大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅰ第2章11~17節

2021-08-22 16:53:58 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月22日日大阪東教会主日礼拝説教「神を畏れ人を敬う 」吉浦玲子 

<漂流しているのか> 

 ちょうど一年前になるのですが、天満橋の大川に浮かんでいるラバーダックというものを見に行きました。ラバーダックというのは、巨大なアヒルの模型です。高さ9.5m、幅9.5mで、ちょっとした船よりも大きく、大きさ的にはかなり威圧感があるのですが、見た目は、子供がお風呂に浮かべるようなかわいい黄色のアヒルのおもちゃなのです。そのかわいい黄色のアヒルのおもちゃが巨大化して川にぷかぷか浮かんでいて、ある種、シュールな感じもあります。オランダのアーティストが作成して、ヨーロッパ、アジア、アメリカなど各国の川に浮かべて展示されてきたものです。それが、一年前、大阪の天満橋付近の川にも一カ月ほど浮かんでいたのです。その表題が「漂えど沈まず」でした。コロナを始め、いろいろなことで分断されている世界に、そのなんとも脱力するような黄色いアヒルが漂流している、漂っているけれど、けっして沈まない、というある種の強いメッセージがそこにはありました。とはいえ、かわいいアヒルの、巨大なものがぷかぷか川に浮かんでいる、そのシュールな風景を見て何とも言えない気持ちになりました。「漂えど沈まず」という言葉に、いろいろと考えさせられました。 

 一年たって、今日の聖書箇所を読んで、ふとまた考えました。聖書では、人間は寄留者であると語っています。エジプトを旅立って荒れ野を旅した民のように、私たちもこの世にあって旅人であるというのです。ペトロもまた、キリスト者は旅人であり、仮住まいの身だと語っています。旅人だから、旅人として通り過ぎて行く場所のことはどうでもいいのでしょうか?「旅の恥はかきすて」などという言葉もあります。旅はひとときのことであって、通り過ぎて行くその土地での生活は適当でよいのでしょうか。もちろん、聖書はそう語っていません。この世でしっかり生きなさいと語っているのです。 

 旧約時代の預言者エレミヤは、国が滅び、1000キロ以上離れたバビロンに捕囚として連れて行かれた人々に、そのバビロンの地で、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように」と手紙を送っています。捕囚の民にはやがてイスラエルに戻る、そう神の約束が与えられていることをエレミヤは知っていました。しかし、バビロンにいる間はその土地でしっかりと生きなさいと語っています。もちろんバビロン捕囚は最初の捕囚から解放まで60年ほどで、ある程度分別がついた人間のほぼ一生が費やされるような時間です。数日の旅行とか、数年の滞在ではありませんので、家を建てて果樹を植えて、ということは当たり前かもしれません。 

 しかし、バビロン捕囚の民も数十年間その土地にいましたが、その土地ではない土地を故郷として、あるいは目的地として持っていた点において、寄留者であり旅人でした。神を信じて生きる私たちも同じです。旅人ではあっても仮住まいであっても、その土地でしっかり生きていくのです。ラバーダックの言うように漂流しているわけではないのです。もちろん神は思わぬところに人を導かれることはあります。行きたくないところに行かされることもあります。しかし、それでも波任せの漂流ではないのです。私たちはそこに神の御心を受けて生きていくのです。神の意志を感じながら生きていくのです。だから漂流ではないのです。揺れ動いているようで、ままならないことも多々ありながら、漂流ではないのです。しかし、もちろん、その日々は神の御手の中で沈むことはありません。 

<立派とは> 

 その旅人である私たちはどのように生きなさいとペトロは語っているのでしょうか?「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい」と言っています。さらっと読むと、禁欲的に聖人君子のように生きなさいと言われているようです。しかし、12節には立派に生きるキリスト者を見た異教徒たちは「訪れの日に神をあがめるようになります」というのです。ただ堅苦しく清らかに生きている人々を見て、キリスト者でない人々が聖書の神をあがめるようになるでしょうか。ここで言われる肉の欲とは神から私たちを遠ざけ罪へとひきずるものです。まさに魂に戦いを挑んでくるものです。魂に戦いを挑んでくるというと壮絶なイメージがありますが、私たちを神から遠ざけるものは肉の欲であると言えます。よくスマホ依存症とか言われますが、本来為すべきことを放ってスマホをいじる、時間を費やしている、そういうことも肉の欲に支配されているといえます。そして立派さとは神を第一に生きるということです。ペトロが手紙を送った地域は異教のあふれるところした。さまざまな宗教、そして偶像があったと思われます。そしてまた、異教にまつわる性的な不品行もあったと思われます。しかし、そういうことに惑わされず、ただお一人の神、聖書の神だけを心からあがめて生きていくのです。ことさらにそれを誇示する必要はありませんが、淡々と神を第一にして生きていく、その姿から何かを感じた人々は、自分たちと同化しないあり方に当初は怒りのような、嫌な印象を持っていても、訪れの日には神をあがめるようになると語ります。訪れの日とは、キリストの再臨の時ともいえますし、それぞれの人々にキリストが訪れてくださる日ともとれます。まことの神を知らなかった人々へもキリストが訪れてくださる、そのときまさにキリスト者のあり方が正しかったことを知って、神をあがめるようになるというのです。 

<この世の権威に従う> 

 そしてもう一つペトロが旅人として生きながら、守るべきこととして、「人間の立てた制度に従いなさい」と語ります。私たちは神をただ一つの規範、正義として生きながら、人間の立てた制度に従って生きていきます。今日の社会において、この世の制度に従って生きることは、おおむねそれほど困難ではありません。人権や信教の自由が一応は守られているからです。しかし、ペトロの手紙が書かれた時代は異なります。ローマ帝国によって植民地は搾取されていました。今のような人権の概念もありませんでした。そしてまたこの時代の皇帝は自分を神として敬うことを人々に求めました。そのような社会の中で、何より、クリスチャンはひどい迫害に晒されていました。そのような中で、ローマ皇帝や総督や現行の制度に従えと言うのは厳しいことのように思われます。総督といえば、主イエスの十字架刑を決定したのは当時のローマ総督ポンテオ・ピラトでした。そのことをペトロは目の当たりにしていたにもかかわらず、総督に従えというのです。主イエスが従われたからです。主イエスは総督の決定を受け入れ十字架にかかられました。それが父なる神の御心だと信じ、主イエスは十字架にかかられました。ですからペトロは皇帝にも総督にも従えと語っているのです。 

 そもそも、そのような皇帝でも総督でも制度でも、神にゆるされてこの世界にあるのだと聖書は語ります。そしてまた日本のようにキリスト教国ではない社会においても、なお権力者や社会の制度は神の支配の中にあるのだといえるのです。たとえば、先ほど語りましたエレミヤの時代、イスラエルを滅ぼした異教の国バビロンのネブカドネツァルも、イスラエルへの裁きのために神に立てられたと考えられるのです。 

 同時にまたこのことは難しい判断を迫られるものでもあります。この世界には、たしかに人間をさいなむ人為的な力が存在します。富の不公平な配分、弱者の切り捨て、不条理なことが多くあります。人間の命に関わる重要なことがあります。その中には、人間の力によって変えることができると考えられることもあります。人間が変えることができるものを変えてはいけないと神は語っておられるのでしょうか。現行の権力、権威にやみくもに従えと語っておるのでしょうか。これはとても難しい問題だと思います。ヒトラーのようなホロコーストを行う独裁者にも従うべきなのでしょうか。いま、8月ですが、かつてこの国が太平洋戦争に突き進んだ、そのような時代の権力にも従うべきなのでしょうか。旅人なのだから仮住まいなのだから、そのようなことはどうでもいいと通り過ぎるべきでしょうか。 

 あまり適切な例ではないかもしれませんが、あるクリスチャンの作家が書いた文章を読んで愕然としたことがあります。その方は、聖書は一家の主は夫である、妻は夫に従うべきであると書いていると語ります。男女平等のあり方からはいろいろな考えがありますが、聖書には確かにそう読めるように書かれています。そしてさらにその作家は語るのです。ろくでなしの夫であっても妻は夫に従うべきで、たとえば、夫が万引きをするから妻に店に人に見つからないように見張っておけと命令したとしても妻は夫に従えというのです。ここで言われる夫と、ペトロが語る制度や権威は異なるものかも知れませんし、夫婦のあり方として妻の一方的な服従が聖書において求められているとは考えられませんが、どう考えても、万引きの助けをしろというのはおかしなことです。この世において、権力によって、悪を為すことを強要された場合、私たちは、はいと従うのかという問題はあります。万引きする夫を助けることも、悪を為す権威に従うこともやはりおかしなことでしょう。 

 ところで、有名な「ニーバーの祈り」というものがあります。ご存知の方もあるかと思います。この祈りの出だしの部分はことに有名で、宇多田ヒカルの歌の歌詞にも取り入れられていて耳にしたことのある人もいるかと思います。こういうものです。「神よ、変えることのできないものを平静に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する知恵を与えてください。」 

 ここで注意すべきことは、変えることができる、変えることができないというのは、人間側の力や希望、意思によって決まることではないということです。私の手には負えないから受け入れましょう、自分で変えることができそうだから変えましょうということではありません。神が変えることを望んでおられるかどうかということを問う必要があります。私たちはこの世の権威、制度に従って生きていきます。しかし、それ以上に神に従うのです。神に従うとき、変革することを神が示されているなら、私たちは私たちに力のあるなしに関わらず、神に依り頼みつつ変える努力をする必要があります。 

<自由に生きる> 

 しかし何より大事なことは、私たちは神の僕として神に従って生きていくこと以外においては自由な者であるということです。ペトロの時代、身分的には奴隷もありました。聖書の中には実際、奴隷も出てきます。しかし、神の前で、この世の身分はどうであれ、奴隷ではなく、自由人なのだとペトロは語ります。私たちは自由な者として、この世の権威に従うのです。無理やり従うのではなく、自由な選択の内に従うのです。私たちには従うことも、従わないことも選択することができます。しかし、その選択の自由の中で、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とペトロは語ります。私たちは自由というとき、奔放に傾きがちです。自由を、「悪事を覆い隠すことに用いるのではなく」とペトロは語ります。私たちは自分が正義を為しているつもりで、時には悪い権威を懲らしめているつもりで、実際のところは自分の欲を満足させている場合もあります。そしてその罪を隠すために自由を用いたりします。しかし、そうではない。私たちは私たちに与えられた自由を、なにより神のために用いねばなりません。神を讃え、神に従い生きています。そしてまた神が今ゆるされているこの世の権威、制度に従います。しかしまた自由であるということは、縛られないということでもあります。現行の制度、権威を最上のものとは考えないということでもあります。私たちが旅人としてひとときこの世にあるように、この世のさまざまなこともひとときのことです。絶対のものではありません。そのひとときのことに固執しないで生きます。固執しないからと言ってラバーダックのようにひょうひょうと漂うのではないのです。この世の権威、制度にしっかりと向き合いながら、神から知恵をいただきながら歩むのです。変わらぬものはただひとつ神の言葉だけです。神を第一にして、神に従うとき、私たちは私たちの自由の用い方を知らされます。主イエスも十字架におかかりなる最後まで自由でした。ペトロもパウロも最後は処刑されましたが、牢の中にあっても自由でした。肉体は拘束されても、誰よりも自由に生きました。私たちの先人である戦中の大阪東教会の霜越牧師も逮捕され収監されましたが、その牢の中で自由でした。私たちはこの世の権威や制度に向き合うためのまことの知恵と力が与えられます。ただお一人なる神、その神の国、全き正義の国に入るその時まで、この世界にあって自由に神を讃え、神に導かれながらこの世界に地に足をつけて歩んでいきます。