大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅰ第2章1~6節

2021-08-08 14:11:43 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月1日日大阪東教会主日礼拝説教「わたしのもとに来なさい」吉浦玲子 

<神との関係> 

 ペトロは語ります。「だから」、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の父を慕い求めなさい」。「だから」と冒頭にあります。もともと、聖書の原典には章や節という区切りは存在しません。ヘブライ語で書かれた旧約聖書も、ギリシャ語で書かれた新約聖書も、もともと章や節はありませんでした。章ができたのは13世紀くらいで、節ができて普及したのは、15世紀から16世紀にかけてで、かなり遅いのです。今日、私たちは章や節で区切られた聖書を普通に読んでいますが、ペトロの手紙も、もともとは基本的には最初から最後まで区分けはされずに読まれていたものです。今日の聖書箇所、2章の冒頭が「だから」で始まるのは、当然、前の箇所からの流れで語られています。前からつながっているところが章としては分断されているのは変だと感じられるかもしれませんが、それはあくまでも章や、節というのが、後付けで便宜的につけられたことから来ていることです。 

 そして、この「だから」は1章でペトロが語っていた私たちは、今、旧約聖書の時代の預言者が見たいと願っていた救いを見、すでにイエス・キリストのゆえに聖なる者とされているといったことを受けています。そして今、私たちは朽ちることない永遠の神の言葉を聞いています。「だから」、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去るのだとペトロは語ります。しかし、そもそも、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」というのは、信仰をもっていようがいまいが、この世にあって、一般的に良くないと事と考えられています。悪意ある言葉や、嘘偽り、偽善的な態度、人のことを羨む態度、正当な批判や議論ではなく、ただ人をあしざまに言うような態度は、この世においても嫌われるものです。ペトロはそんな当たり前の道徳や処世についてのことをここで語っているのでしょうか? 

 しかし、よく考えて見ますと、たとえば旧約聖書の律法でも、読みようによってはごく一般的な倫理的道徳的な勧めのようなことが書かれています。たとえば律法の神髄ともいえる十戒の後半は人間と人間のあり方についての勧告ですが、そこには「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、偽証するな、隣人の家を欲するな」という戒めが記されています。それらはある意味、神に言われなくとも、人間がこの世界で共に生活していくために必要なことでもあります。特に、「偽証するな、隣人の家を欲するな」というところは、ペトロの語る「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」とその根っこのところで重なります。悪意を持って偽りの発言をするのですし、自分をよく見せようとするのです。ねたみや悪口は神の与えてくださることに満足できず隣人を羨むところから起きてきます。 

 今、神の与えてくださることに満足できないから羨ましがると申しましたが、十戒の前半は、神との関係における戒めでした。わたしをおいてほかに神があってはならない、神の像を造ってはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を聖別せよ、このような戒めがありました。 

 神以外のものを神としたり、偶像崇拝をしたり、神を自分の都合で利用してはならない、そして安息日という日々の業を止めて、神を礼拝する時を持ちなさいということは、現代において、あまりピンとこないことかもしれません。私たちは別にイスラエルの民が行ったように金の子牛を拝んだりしていないし、日曜日にはちゃんと礼拝に来ています。もちろんそれはそれだけで実際、大変素晴らしいことです。ことにこの日本において、日曜日に礼拝を捧げるということは、大なり小なり、生活においてさまざまに調整しないと難しいことが多いのですから。 

 しかしまた、自分を振り返る時、本当に神以外のものを神としていないか、金の子牛は造っていなし、バアルの神も拝んではいないけれど、神以外のものを神以上に大事にしていないかということは問うべきことではないかと思います。そして、聖書を長くお読みの方はご存知のように、実際、イスラエルの民は、神の戒めに従えなかったのです。旧約聖書の時代、異教の神に仕えたり、偶像に仕えたりました。神のみを神としなかったのです。一方、新約の時代になって、イスラエルの人々は律法を大事にするようになりました。しかし、今度は、律法守ること自体が目的となりました。律法を守るという行為、宗教的な態度をとるという姿勢によって救われると考えるようになっていました。本来の神の戒めの意味、そこにある神の愛を無視して、表面的に律法や宗教行為自体を大事にしました、そこには平安はありませんでした。神との健全な関係ありませんでした。神との健全な関係が破たんした時、人間同士の関係も破綻します。そこに「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」が出て来るのです。 

<霊の乳をいただく> 

 これらのことは信仰のあるなしに関わらずこの世においても良いこととはされていないとさきほど申しましたが、これらのことは、神との関係が健全でない場合、人間がどれほど努力をしても逃れることはできないことです。人間は悪意やねたみを口に出したりはしなくても、心の中についつい思っていたり、気づかぬうちに行動で現れたりします。主イエスを十字架につけた権力者たちの醜い妬みや嘘、「主イエスを十字架につけろ」と叫んだ民衆の自分中心的な心はそもそもが神との関係が破たんしている所から出てきました。そして私たちもまた神を知る前、キリストによって贖われる前は、同じ心を持っていました。 

 キリストによって贖われた今も、私たちはついつい「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」に傾いてしまいます。ほかならぬ教会の中においてもそうです。だから「乳飲み子が乳を求めるように、混じりけのない霊の乳を求めねば」ならないのです。私たちは自分を大人だと思っていますが、神の前にあっては乳飲み子に過ぎません。しかし、逆に言いますと、求めさえすれば、親が泣く乳飲み子のところに駆けつけるように、神は私たちに豊かに霊の乳を与えていただける存在でもあるのです。 

 もちろん、神の前にあっても、私たちは成長しなければなりません。少しずつ「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」から離れなければなりません。それらのことから離れる時、私たちは「救われるようになる」とペトロは語ります。これは「救いに向かって成長する」「救いにおいて成長する」ということです。私たちはキリストの十字架によって救われました。救われたけれど、人の悪口を言ったら、救いから切り離されるのか、ということではありません。すでに救われながら、なお、私たちは完全な者ではありません。しかし、キリストと共に生き、霊の乳、すなわち御言葉を求めて生きていくとき、私たちは少しずつ、救われた者にふさわしい者として成長していくのです。 

 「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」そうペトロは語ります。私たちは神の恵みの内に成長していくのです。時々、「クリスチャンとして成長したい!」と強く願って頑張る人がいます。私もどちらかというと、昔、そんなタイプでした。しかしむしろ、成長は神の恵みを深く知ることによって促されます。ああ神様に助けていただいた、そんな体験を繰り返していくとき、私たちは神の恵みをより深く知ります。しかしまた逆に言いますと、実際のところ、私たちはすでに知っているのです。主が恵み深いことを。ペトロも、あなたがたは味わいました、と語っています。私たちはすでに神の救い、恵み、助け、支えをすでに味わっているのです。信仰歴の長い人も短い人も。<数えよ主の恵み>という讃美歌がありますが、いくらでも私たちは主の恵みを数えることができると思います。 

<主のもとに来る> 

 だから、私たちは主のもとに来ます。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」と新共同訳では二つの文章で訳されていますが、原文では「人々からは見捨てられたが神のもとで選ばれた貴い生きた石である主のもとに歩み寄りなさい」と一つの文章となっています。私たちは、生きた石であるキリストのもとに歩み寄ります。これが私たちの礼拝です。そしてそのキリストは、人間に捨てられ十字架にかかられた石であるお方でした。しかし、父なる神のもとにもともとおられた尊い石でした。私たちはこの尊い石のもとに歩み寄り礼拝を捧げます。 

 それは、単なる儀式ではありません。私たち自身も生きた石として用いられるために、また霊的な家を作り上げるために用いられるのです。用いられるというと、奉仕をするとか、伝道的なことをするという風にとらえられがちですが、まず第一には霊的にキリストと交わるということです。キリストのもとにきて、キリストにすっぽり包まれる、キリストと深く交わり、一体化するということです。この「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」に傾く者が、キリストのもとに来た時、キリストの内側にすっぽり入れていただけるのです。季節外れの譬えになりますが、六月に教会の庭に咲いていた紫陽花は、あの大きな花が一つの花のように見えますが、実際は複雑な構造をしています。両性花と呼ばれる部分が中央にあって、周囲に装飾花と呼ばれる部分があります。一般に私たちがアジサイの花と思っている部分は装飾花の部分になります。両性花にしても装飾花にしてもそれぞれ細かい花なのです。それらが集合して、紫陽花の花を形作っています。私たちもまた、教会という全体の花を形作る一つ一つの花です。キリストの元に来るとき、私たちはそれぞれにキリストがデザインされた花の一部とされます。 

「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」キリストは聖なる大祭司としてご自身を十字架にいけにえとして捧げられました。キリストの元に来た私たちもまた自分を捧げます。自分自身を霊的ないけにえとして捧げます。それは難しいことではありません。ご自身を捧げてくださったキリストへの感謝の思いをもって、キリストのもとに来るとき、私たちはすでに神への尊い捧げものとされています。この会堂に集っている方たち、そしてネットで礼拝を捧げておられる方々、郵送された説教によって礼拝を捧げられる方々、それぞれにすでに良き捧げものとして神に受け入れられています。 

 私たちは、これから、それぞれの場に戻ります。この世の、日常に戻ります。しかし、キリストへ自分を尊い捧げものとして捧げた一人一人は、日々においても、キリストの内にすっぽりと包まれています。キリストの内にあって、キリストを形作る花とされています。私たちはそれぞれの場において、ちっぽけな存在に過ぎません。悪口を言ったり、人を羨んだり、愚痴をこぼしたりします。しかし、すでに私たちはキリストを形作る花の一部なのです。そしてその輝きはすでに現れているのです。さらに主に近づき、その輝きを終わりの日まで増し加えていただきます。