大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第1章13~25節「ほんとうの平和」

2021-08-01 16:12:14 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月1日日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの平和 」吉浦玲子 

<私たちの平和> 

 私たちが過去にどのような者であったとしても、今現在どのような者であっても、私たちはキリストによってすでに贖われた、つまり罪赦され、罪から自由とされ、救われています。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」とペトロが語っている通りです。しかし、私たちは今現在においては、完全な者ではありません。依然として罪を犯しますし、弱さを持っている存在です。が、それでもキリストの血によってすでに清められた者です。そのことは小さなことではありません。私たちは今も罪を犯しますが、だからといって、キリストの尊い血によって清められ、救いを受ける前の私たちと同じというわけではありません。自分から見たら、変わり映えのしない自分に見えるかも知れません。しかし、同じではないのです。神から見たら大いに変わっている、それまでは神と遠くにいた罪人であったのに、今は神の子とされているのです。それはただ神の慈愛によるものです。そもそもキリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていたお方、神であるお方です。キリストはたしかに人間の歴史上に現れられた方ですが、単なる2000年前にイスラエルに実在した偉人というわけではありません。天地創造の前からおられたお方です。その方がわたしたちのためにこの地上に現れてくださいました。そしてまたその方は死者の中から復活された方です。そのお方、つまりキリストを復活させられた神に私たちの信仰と希望はかかっているとペトロは語ります。私たちの信仰と希望は神にかかっている、逆に言いますと、私たち自身にはかかっていないということです。すでに神の子とされている私たちは、さらに変えられていきます。すでに聖なる者とされている私たちはさらに聖なる者とされていきます。神が私たちの救いのためにすべてを整えられ、今もなお私たちのために働いてくださっているからです。そこに私たちの信仰と希望があります。その信仰と希望において、私たちに平和はあります。私たちが私たちの手で信仰と希望を保ち続けていかねばならないのなら、そこには、平和はありません。絶えず焦りと不安があります。でもそうではない。神にすべてがかかっている、そこに私たちの平和があります。 

 今日は平和主日です。日本基督教団では毎年、この八月第一週を平和主日と定めています。日本基督教団以外でも、この日を平和を覚える日としているところは多いようです。個人的な話をして申し訳ないのですが、私は長崎県佐世保市というところの出身です。長崎県の北部にあります。長崎県南部にある県庁所在地である長崎市はご存知のように1945年広島の三日後の8月9日に原爆が投下されました。佐世保市は長崎市から直線距離でも50キロほど離れていますから、原爆の直接の被害はありませんでした。それでも、子供のころは毎年8月9日は夏休み中の登校日で、学校で原爆の話を聞きました。被爆者の先生も当時はおられ生々しい体験談を聞きました。しかし、原爆を経験している県の中にありながら、佐世保は戦争と共に発展してきた町であり、争いに関わって来た町でもあります。天然の良い港があって、地理的にも軍港として利用しやすいところで、明治以降、戦争と共に発展をし、戦後も、朝鮮戦争やベトナム戦争といった戦争の歴史に深くかかわりながら歩みました。米軍基地によってうるおっていたのです。また私より上の年代の方はご記憶にあるかもしれませんが、1968年にアメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に入港したときは全国から5万人以上の反対派が集結し、機動隊と市街戦さながらの大きな衝突が起きました。そのニュースは子供ながらに記憶があり、催涙弾の巻き添えになった一般市民が市民病院に長蛇の列をなして治療を待っているニュース映像を覚えています。一方で、同じ県内で被爆地である長崎市はカトリックの教会も多く、平和に対して祈りの町と言われていました。しかし、また一方で、県全体として見た時、戦争や、大きな争いのなかに否応なく置かれていました。 

 これもお話したことがあるかと思いますが。私は母子家庭で育ちまして、小学校の低学年まで、佐世保市内の母子寮という母子家庭が20世帯くらいが住んでいる施設にいました。その母子寮には、毎年、米軍基地からクリスマスプレゼントが大量に届けられました。母子家庭の子供たちのためにと集会室の机に山盛りになるほどプレゼントが送られてきたのです。その送られてきたプレゼントは、当時、高度経済成長期とはいえまだまだ貧しかった日本のおもちゃとは比べ物にならないほど豪華なものでした。さらにある年は、米軍基地の中のパーティにも招待されました。米兵たちがとても明るく親切に迎えてくださり、ごちそうやケーキが出てきて、そこでもまたプレゼントをもらいました。全然言葉が通じない、大きな体をしたアメリカ人の男の人たちは最初怖かったのですが、精一杯子供たちを喜ばせようとしてくださっていたのは覚えています。一人一人にプレゼントを手渡していたおじさんは、私にもプレゼントをくださり、はやくそのプレゼントを開けてごらんいう感じで私の顔をにこにこ目を細めて覗き込んでいました。そのおじさんの顔は今でもぼんやり覚えています。しかしあとから考えたら、時代的にいうと、それはベトナム戦争のころで、佐世保はベトナムに出撃する兵士たちの後方支援基地になっていたのです。あのとき、陽気に子供たちをもてなしてくださった青年兵や壮年の兵隊たちの中はのちには、ベトナムへとむかった人もいたかもしれません。そういうことを考えると何か複雑な思いになります。長崎という一つのごく小さな田舎の地方を考えても、平和というのは一体何なのかと分からなくなります。だれもが戦争や争いはしたくないと思っています。でも実際、私たちは平和を守る側にいるのか、平和を壊す者としているのか、それは分からないと思うのです。キリスト教国と一般に考えられているアメリカが、長崎の浦上天主堂のほぼ真上から原爆を投下しました。米国人の宣教師が開拓伝道した大阪東教会の真上から、米軍のクラスター焼夷弾は降り注ぎ旧会堂は全壊しました。実際この世界にあって、今、目の前にいる親切な人が、明日は戦場で誰かを殺しているかもしれないし、私自身がいまこのとき、誰かの平和を壊すことに加担しているかもしれません。この世界では平和というのは主観的なものであったり相対的なものであったりします。 

<信仰共同体の愛> 

 さて、ペトロは語ります。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」キリストを死者から復活させられた神によって私たちは新しく生きる者とされました。信仰と希望において私たちはまことの兄弟愛を持つことができるようになったのです。キリストを復活させられた神の力のゆえに、兄弟姉妹を愛することができるようになるのです。私たち自身が神に愛された存在であることを知ったからです。私たちはもちろん神に愛されていることを知る前から、家族を愛し友人を愛していました。しかし、その愛は不完全なものでした。相手を愛しているつもりでありながら、自己中心的な愛であるということは往々にしてあります。まして自分の気に入らない人を愛することなどはできませんでした。しかし、真理を受け入れる時、つまりキリストの十字架の血による贖いと復活を受け入れる時、私たちはまことの愛を知り、それゆえに兄弟愛を抱くことができるようになったのだというのです。 

 キリストの受難と復活をまことに自分のための出来事として受け入れる時、私たちは愛する者と変えられていきます。そして深く愛し合うことができるようになるのだとペトロは語ります。しかし、聖書を読む時、ペトロ自身、復活のキリストと出会い、ペンテコステののち聖霊を受けても、愛するということにおいて、けっして平坦ではない歩みをしました。ユダヤ人である彼は当初、ユダヤ人ではない異邦人への伝道を躊躇しました。それは長い長い歴史と律法の解釈を背景に考える時、やむを得ないところはありました。DNAに刻み込まれているかのようなユダヤ人の選民意識があったのです。神は人間を分け隔てなさらないということを神によって知らされるまではペトロは分からなかったのです。しかし、神は分け隔てなさらないということを知ったその後も、後輩のパウロに叱責されるように、異邦人と共に食事をしなかったりといったこともありました。キリストの一番弟子であったペトロであっても、なお愛するということにおいて彼は完全ではなく、生涯、さまざまに失敗をした人でありました。 

 しかしまた一方で、そのペトロは確かに見たのです。キリストを直接見ていない、自分よりのちに信仰を得た人々がまことに愛し合っている姿を。一人一人の人間の愛はキリスト者であってもなお不完全ではありますが、しかし、信仰共同体して生きていくそのとき、その共同体の中に確かに愛があることをペトロは知ったのです。キリストのゆえに信仰お希望を与えられ、キリストがお立てになった共同体において、互いに愛し合うことができるようになった姿をペトロは見ていたのです。人間は不完全であっても、なおそこに神が立っておられるゆえに兄弟愛が起こる、愛し合う関係が起こる、人と人の間にキリストが立っておられる、そこに愛があり、愛ゆえに完全な平和があります。それは主観的なものでも、相対的なものでもありません。神の真理の前にあって絶対的な愛であり、平和です。 

<永遠の平和> 

 しかし、現実には世界の歴史を見ると、クリスチャン同士が殺し合い、キリスト教国同士が戦ってきた歴史があります。神に召されて聖なる者とされたはずのクリスチャン同士が争っている、国家間でもそうですし、教会の中ですらそうです。大浦天主堂を破壊し、大阪東教会の会堂も破壊し、無差別に無辜の市民を殺すような力がこの世界に満ち満ちています。教会の中ですら不毛な争いが起こる、それだけ人間の罪は深いし、神から人間を引き離そうとする力も強いのです。平和から争いへと、愛から憎しみや無関心へと人間を向かわせる力は強いのです。人間の中に平和ではない本質があるからです。人間の側から見たら、戦争やテロの歴史は敗北の歴史です。ごく小さな範囲での人間関係にあっても平和はありません。人間の歴史は、人間の正義や良心や知恵の敗北の歴史です。 

 しかし、神から見たらまた違う歴史が見えます。この暗澹とした地上の歴史は、完成に向けた途上の歴史です。神の業は変わることなく一筋に完成に向かって進んでいます。人間の愚かさと関係なく、神の歴史は今も進んでいるのです。有名なイザヤ書の言葉をペトロは引用します。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」草が枯れ、花はしぼみ、壮大な建物も崩れ落ちます。人間の歴史は失敗の連続のようです。しかしその中に一筋に響き続ける言葉があります。それは神の言葉なのです。これはこの世界に対しての楽観論ではありません。人間の罪は深く、人間の為すことは終わりの日まで愚かなものです。これからの人間の歴史がどうなるかは分かりません。しかし、神が人間とこの世界を見捨てられることはありません。変わらぬ神の言葉は、私たちと、そしてこの世界のために今日も未来も響き続けます。その言葉を聞きとめて生きていくとき、そこに本当の平和が与えられます。