大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅰ第1章5~7節

2021-07-04 16:18:16 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月4日日大阪東教会主日礼拝説教「終わりの時」吉浦玲子 

<終わりの時> 

 「あなたがたは終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」こうペテロは語ります。ここで、「終わりの時」とあります。終わりというと、「ジエンド」であり、一般的には、あまり良いものとは考えられません。「ああ、わたしはもうおしまいだ、おわりだ」という言葉は絶望の言葉です。しかし、聖書が語る「終わりの時」は、神の救いが完成する時です。聖書の神を信じる私たちは終わりの時の希望に生きています。そう聞いても、特に若い方は、何か遠い先のことのように、自分とは関係のないことのように思われるかもしれません。終わりの時は、ゴールと考えていいかもしれません。いま、ペトロの手紙を読んでいますが、しばらく前まで読んでいました使徒言行録に登場したパウロは、よくマラソン競技のように信仰を守って走り抜くという表現を使いました。私たちはこの地上をゴールを目指して走るのだと。単純に、この世は良くないけど、あの世はすばらしい、いまはしんどくても天国では楽ができる、ということではありません。私たちはこの地上を走り続けるのです。そしてゴールを目指すのです。ゴールが必ずあり、目指すものがあるということです。 

 ある牧師から、伝道牧会について励ましの言葉を受けたことがあります。何人かの方にはお話ししたことがあるかもしれません。「これからも苦難や試練はあるでしょう、でも、あなたが誠実にこの道を走り通して、御国についたとき、先にゴールしていた多くの先人が拍手をしてあなたを迎えてくれる、スタジアムで皆が、スタンディングオベーションして迎えてくれる」と言われました。それはおもしろいなあとその時、私は感じました。それは作り話めいているようで、腑に落ちるイメージでした。ゴールを切ったわたしを迎えてくれる人たちの中には知った人もいるかもしれないけど、知らない人もたくさんいるだろう、パウロとかペトロもいるかもしれない、そう考えると、ちょっと愉快でした。なにか力づけられるような胸が熱くなるようなイメージです。 

 私たちはゴールがあるから走り続けられるのです。一方で、私たちの人生にはさまざまなそのときどきのゴールがあります。入学試験に通って学校に入学する、それも試験勉強をしていたときには先に見ていたゴールです。しかし、入学してそれで終わりではなく、さらに上の学校に行くための試験があったり、職業に就くための関門があります。結婚、定年、人との別れ、さまざまなゴールが人生にあります。そのひとつひとつは聖書の言う終わりの時にくらべたらたいしたことないなどということはありません。私たちはこの地上で生きていくとき、一人一人のそれぞれの人生の上でのゴールを目指して生活します。それも大事なことです。大事なことですが、ただ地上のゴールだけを見ている時、私たちはこの地上のそれぞれのゴールにたどり着いたとき、そこでばたっと倒れて、あとが見えなくなったり、あるいはそれから先に何をしていいか分からないような虚しさを覚えたりするかもしれません。子育てが終わった時、定年を迎えた時、そこからどう人生を生きていけば良いのか分からなくなる人がいます。ひとつひとつの地上のゴールはたしかに大事なのです。でも、そこで終わりではない、本当の終わりがある、そう思ってこの地上を歩む時、かえって、この地上のひとつひとつのゴールも輝くのです。 

<神の力に包まれて> 

 その本当のゴール、終わりの時、救いが現されます。キリストの十字架によって救いは成就しました。しかし、終わりの時、救いが完成し、その救いがはっきりと私たちに現されます。その時まで、私たちは守られるのだとペトロは語ります。信仰によって、信じる者は、神の力によって守られるのです。終わりの時まで、さまざまに試練や紆余曲折があります。しかし、私たちは守られるというのです。 

 生まれながらに目の見えない友人がマラソン大会に出場されたことがあるそうです。そのときには一緒に走ってくれる伴走者がついてくれたそうです。1メートルほどのテープを友人と伴走者が持って、伴走者が周囲の状況などを伝え危険回避を図りつつ一緒に走るのだそうです。大会では、あくまでも選手として出場しますから伴走者は選手を引っ張ったりして加速させてはいけませんから、選手と並行か少し下がった位置で走るそうです。ただ危険が迫っている時は、前に出て制止したりすることはあるそうです。ここにいる私たちは目が見えますが、私たちの人生には神様が伴走してくださっているといえます。テープでつながっているのではなく、もっと強力に私たちをすっぽり包んで安心して走れるようにしてくださいます。もちろん、自分の足で走りますから、途中で転んだり、迷うこともあるかもしれません。でも目の見えない人のためお伴走者と同じように、本当に危険なことからは守られるのです。 

 <神の力により守られている>とペトロは語ります。この力とはデュナミスというギリシャ語です。「主の祈り」の最後に「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり」と神を賛美する言葉がありますが、この部分の力と同じ言葉です。デュナミスとは、ダイナマイトの語源となった言葉です。ダイナマイトのように強い力、爆発的な力ということです。爆発的な神の力です。その力が私たちに及んでいるのです。そして「神の力により」と訳されていますが、この言葉は、ニュアンス的には、「神の力の中で」といえる言葉です。私たちはすっぽりと神の爆発的な力の内に包み込まれているのです。何か困った時、ひょいと神様が手を伸ばして救ってくれる、というより、すでにすっぽりと私たちは神の力の内に入れられているのです。特殊なシールドといいますか、目に見えない宇宙服のような防具によって守られているようなイメージです。 

<試練のゆえに> 

 「それゆえ、あなたがたは心から喜んでいるのです。」そうペトロは語ります。ここは少し面白い言い方だと思います。普通、喜んでいる人は、喜んでいる理由は分かりそうなものです。試験で良い点数を取ったとか、誰かに感謝されたとか、育てていた植物が花を咲かせたとか、普通何か良いことがあったから喜んでいるのです。ペトロはここで、それゆえ、といいます。つまり神の財産を受け継ぐから、また、神の力によって終わりの日まで守られているから、あなたたちは喜んでいるのだと前の部分から引き継いで、あえて喜ぶ理由を語るのです。 

 さらに「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と続きます。私たちはゴールを目指して走ります。ゴールは近いのか遠いのか分かりません。そしてその道々に試練はあります。私たちは試練の時、喜びを忘れます。いえ試練ではなくても、一生懸命走っている時、喜べないかもしれません。先週、私は少し体調の悪い時がありましたが、そういうときは喜ばしい気持ちにはなれません。しかし、神の力に守られて走っている時、なおあなたたちは喜びの状態にあるんだとペトロは言うのです。神の爆発的な力に守られている、そしてたしかなゴールがある、だから試練はあっても、あなたたちは喜びの状態にあるのだとペトロは語っています。良いことがあったから喜ぶということを越えた喜びが私たちには与えられているのだとペトロは語ります。 

 「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」とあります。私たちは試練というテストをくぐり抜けて合格したら本物と信仰において合格点をもらうのでしょうか?そうであれば、私などは、不合格の連続になりそうな気がします。あなたの信仰はいつまでもたっても本物じゃないと言われそうな気がします。 

 考えてみれば、ペトロ自身が、試練にあった人でした。試練の中で、キリストを三回も知らないと否認をした人、キリストを裏切ってしまった人です。ある意味、ペトロは、「あなたの信仰は本物ではない」と突きつけられた人です。しかし、ペトロはそこから立ち直った人でもあります。なぜ立ち直ることができたのでしょうか?それは主イエスが祈ってくださっていたからです。主イエスはペトロが裏切ることをご存じでした。主イエスはご自身が逮捕される前、ペトロにこうおっしゃっていました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。(ルカ22:31-32)」ペトロはたしかにふるいでふるわれてしまいました。試練にひとたび負けたのです。しかし、主イエスはペトロのために祈ってくださっていました。ですからペトロは、復活のキリストと出会い、ペンテコステの後、伝道者として新しく生きていくことができたのです。 

 ふるいにかけられること自体は信仰において悪いことではありません。そのときはたいへん辛いことですが。一般的に小麦の粉がふるわれる、ということは粉の粒度がそろえられることです。塊や不揃いのものが取り除かれ、均一に滑らかにされ、おいしい食べ物を作るために用いられます。私たちも人生においてふるわれます。おして、私たちのためにも主イエスは祈っていてくださるのです。信仰がなくならないように、と。 

 私たちはひととき「あなたの信仰は本物ではない」と思わされるような自分の現実と向き合います。しかしすでに私たちは主イエスに祈っていただいているのです。そして、試練から立ち直らせていただくのです。試練の前よりも、粒のそろった小麦のように用いられる者とされるのです。そして「あなたの信仰は本物だ」と言っていただけるのです。そして、「火で精錬されながらも朽ちるほかない金」よりもはるかに素晴らしい存在とされるのだとペトロは語ります。やがて来られるキリストがそんなわたしたちに「称賛と誉れと光栄をもたらす」というのです。ここは口語訳では「さんびと栄光とほまれとに変わるであろう」と訳されています。 

 私たちはこれからも何度も失敗をするかもしれません。罪を犯すかもしれません。しかし、私たちはすでに主イエスに祈っていただいているのです。主イエスの祈りのゆえに、私たちは金よりも貴いものとされ、称賛をいただく者に変えられます。走りはじめたときは、おぼつかないよちよちした走り方だったかもしれません。誘惑に負けて道をそれてしまうときもあるかもしれません。しかし、それでも神の爆発的な力に包まれて守られます。キリストに祈られた者として守られます。だから私たちは変えられるのです。ですから、終わりの時、私たちはまるで一流のアスリートのようにゴールを切るのです。私たちは万雷の拍手に迎えられます。誰よりも喜んで、そのゴールにおられるのは、絶えず私たちのために祈ってくださっている主イエスなのです。