それはそうと、フォークス日記がまた延びてしまったなあ・・・・・・。
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フォークス日記 1

2011-02-15 | 
それはタイのブログから始った。

http://blog.livedoor.jp/coasterlife/archives/51910076.html

今年の夏、氷河に出来た大きなクレバス。長さ150m、深さ30m、ブルーミストと名づけられたものである。
記事を読み写真を見て思った。
「うおおおおお!こんな所を歩きてええええ!」
こうなればいいな、と思ったことは実現する。
風の強い日にクィーンズタウンで車を走らせていて、ミニスカートのお姉ちゃんの横を通るとき、突風が吹きスカートがめくれ上がり赤と白のストライプのパンティーがばっちり見えてしまった。
こうなればいいな、と思ったことは実現するのだ。
忙しい1月が終わり2月になると急にポッカリ時間ができた。チャンス到来である。
こういうチャンスは逃してはダメだ。思いついた時は行動する時である。
ぼくは車にどっさりと荷物を積み込み西へ向った。
まずはクィーンズタウンから峠を越えてワナカへ。天気は良好。
ワナカへ着く手前ではマウント・アスパイアリングが見えた。
NHKの撮影の仕事で、あそこの麓をうろうろしていたのは去年の今頃のことだ。
その年一番の猛暑の中、フラフラになって食材を運び、山小屋でカレーを作った。重い撮影機材をかつぎ、急な山道をよじ登った。もう随分昔のことのように感じる。
ワナカの街で給油と買出し。
今日行く西海岸はニュージーランドで一番の僻地だ。
フランツジョセフも小さな町だ。そこへの物資の輸送費だってバカにならない。故に全ての物が高い。これは仕方のないことだ。
ワナカのスーパーでビール、ワイン、特売のコーン、ソーセージなどを仕入れる。
この他にも車にはサーモン一匹、出来立て納豆、セントラルオタゴ産のネクタリンやアプリコットもどっさりある。
ワナカからハウェアを抜けてハーストパスへ。
この道を初めて通ったのはいつのころだったか。
あれはもう20年も前になるか。
当時つきあっていたキウィのガールフレンドと軽自動車で旅をした。
国道は全部舗装されておらず、時々砂利道がまざっていた。
大雨の中、ハーストパスを通り、道に直接落ちる滝の真下を通り、車が水圧で揺れるのを無邪気に喜んだ。凄いところだな、と感嘆した覚えがある。
ハーストでは一軒だけの宿に泊まり、その晩は停電となりローソクの明かりでロマンチックな夜を過ごしたものだった。
初めての西海岸のロードトリップの想い出が次から次へと心に浮かぶ。
歳をとったからか、全てが懐かしい。
ボクは感傷に浸りながら車を走らせた。





ハーストパスを抜け長い下りを下ると道は平坦になる。この辺りからは川の流れも緩やかになり川幅も広がる。
今までブナ一色だった森も、ちらほらとリムやカヒカテアなどのポトカーフという種類の針葉樹が出てくる。
一応英語では松という名前がついているこれらの木だが、僕らが普段見る松とは完全に物が違う。
松という定義には当てはまらない。リムはリム。カヒカテアはカヒカテアなのだ。
中でもリムはボクが一番好きな木である。
国道沿いに立っているリムに話しかけながら僕は車を走らせる。
「やあ、リム達よ。また君たちに会いにやってきたよ」
リムはボクを歓迎するように風に枝を揺らす。幸せである。
ワナカからハーストまでノンストップで走りぬけ、ハースト・リバーを渡る長い橋を越え、その先のシップクリークで一休み。ランチストップだな。ここはボクのお気に入りの場所だ。
ボケーっとタスマン海を見ながら昼飯を食べ、散歩に行く。ここには20分ぐらいのブッシュウォークがある。
西海岸特有の紅茶色の川を横目に森に入る。コケやシダが生い茂る中、のんびりと歩いていくとカヒカテアの大木に出会う。
この辺りのカヒカテアは60mの高さにもなる。ビルで言えば20階建てぐらいの高さだ。ただし周りに人工構造物がないので高さは分かりづらい。
カヒカテアは枝の付け根に多様な植物を載せそびえ立つ。
共生。植物たちは大木と共に生きる。
周りは沼地だがうまくボードウォークがあり足をぬらさずに森の散歩を楽しむことができる。こういうトラックを作る人のセンスが良いのだ。
今年も西海岸に来たな。感慨深くボクは木々たちに話しかけ、ゆっくりと森を歩く。







シップクリークからはタスマン海を左手に見ながら北上だ。
天気は良好。絶好のドライブ日和である。森の中を道路は行く。窓を全開にして森の気を感じながらのドライブは気持ちが良い。BGMは蝉の声だ。
そして午後も早い時間にフォックス・グレーシアに着いた。
この街はフォックス氷河というのがそのまま街の名前にもなった。
ここまで来たら今回の目的地、フランツジョセフまでは30分ぐらいの距離だ。もうあわてることはない。まずはDOCのオフィスに寄るか。
オフィスでは中庭でスタッフがアフタヌーンティーを取っていた。
背中を向けている黒髪の女の子がいる。キミだ。
カウンターの上にあるベルをチンチンと鳴らすと皆が一斉にこちらを見た。
キミがボクに気付き、他のスタッフを制してニコニコと出迎えてくれた。
彼女とは去年の冬に初めて会ったのだが、もう何年も前からの友達のように感じる。
キミは今では立派な西海岸の住人だが、以前は何年もクィーンズタウンのホテルで働いていた。ボクは何回もそのホテルでお客さんをピックアップした。
日本人の女の子が働いている、という記憶はあるのだからたぶん会ってはいるのだろう。向こうもボクが働く会社を知っているしボクのことも覚えているというのだが、クィーンズタウンで僕らは話をしたことがない。たぶんそういう時ではなかったのだろう。
キミは先シーズンからスキーを始めたのだが、みるみるうちに上手くなり、スキー3日目でブロークンリバーのメイントーに乗って山頂に立った。
子供ならともかく、いい年をした大人がこれほどまでに上達するとは・・・。人間とはすごいなあ、と思わせるような人である。
やればできる、こうなればいいなと思うことは実現する、ということを実地できる非常に強い光を持った人で、性格は明るく前向き。もちろん内側からにじみ出る美人で、タイにお似合いの彼女、というより「アンタぐらいでないとタイの彼女は務まらないよ」そんな人だ。
「やあ、キミ。やっと着いたよ。やっぱ西海岸は良いねえ」
「ひっぢさ~ん、お久しぶりです。今、着かれたんですか?」
「うん、途中でシップクリークに寄ってね。」
「あそこはきれいですからね。私も大好きです。サンドフライが多い場所は人を寄せ付けないから美しいんだって、うちのスタッフも言ってますよ。」
確かにシップクリークはサンドフライが多い。さっき止まった時もパケハ(白人)のツーリストが浴びるようにサンドフライよけを塗っていた。
「なるほどねえ、一理あるかもな。で、キミは今日何時に仕事が終る?」
「5時ぐらいに終るので、その後で一緒に帰りましょう。」
「じゃあ、それまでどこか散歩でもしてようかな。どこかいいブッシュウォークはないかな?マセソンみたいな観光地じゃない所がいいな。」
「ブッシュウォークですか・・・・・・」
会話をさえぎるように一人のスタッフがカウンターの向こうから声をかけた。
「よう、ヘッジ、こんな所で何をしている?」
誰だっけかなあ、この人。どこかで見たことはあるよなあ。どこで会ったんだっけ。
「うん、2~3日タイの所へ遊びにきたんだよ・・・」
「オマエ、俺とどこで会ったか思い出そうとしてるだろ。ブロークンリバーで何回も会ってるぞ」
「そうか、ブロークンリバーか。すまんすまん。物覚えが悪くてなあ。」
ボクは白状するが、人の顔と名前を覚えるのが苦手である。苦手な上に忘れるのが早い。
ところがボクの顔と名前はよっぽど印象に残るのか、向こうは覚えているということがとてもよくある。不公平だ。
特にこちらではMate(仲間)という便利な言葉があり、相手の名前を忘れても全てMateで通ってしまう。
『あの、どちらさまでしょうか』と聞くタイミングを逃し、そのまま話し続けるということもある。
20年もこの国でこんな事をやってると知らず知らずに有名になっていて、初対面でもお話は聞いてますと言われることもよくある。恐ろしい話だ。
キミが横から口をはさんだ。
「ねえ、この辺りで良いブッシュウォークはあるかしら?ヘッジが行きたいんだって」
「ブッシュウォークねえ、それならモレーンウォークがいいぞ。人も少ないし、でっかいラタの木もあるぞ。じゃあな」
そう言い残しヤツは去っていった。
近辺の地図があるところでキミが場所を教えてくれた。
ついでにボクはさっきのヤツの名前を聞いた。トリッシュというそうな。
トリッシュ、トリッシュ、トリッシュ。ボクは何回かつぶやいた。
次に会うときまで覚えていられるだろうか。





オフィスを出て車で5分ぐらい走り脇道へ入る。
看板から入っていくとそこはコケとシダ、カマヒやラタの森だ。
道は整備されすぎず、落ち葉を踏む感触が心地よい。
キミが言ったとおり人は全然入ってこない。自分一人で森を楽しめる。
地元の人の言うことは素直に聞くべきだ。
小川のそばでコケの上に座りボーっと森を眺める。
傘のようなコケ、アンブレラ・モスの群生だ。美しい。
今、この瞬間、ボクは森に包まれ生きている。
幸せな時とは常にそこにあるものなのだ。
ふと時計を見ると思ったよりも時は過ぎている、キミとの待ち合わせの時間に遅れそうだ。
こんな所にいると時が経つのも忘れてしまう。危ない危ない。
ボクは再び車を走らせフランツジョセフに向った。



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死ぬということ

2011-02-01 | 日記
人間は誰でも死ぬ。
これは生まれてきたからには避けられないものだ。
だが人は死を恐れる。
何故か。
それは死とは終りであり、会えなくなるもので、未知の物だからである。
未知の物を恐れるというのは、潜在的なもので仕方がないことだろう。
だが人は必要以上に死を恐れる。
恐れるあまり、そこから目を背ける。
若いときには遠い存在である死も、老いるにしたがい近いものとなる。
死への恐怖はどんどんふくらみ、生への執着となる。
生への執着はいろいろな問題を産む。
延命医療がいい例だ。
もう充分生きたでしょう、という人でもその家族が死の恐怖に脅えているので必要のない延命医療をする。
医者も死を敗北と考える人もいる。
ボクの考えでは無駄な延命医療をやめ、それに費やすエネルギーを子供の病気などに向けるべきだ。

ある人に聞かれたことがある。
「ニュージーランドの平均寿命は何歳ですか?」
ぼくは答えられなかった。
平均寿命が何歳か知らなかったし、興味もない。そもそも寿命とはその人がこの世でやるべきことをやり終えた時に迎えるもので、それの平均を出したところでしょうがないだろうと思っている。
だがそれをその人に言ったところ、彼は怒ってこう言った。
「平均を出して数字に表すことに意味があるじゃないか!」
はあ、そうですか。と答える他はない。
君の立場で言えば君は正しく、ボクの立場で言えばボクは正しい。
こういう人との議論はいつまでたっても平行線で交わることはない。
平均寿命が高くなるのはいいことなのか?
極論を書けば、科学が進み機械に繋がれた寝たきり老人が増えれば平均寿命はあがるだろう。
もっと言えば銀河鉄道999に乗って皆が機械の体を手に入れれば平均寿命はとんでもなく上がる。
昔の権力者が望んだ不老不死はそういうものだと思う。生への執着だ。
死という崇高なものの平均ねえ・・・。
若くして死ぬには何かしら意味がある。長生きするのにも意味はある。
世界のある地域では子供たちが食べる物もなく次々に死んでいく。
この子供達が死ぬ意味とは?
それは飽食に溺れた世界へのメッセージであろう。
だが人々はそのメッセージに耳を傾けず、今日も世界のある場所では何万人分もの食料が捨てられている。
こういった貧しい国の平均寿命は低い。
一方、先進国の平均寿命は高いのだろう、たぶん。
平均寿命が高くなるのは良いことなのか?
話は戻るが、寿命というのは各個人で違うはずだろう。時代や地域社会によっても違う。
少数民族の長老と呼ばれた人は長く生きることによって人生の叡智を身につけた。なので周りの人は尊敬しその人の言葉に耳を傾けた。
長く生きるというのはそういうことではないかと思う。
坂本竜馬は幕末あれだけのことをやり、30代頭でこの世を去った。短命でかわいそうか?
今の世の中だって、やることをやり若くして死ぬ者もあるし、叡智を身につけた長老もいる。同時に金と欲に溺れ生に執着した老人も多くいる。

そんな人達もいずれは死ぬ。ボクも死ぬ。これを読んでいるあなたも死ぬ。
死の局面に立った時に「ああ、いろいろあったけど、楽しかったなあ」と言いながらボクは死にたい。
その直前まで何も知らずに、崖を転げ落ちた母のような死に方も悪くはない。
ある晩、寝たら次の朝に死んでいた。なんてのもいいな。
ボクは自分がどうやって死ぬのか考えるとワクワクする。
けれど自殺をする気はないし、人にも勧めない。
この世に生まれたからにはそれなりの理由があるからだ。
人は死を恐れるので、こういう話を嫌う。
ポックリ逝く話などをすると「そんなこと、周りは大変じゃないの」などと言う。
確かに周りは大変さ。ぼくだってあの時は大変だった。
だが死ぬ本人にしてみれば、苦しみながら死ぬよりポックリ逝く方が幸せだろう。
なので父親にも「死ぬときはポックリ逝ってくれよ」と頼んである。
死を恐れて目を背けるのではない。
いずれやってくる死を正面から受けいれる。
だからこそ生きる喜びがある。生まれる喜びがある。
自分が生きている今だからこそできることがある。
今、この瞬間の中にその答えがある。
一期一会とはそういうことではあるまいか。
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