今回は『気』の話である。
気とはいろいろな意味があるが、大まかに言って二つに分けられると思う。
一つは空気の方の気、気温、気象、大気、気体、気圧、気候、寒気、電気、そういった科学で分かりやすい空気の気。
もう一つは人間が持つ精神的なもの、時にスピリチュアルな意味も含む、エネルギー体という気。
気分、元気、病気、気持ち、短気、気力、本気、生気、男気、勇気、雰囲気、気性、平気。
本当はもっと細かく分けられるがあまり細分化するのもナンだし、おおまかに二つに分けたうちの後者の話である。
タイトルにもあげた病気も元気も人が持つ『気』である。
病は気から、という言葉もある通り、気が病むことで病気になる。
心と体は密接な関係があるので、体の具合も悪くなって寝込んでしまう。
人は何かにすがって生きていきたい生き物である。
昔はすがる物が宗教であり、この世の全てを説明してくれたのが宗教だった。
この宗教観は今の世のそれとは全く違うものであり、想像するのが難しい。
例えて言えば、今の民主主義、資本主義、貨幣経済、物理化学や数学や天文学などありとあらゆる学問、親孝行しなさいといった道徳的なものまで、僕らが生きている上で基盤となっている全てのものが宗教だった。
宗教の言っていることは全て正しくて間違いはなく何も考えずに信じていればよく、異論を唱える者は処刑された、そういう時代もあった。
時が経ち新大陸の発見や科学の進歩など宗教で説明できない事柄が多くなり、人々は宗教以外の物として科学というものを信じるようになる。
科学は進化し、やがて人類は合理性や利便性を追い求めるようになった。
その側面には戦争というものがある。
戦場ではいかに効率よく動くかが勝敗の鍵を握る。
攻撃や防御という実際の殺し合いの現場もさることながら、新兵器の開発や生産、人員の移動や物資の配送まで、全ての現場で合理的で効率を求められるもの、それが戦争だ。
南米インカ帝国と征服者スペインの間で戦争があったが、インカ側では夜に戦うという風習がなかった。
それを利用してスペイン側は夜に奇襲をかけて戦いに勝った。
どちらが愚かでどちらがずる賢いという話ではない。
合理的な者が勝つのが戦争だという話である。
以前のお客さんで軍事に詳しい大学の先生がいて、『日本軍の小失敗の研究』という本を出していて面白い話をしてくれた。
日本が戦争に負けたのは大きな失敗がたくさんあるのだが、歴史に出てこない小さな失敗も数多いと。
一つ例を挙げると、戦車の操縦マニュアルが日本軍は漢字で書いてあり、それを学ぶには先ず漢字を勉強しなくてはならない。
それに比べアメリカ軍の操縦マニュアルはマンガだったそうな。
戦車を操縦するということにおいて、どちらが早く覚えられるかは明白だ。
これが全てではないが、一事が万事ということわざもある。
精神論は大切だが、合理性を無視しては戦争には勝てないということだと思う。
世界大戦が終わっても世界は競争社会であり、強く早いものが勝つという構造は変わらずに合理性を追い求めた延長線上に今がある。
信じるものが宗教から科学となり、世界は科学が全てと極端に全振りする。
科学で解明できないものはインチキでオカルトでハッタリだ、と言う教授がテレビでもてはやされた時代もあった。
今はそこまでひどくはないが、科学が信仰のような扱いになっている場合も多い。
科学が信仰された側面には統計学がある。
統計学とは一言で言うと数値で表す世界だ。
科学の発展に数値で統計を取り分析して結果を出すというプロセスがあり、それを批判するわけではない。
数値やグラフを見ればどういう状況かとても分かりやすい。これを有効利用しない手はない。
ただ気をつけなければいけないのは、数値を信用しすぎて踊らされることである。
現代の西洋医学の基となっているのは科学と統計学ではないかと思う。
検査をして数値がおかしいとなれば病気だと断定されてしまう。
痛くも痒くもなくても、お医者様が病気だと言えば本人も病気だと思ってしまう。
挙げ句の果てには「自分は◯◯病だから」と言い切ってしまう。
こういう人は心の奥で、カテゴライズされたがっているのかもしれない。
ちなみに僕の考えでは西洋医療は基本的に対症療法であり応急処置であり戦場医療だ。
得意な分野は切ったり貼ったりの外科手術や、抗生物質などの薬で症状を抑える対症療法だ。
基本的に西洋医学はほとんどの病気を治せない。
病気を治しているのは本人の免疫システムや体力や気力などであり、対症療法はその助けをしている。
ここを理解しないとここから前には進めない。
医者が見放した患者が自分で病気を治した例は多々ある。
だからと言って東洋医学が全てだとも思わないが、東洋医学的考え方の方が病気の根源を見ているような気がする。
どちらも全肯定しなければ全否定もしない。
それぞれの長所を取り入れれば良いだけの話で、大切なのはバランスだ。
一つ言いたいのは東洋だろうが西洋だろうが病気になったら医者に行く、医者の言うことさえ聞いていれば良い、という考えから抜けなければなにも始まらない。
あくまで病気を治すのも病気になるのも自分であり、医者はその手助けをするのだ。
そういう意味で友達の星子がやっている『自分のカラダを自分で治す』というやり方は良いと思う。
興味がある方は覗いてみて欲しい。
これは考え方の話であり、さらに進んで生き方の話でもある。
誰かの意見にすがって生きて行くのか、自分で考えて人の意見を聞いてみるのかでは大きな違いだ。
最近は全ての分野において細分化が進み専門家の意見を聞く機会が増えた。
ここにも僕は問題があるのではないかと思う。
確かに専門家の意見は大切だが、これも盲信してはいけない。
専門家ゆえに陥ってしまう落とし穴のようなものも存在する。
だが今の世の中は、専門家の言うことは全て正しい、という前提で全てが進んでいる。
もっとひどいものだと、マスコミなどは積極的に自分たちが流したい専門家の意見を利用している。
専門家の意見だから素直に聞く、という態度を改めなくては何も始まらない。
専門家だって人間だ。間違うことだってあるだろう。
これもバランスの話になっていくのだが、100:0となってはいけない。
それはシーソーで言えば、片方が重すぎて全く動かなくなってしまった状態だ。
どんな意見を聞こうが、「そんな事は絶対にありえない」と一蹴して相手を論破する。そういう人っているな。
99:1で良い。
たとえ少しでもシーソーが動けるような状態、どちらかに大きく傾いてはいるが止まってはいない。
ユラユラと行ったり来たり動きながら中庸を模索するのが良かろう。
ここでやっと『気』の話に戻る。
気とは未だに科学で解明されていない分野だ。
漠然とは皆が感じてはいるが、科学的でないという理由で取り上げてもらえない事が多々ある。
それよりも数値で分かる科学を信仰する人は多い。
科学が進んで生活が便利になるのは良いが、進みすぎてしまい方向性を見失ってしまっているのが今の世の中だ。
科学の発展が進みすぎて愛とのバランスが崩れたときに、社会は崩壊する。
愛という存在は大きすぎて一言では表せられないが、気にも通じるものだ。
気とは思考であり、生き様であり、内在神であり、エネルギーであり、バランスであり、愛である。
なんかよく分からんね。
でも全ては気の持ちようで考え方と言っても良い。
病気にならないようにと考えるか、元気であるという事に焦点を当てるか、似て非なるものだ。
反戦運動と平和活動の関係に近いものがある。
反戦運動は先ず始めに戦争ありきでそれに反対するものだ。
どこまで考えても前提条件に戦争というものが存在するのでどれだけそれを否定しようが戦争はなくならない。
平和運動は平和というところに焦点を当て行動し、その結果なのか過程なのか戦争が無くなる。
たどり着く目的は同じように見えるが、プロセスは完全に違う。
昔は結果が全てだったが今は、そのプロセス自体に意味があると考える時代だ。
結果はあくまでも結果であり、結果が全てという思考から抜け出す時が来ている。
今の自分が持っている気というものに焦点を当てて、それを信じてみないか。
何処かの誰かが言ったことでなく、自分の中から湧き出る言葉に耳を傾けてみないか。
最後に最近聞いたコテンラジオの言葉を引用して、とっちらかったこの話を締める。
自分たちが今現在生きている社会が持っている絶対視や絶対感を絶対だと思い込んでしまう危うさ。
気とはいろいろな意味があるが、大まかに言って二つに分けられると思う。
一つは空気の方の気、気温、気象、大気、気体、気圧、気候、寒気、電気、そういった科学で分かりやすい空気の気。
もう一つは人間が持つ精神的なもの、時にスピリチュアルな意味も含む、エネルギー体という気。
気分、元気、病気、気持ち、短気、気力、本気、生気、男気、勇気、雰囲気、気性、平気。
本当はもっと細かく分けられるがあまり細分化するのもナンだし、おおまかに二つに分けたうちの後者の話である。
タイトルにもあげた病気も元気も人が持つ『気』である。
病は気から、という言葉もある通り、気が病むことで病気になる。
心と体は密接な関係があるので、体の具合も悪くなって寝込んでしまう。
人は何かにすがって生きていきたい生き物である。
昔はすがる物が宗教であり、この世の全てを説明してくれたのが宗教だった。
この宗教観は今の世のそれとは全く違うものであり、想像するのが難しい。
例えて言えば、今の民主主義、資本主義、貨幣経済、物理化学や数学や天文学などありとあらゆる学問、親孝行しなさいといった道徳的なものまで、僕らが生きている上で基盤となっている全てのものが宗教だった。
宗教の言っていることは全て正しくて間違いはなく何も考えずに信じていればよく、異論を唱える者は処刑された、そういう時代もあった。
時が経ち新大陸の発見や科学の進歩など宗教で説明できない事柄が多くなり、人々は宗教以外の物として科学というものを信じるようになる。
科学は進化し、やがて人類は合理性や利便性を追い求めるようになった。
その側面には戦争というものがある。
戦場ではいかに効率よく動くかが勝敗の鍵を握る。
攻撃や防御という実際の殺し合いの現場もさることながら、新兵器の開発や生産、人員の移動や物資の配送まで、全ての現場で合理的で効率を求められるもの、それが戦争だ。
南米インカ帝国と征服者スペインの間で戦争があったが、インカ側では夜に戦うという風習がなかった。
それを利用してスペイン側は夜に奇襲をかけて戦いに勝った。
どちらが愚かでどちらがずる賢いという話ではない。
合理的な者が勝つのが戦争だという話である。
以前のお客さんで軍事に詳しい大学の先生がいて、『日本軍の小失敗の研究』という本を出していて面白い話をしてくれた。
日本が戦争に負けたのは大きな失敗がたくさんあるのだが、歴史に出てこない小さな失敗も数多いと。
一つ例を挙げると、戦車の操縦マニュアルが日本軍は漢字で書いてあり、それを学ぶには先ず漢字を勉強しなくてはならない。
それに比べアメリカ軍の操縦マニュアルはマンガだったそうな。
戦車を操縦するということにおいて、どちらが早く覚えられるかは明白だ。
これが全てではないが、一事が万事ということわざもある。
精神論は大切だが、合理性を無視しては戦争には勝てないということだと思う。
世界大戦が終わっても世界は競争社会であり、強く早いものが勝つという構造は変わらずに合理性を追い求めた延長線上に今がある。
信じるものが宗教から科学となり、世界は科学が全てと極端に全振りする。
科学で解明できないものはインチキでオカルトでハッタリだ、と言う教授がテレビでもてはやされた時代もあった。
今はそこまでひどくはないが、科学が信仰のような扱いになっている場合も多い。
科学が信仰された側面には統計学がある。
統計学とは一言で言うと数値で表す世界だ。
科学の発展に数値で統計を取り分析して結果を出すというプロセスがあり、それを批判するわけではない。
数値やグラフを見ればどういう状況かとても分かりやすい。これを有効利用しない手はない。
ただ気をつけなければいけないのは、数値を信用しすぎて踊らされることである。
現代の西洋医学の基となっているのは科学と統計学ではないかと思う。
検査をして数値がおかしいとなれば病気だと断定されてしまう。
痛くも痒くもなくても、お医者様が病気だと言えば本人も病気だと思ってしまう。
挙げ句の果てには「自分は◯◯病だから」と言い切ってしまう。
こういう人は心の奥で、カテゴライズされたがっているのかもしれない。
ちなみに僕の考えでは西洋医療は基本的に対症療法であり応急処置であり戦場医療だ。
得意な分野は切ったり貼ったりの外科手術や、抗生物質などの薬で症状を抑える対症療法だ。
基本的に西洋医学はほとんどの病気を治せない。
病気を治しているのは本人の免疫システムや体力や気力などであり、対症療法はその助けをしている。
ここを理解しないとここから前には進めない。
医者が見放した患者が自分で病気を治した例は多々ある。
だからと言って東洋医学が全てだとも思わないが、東洋医学的考え方の方が病気の根源を見ているような気がする。
どちらも全肯定しなければ全否定もしない。
それぞれの長所を取り入れれば良いだけの話で、大切なのはバランスだ。
一つ言いたいのは東洋だろうが西洋だろうが病気になったら医者に行く、医者の言うことさえ聞いていれば良い、という考えから抜けなければなにも始まらない。
あくまで病気を治すのも病気になるのも自分であり、医者はその手助けをするのだ。
そういう意味で友達の星子がやっている『自分のカラダを自分で治す』というやり方は良いと思う。
興味がある方は覗いてみて欲しい。
これは考え方の話であり、さらに進んで生き方の話でもある。
誰かの意見にすがって生きて行くのか、自分で考えて人の意見を聞いてみるのかでは大きな違いだ。
最近は全ての分野において細分化が進み専門家の意見を聞く機会が増えた。
ここにも僕は問題があるのではないかと思う。
確かに専門家の意見は大切だが、これも盲信してはいけない。
専門家ゆえに陥ってしまう落とし穴のようなものも存在する。
だが今の世の中は、専門家の言うことは全て正しい、という前提で全てが進んでいる。
もっとひどいものだと、マスコミなどは積極的に自分たちが流したい専門家の意見を利用している。
専門家の意見だから素直に聞く、という態度を改めなくては何も始まらない。
専門家だって人間だ。間違うことだってあるだろう。
これもバランスの話になっていくのだが、100:0となってはいけない。
それはシーソーで言えば、片方が重すぎて全く動かなくなってしまった状態だ。
どんな意見を聞こうが、「そんな事は絶対にありえない」と一蹴して相手を論破する。そういう人っているな。
99:1で良い。
たとえ少しでもシーソーが動けるような状態、どちらかに大きく傾いてはいるが止まってはいない。
ユラユラと行ったり来たり動きながら中庸を模索するのが良かろう。
ここでやっと『気』の話に戻る。
気とは未だに科学で解明されていない分野だ。
漠然とは皆が感じてはいるが、科学的でないという理由で取り上げてもらえない事が多々ある。
それよりも数値で分かる科学を信仰する人は多い。
科学が進んで生活が便利になるのは良いが、進みすぎてしまい方向性を見失ってしまっているのが今の世の中だ。
科学の発展が進みすぎて愛とのバランスが崩れたときに、社会は崩壊する。
愛という存在は大きすぎて一言では表せられないが、気にも通じるものだ。
気とは思考であり、生き様であり、内在神であり、エネルギーであり、バランスであり、愛である。
なんかよく分からんね。
でも全ては気の持ちようで考え方と言っても良い。
病気にならないようにと考えるか、元気であるという事に焦点を当てるか、似て非なるものだ。
反戦運動と平和活動の関係に近いものがある。
反戦運動は先ず始めに戦争ありきでそれに反対するものだ。
どこまで考えても前提条件に戦争というものが存在するのでどれだけそれを否定しようが戦争はなくならない。
平和運動は平和というところに焦点を当て行動し、その結果なのか過程なのか戦争が無くなる。
たどり着く目的は同じように見えるが、プロセスは完全に違う。
昔は結果が全てだったが今は、そのプロセス自体に意味があると考える時代だ。
結果はあくまでも結果であり、結果が全てという思考から抜け出す時が来ている。
今の自分が持っている気というものに焦点を当てて、それを信じてみないか。
何処かの誰かが言ったことでなく、自分の中から湧き出る言葉に耳を傾けてみないか。
最後に最近聞いたコテンラジオの言葉を引用して、とっちらかったこの話を締める。
自分たちが今現在生きている社会が持っている絶対視や絶対感を絶対だと思い込んでしまう危うさ。