大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅰ第1章13~20節

2021-07-25 16:09:18 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月25日日大阪東教会主日礼拝説教「聖なる生活」吉浦玲子 

<再臨> 

 ペトロは「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 」と語ります。聖書箇所のこの前の箇所では、キリストの十字架による救いの成就は旧約聖書の時代の預言者も、天使すらも見て確かめたいと願っていたことなのだとペトロは語っていました。その預言者たちや天使すらも待望していた救いが成就された世界に、今私たちは生きています。「だから」さらに未来に向かって待ち望みましょう、とペトロは語ります。ここで「キリストが現れるとき」というのは、キリストがこの世界にふたたび来られる再臨の時のことです。これはいつのことか分かりません。明日かもしれませんし、千年後かもしれません。竹森満佐一牧師は東京神学大学で学生に教えておられたころ、神学生たちに「明日、キリストの再臨があるかもしれない。いつキリストが来られても良いように日々過ごしなさい。学生寮の部屋が汚くてキリストをお迎えできないなんてことがないように、ちゃんと掃除しておくように」とおっしゃられたそうです。実際、どんなニュアンスでおっしゃったのかはわかりません。厳しい感じで言われたのか、半分ユーモアでおっしゃったのかはわかりませんが、心にとどめるべき言葉だと思います。掃除と言われると、かなり耳が痛いですが。 

 私たちが礼拝ごとに告白しています使徒信条にありますように、今このときは、「全能の父なる神の右に座しておられる」キリストが、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁き給う」、その時がキリストがこの地上にふたたび現れられる再臨です。キリストの再臨の時は、世界の完成の時、救いの完全な完成の時であり、裁きの時です。この再臨の時を待ち望むのが、私たちの信仰生活の核です。裁きの時というとなにか恐ろしい気がしますが、キリストを信じる者にとって、それは希望なのです。キリストを信じるということは復活のキリストを信じるということです。キリストが肉体をもって復活なさったことを信じるということです。 

 ペトロは「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」と語っています。キリストを信じ、復活を信じる者は、その再臨の時、裁きの時に、恵みを与えられるのです。神の罰や呪いではなく、恵みを与えられる、それが私たちの希望です。逆に言いますと、その再臨の希望がないところに、まことの神への信仰はありません。再臨は、神であるキリストが肉体をもってこの世界に来られ、肉体をもって復活をされ、ふたたびその肉体をもってこの世界に来られるという、非常に生々しいことなのです。再臨はなにか精神的なこと、寓話的なこと、象徴的なことではないのです。私たちがいま、指を切れば血が出ます。そのような現実的な生々しい出来事としてキリストの再臨はあります。 

 教会で葬儀をする時、天国でまた会いましょうと亡くなった方をお送りします。しかしそれは単純な意味で、あの世で会いましょう、私たちの霊魂は不滅です、と言うことではありません。なぜなら私たちの肉体が滅ぶとき魂も基本的には滅ぶのです。キリストがふたたび来られるまえに、私たちの地上の命が終わっていたら、キリストが「生ける者と死ねる者を裁き」の座に立たせられるまでは、私たちの霊魂がどのような状態にあるのかは聖書は明確には語っていないのです。ただはっきりわかっているのは、キリストが再臨なさる時に、私たちの肉体が復活し、私たちは裁きの座に立つのです。その裁きを抜きにして「あの世」も「天国」もないのです。復活の信仰、そして再臨の信仰のないところで天国、永遠の命というものは虚しいことなのです。 

<心を引き締め、身を慎む> 

 そのことを考える時、私たちの日々の生き方というのが定まってくるのです。竹森先生がおっしゃる部屋の掃除もそうですけれど、仕事においても、家族とのあり方においても、日々のさまざまなあり方をとっても、根本が定まるのです。根本が定まるとはどういうことかというと「いつも心を引き締め、身を慎む」ということです。この部分は、しっかり腰を据えて、しらふのようでありなさいというニュアンスです。しかし、これはいつも緊張してストイックな生活をしなさいという道徳的な勧めではありません。神に救われている者として、当たり前の生活をしなさいということです。 

 福音書の中に、主人が出かけている間、しっかり働いている忠実な僕と、そうでない僕の話があります。忠実なしもべは主人に言われた通りに働き、主人が帰って来たときも、変わらず働いている姿を見ていただきます。しかし、悪い僕は、主人の帰りが遅いと思って仲間を殴ったり、飲んだり食べたりします。そこに主人が突然帰って来て、罰せられます。忠実な僕はいつも通りの働きをしていたのです。なにか新しいことをしたとか、特別立派なことをしたわけではなく、やるべきことを腰を据えて、普通に行ったのです。「心を引き締め、身を慎む」といっても、一切の楽しみもない、がちがちな生活をしなさいといわれているわけではありません。品行方正であれと言っているわけではないのです。 

 先ほども申し上げました再臨のキリストから与えられる恵みを待ち望む時、私たちはごく普通に節度ある生活をしながら、日々を歩むことができます。再臨の希望がない時、あるいは弱くなる時、私たちの日々はその場限りのものになります。もちろんそれぞれにやるべきことを持ち、精一杯に生きていきますが、そこには本当の意味での希望ややすらぎはありません。実際のところ、この世界ではうまくいくことも、失敗することもあります。褒められることもあれば、頑張ったのにあまり評価されない時もあります。しかし、終わりの時、私たちは必ずキリストから恵みを受けるのです。日々、たしかに私たちは一喜一憂しながら生きていかざるを得ませんが、しかし、究極的な終わりの日、再臨の時の恵みの希望があります。ですから日々の一喜一憂を越えて、豊かに日々を生きていくことができるのです。 

 以前も説教で触れたことがありますが「パウロ~愛と赦しの物語」という映画の最後、ネタバレになりますけど、迫害され、投獄され、処刑されたパウロが、天の国と思しき場所で、キリストと出会う場面があります。映画は迫害の場面がかなり生々しく描かれていて特に前半は見るのが辛いところも多々ありました。全体に明るい映画ではありませんでした。最後に、死んだパウロは、パウロ自身が回心前に迫害して殺した人々とも出会うのです。これはもちろん映画としてフィクションの物語ですが。パウロに迫害され死んだ人々は喜んで走り寄ってパウロを迎えるのです。パウロは感慨深い表情をして、彼らと出会います。さらに振り返ると、キリストらしき人影が見えるのです。その姿を見て、パウロは驚きと万感の思いのこもった表情をして映画は終わります。そこでキリストがパウロにねぎらいの言葉をかけるとか、美しい感動的な情景が描かれているわけではないのですが、とても胸を打たれる場面でした。天国でお花畑のようなところで、幸せに暮らすというようなものではなく、ただキリストと出会うのです。しかし、そのキリストとの出会いこそが究極の希望なのだということを感じせる映画でした。 

 たしかに、私たちはやがてキリストと出会います。今も日々、祈りと御言葉によってキリストと出会いますが、再臨の時、顔と顔をはっきりと合わせます。それは本当に恵みなのです。私たちのこの人生のすべてはただその時のためにあると言っていいでしょう。キリストあいまみえ、私たちのすべての罪も涙も、すべて完全にぬぐい取られ、労苦はすべて報われる。誰からも顧みられなかったことも、理不尽な思いをしたことも、すべてキリストが受け取ってくださり、すべてにまさる平和と喜びを与えてくださる。その恵みはわたしたちのこの地上のすべてにまさるものです。だからこそ、私たちは、この地上において「心を引き締め、身を慎む」ことができるのです。大いなる祝福が待っているから、私たちはこの地上を節度を持って、普通に歩んでいくことができます。 

<私たちを呼んでくださる方> 

 「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」とペトロは続けます。無知であったころとは、キリストを知らなかった頃、ということです。私たちは無知でした。しかし自分たちは賢いと思っていました。いま世界は自分たちは賢いと思っている人たちにーいや実際、ある意味、彼らは賢いのですが―牛耳られています。世界中にバベルの塔が立ち並んでいます。賢い人々が、自らの知恵と力と権力をもって、この世界にさまざまなハードウエア、ソフトウェア、サービスを作り、コンテンツを作り、排他的な権力機構を作り、権力の囲い込みを行っています。私たちひとりひとりはそんな世界にあって、基本的には弱く愚かな者です。吹けば飛ぶような存在です。しかし、ペトロは言うのです。私たちは今、無知ではないと。世の中にたくさんいる天才や秀才とは違うかもしれないけれど、私たちにはすでにまことの知恵が与えられているのです。聖霊によって与えられています。かつては欲望にひきずられていた、欲望というと、なにか品のないことのように思いま+すが、神に栄光を帰さないことはそれはすべて人間の欲望と言えます。誰かのために良かれと思って行う行いも、さらには、宗教的な行為すらも、結局自分の欲望を満たしているだけということもあります。 

 「召し出してくださった聖なる方」とペトロは書いています。召し出してくださったという言葉は、「呼び出してくださった」ということです。コ―リングです。わたしたちひとりひとり、それぞれに神の呼ばれた者です。神が呼んでくださった、キリストが呼んでくださったのです。それぞれに、さまざまな理由で教会に来られたでしょう。聖書を手に取られたでしょう。誰かに誘われた、家がクリスチャンホームだった、悩み事があった、信仰を求めていたわけではなく何となく興味があって教会に来た、さまざまな経緯で、今ここに皆さんはおられます。しかしすべての方がキリストに呼ばれたから今ここにおられるのです。自分の意思で、場合によっては、家族の反対を押し切って教会に来た、この場に来ることさえ、かなりの努力の末に来られている方もおられますし、会堂に来ることが叶わず、ネットで礼拝を捧げておられる方もおられます。しかしそのすべての方がキリストに呼び出されて、いま礼拝を捧げておられます。 

 変な話ですが、人間であれば、あの人は好きだから呼ぼうとか、あの人は困った人だから呼ぶのはやめようということがあります。しかし神は私たちを呼んでくださいました。私たちは神に呼ばれるにふさわしい者だったからでしょうか?そうではなかったのです。無知であり、罪人でした。罪人であることすら知りませんでした。しかし、キリストは呼んでくださったのです。汚れのない、罪のない、聖なるお方が私たちを呼んでくださいました。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである。」聖なるお方が無知で罪にまみれていた私たちを呼んでくださいました。キリストのゆえに聖なる者とされたからです。すでに私たちは聖なる者とされました。聖なる者とされているのだから聖なる者にふさわしく生きるのです。もちろん、私たちの日々は完全な者ではありません。しかしなお、キリストに従順に生きていくとき、私たちは完全に聖なる者と変えられていくのです。