大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第1章8-9節

2021-07-11 14:31:59 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月11日日大阪東教会主日礼拝説教「見えないものを愛する」吉浦玲子 

<なんたる恵み> 

 ペトロは語ります。万感の思いをもって語ります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」 

 キリストが地上におられた時、十字架の前も、復活ののちも、一番近くにいたペトロです。キリストとただ二人だけで語りあったこともある、多くの弟子たちの中で、キリストのもっとも近くにいたペトロでした。そのお姿も、声も、ちょっとしたしぐさや癖も知っていたでしょう。キリストの奇跡も目の前で見たのです。なんといっても復活のキリストと出会ったのです。そんなペトロが肉体においてキリストを実際に見たことのない人々の姿に驚いているのです。彼らはキリストを愛している、信じている、そして、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 

 2000年前の信徒たちは、キリストを実際に見たことのある初代教会の弟子たちから、生々しく主イエスの話をよく聞いているから、見たことがなくてもキリストを愛し、信じ、喜びに満たされていたのでしょうか?キリストを実際に見たことはなくても、自分たちが生きている同時代に起こった十字架の出来事に対して、リアリティを感じられたから信じることができたのでしょうか?翻って、2000年後の私たちは、直接のキリストの目撃者から話を聞くこともなく、十字架の出来事のリアリティも感じられないから、ペトロが語っている人々とは異なるのでしょうか?しかし、そうではないのです。ペトロが目の当たりにして驚いている人々は私たちのことでもあります。ペトロの言葉は、キリストを直接肉眼で見ていないすべての人々に語られているのです。 

 いくたびかお話をしたことですが、かつてのこの教会の長老が天に召される前、最後の聖餐式を病室で行いました。ほとんど言葉もはっきりしない、寝たきりの状態で、飲食もできない中での最後の聖餐式でした。パンをぶどうジュースにひたして唇に触れました。もう召しあがることはできなかったのです。ご本人は食べたいと願われ、口を大きく動かされました。しかし、食べることは禁じられていたので、とても心苦しかったのですが、唇に触れるだけにしました。そのような聖餐式でしたが、私の感謝の祈りの後でしたか、その長老は、はっきりと大きな声でおっしゃいました。「なんたる恵み!」と。もう物理的にはほんの小さなパンのひと切れも食べることはできない、寝たきりで、ベッドの上での、短時間の簡易的な聖餐式でした。しかし「なんたる恵み」と叫ばれたのです。そこに本当の恵みがあったからです。立派な食事をしたからではない、元気を回復して、だれかれと楽しく懇親をしたからでもない、ただ聖餐の場にキリストがおられたから、そこに恵みがあったのです。キリストがおられたといっても、幻覚のようにキリストのお姿が見えたわけではないでしょう。あるいは実際に、長老にはキリストが見えていたかもしれません。聖霊によってキリストが示されたのです。復活の生けるキリストがおられたのです。だから「なんたる恵み」と叫ばれたのです。 

<目に見えないこと> 

 ところで、最近、教会員の方、そしてまた教会員ではありませんが、教会に集ってくださっていた方にお子さんが誕生しました。このコロナの禍の中、明るいニュースです。命の誕生というのは貴く、喜ばしいものです。実際のところ、新生児というのは驚くほど小さい存在です。お乳を飲ませたり、おむつのお世話をしたり、大人がさまざまにあれこれとしてあげないと生きていくことのできない、ある意味、弱い存在です。しかしまたその小さな、一見弱いと思われる存在が、命に満ちあふれているのです。眠っていても、泣いていても、命があふれている。抱くと、ずっしりと重く、たしかな存在感があります。 

 ひるがって大人はどうか?年年歳歳、年を取り、体は老いていきます。老齢にはまだ遠いと思われる年代の方でも、青年期を過ぎると少しずつ肉体は衰えていきます。新生児や、幼子がもっている命のほとばしりのようなものを失っていくように感じます。私自身、会社員時代は、比較的、若く見られ、元気な感じだったのですが、さすがにここ数年は、なにかちょっとしたトラブルがあって病院に行っても「老化ですね、加齢のせいです」と言われるようになりました。<加齢だから仕方がない>これほどがっかりする言葉はありません。薬を飲んだら治るとか、なにか鍛錬したら回復するというなら希望がありますが、「加齢です」で済まされると、仮に症状自体はたいしたことはなくても、本当にがっかりしてしまいます。 

 でも私たちは知っています。私たちの外なる人、肉体は衰えても、内なる人は日々新たたにされるということを。これは単に、心を若く持て、という精神論ではありません。わたしたちは実際、新しくされるのです。私たちは復活の命に生かされているからです。キリストの復活の命に生かされている時、私たちは日々、新生児のように、幼子のように、命に満たされたものとされます。 

 信仰生活が長かろうが短かろうが、私たちは復活の命のなかにあります。キリストはすでに私たちのために十字架にかかられ、死んで、復活をなさいました、その復活の命にすでに私たちは与っているのです。洗礼を受けたということはそういうことです。洗礼の時、皆さんはひとたび死にました。キリストと共に十字架にかかったのです。そして洗礼の水によって、新しく生まれられた。ヨハネによる福音書第3章で、主イエスがニコデモにおっしゃっました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」皆さんは、すでに水と霊によって生まれ変わったのです。新しくされました。自分が新しくされたか古いままか、それは、信仰において信じるべきものです。信仰によらなければ分からないことです。肉体に変化が見えるわけでも、性格が変わるわけでもありません。目には見えないことです。 

 目には見えないけれども、私たちは信じている、信じているから、今ここで共に礼拝を捧げているのです。礼拝を捧げるということは、キリストの復活を証しする者として集うということです。横に座っている人の名前も住所も知らないかもしれない、しかし共にキリストの復活の命に生かされている、そこにまことの教会の交わりがあります。言葉を交わさなくても、真実の愛の共同体が立ち上がるのです。そしてまた、ここに未信徒の方がおられるとしたら、その方々に、私たちが復活の命に生かされている者であることを感じ取っていただくのです。それが礼拝です。 

 ペトロの言葉は、いまここにいる私たちに与えられている言葉なのです。私たちもまた、肉眼ではなく、キリストと出会うのです。病室での聖餐式におられたキリストがここにもおられます。この礼拝の場で出会うのです。「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」とは、「言葉で言い表せない栄光に満ちた喜び」「輝かしい喜び」なのです。しかし、それは無理やりに喜ぶ喜びではありません。時にはワーシップソングを歌って飛び跳ねたくなるような喜びもあるかもしれません。しかしまた、あるときは、静かに祈りながら、じんわりと心があたたかくされるような喜びもあります。まだ洗礼を受けて間もないころ、大きなトラブルがあってたいへんな時でしたが、ひとまず礼拝に行きました。正直、それほど礼拝に集中はできませんでした。こんなだったら、家にいた方が良かったかもしれないと思いました。どうにか礼拝を終えて、家路を急ぎました。しかし、会堂を出て、駅までの道を急ぎながら、はっとしました。来た時と景色が違って見えるのです。来るときは、トラブルで心がざわついていて、公園で子供たちがキャッチボールをしている声もうるさく感じられていた。でも帰り道、不思議なことに心が落ち着いていたのです。公園の植物も子供たちの声もなにか穏やかに感じられたのです。けっして礼拝に集中できていたわけではないのに、しかし、身も心も、なんというか軽くされたのです。スキップしたくなるような喜びではありませんでした。しかし、たしかにそこに喜びがありました。キリストに与えられた喜びがありました。 

<信仰の実り> 

 「信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」そうペトロは語ります。キリストと出会い、喜びを与えられている私たちは信仰の実りをすでに受けているのです。信仰の実りを受けているから喜ぶのです。しかし実りといっても、私たちは、実際のところ、他の人の信仰を外から見ることはできません。信仰熱心そうな姿、謙遜そうな物腰であっても、その人が本当にキリストに出会い、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに生きているかどうか、実っているのか実っていないのかはわかりません。しかし、人のことは分かりませんけれど、自分のことは分かるのではないでしょうか? 

 日曜日ごとに、時間を作って礼拝に来ている。キリストは肉体の目に見えないけれど、礼拝を捧げ続けている。教会員の義務だ、クリスチャンだから当然という思いもどこかにあるかもしれません。しかし、そのときどきにはいろいろな思いがありながら、礼拝を捧げていくとき、なおそこに少しずつ、何かが蓄積されていくのです。キリストへ信頼する気持ちが蓄積されていくのです。雨だれがコップに一滴一滴落ちて、やがてコップを満たすように、私たちの内に、キリストご自身によって、キリストを信頼する心が蓄積されていく。私たちはすでに洗礼において救いを受けています。しかし、その救いの確信のあり方は人それぞれではないかと思うのです。しかし、だれでも、その確信は蓄積されていくのです。キリストを信頼する思いが深まっていくのです。キリストに信頼して、どんどんと自分の思いを手放していく、自分の手柄や力量から離れていくのです。すると、自分の中にキリストそのものが満ちていくのです。わたしが空っぽになるのです。自分が、自分がと思っていた思いがかき消えてしまう。自分が空っぽになります。しかし、自分がかき消えながら、本当の自分が現れて来る、キリストが満たしてくださり、救いの確信を与えてくださり、そこにキリストにすっぽりと包まれた、自分自身の本当の個性が出て来る。キリストに信頼し、キリストの命に生かされ、喜びに満たされた私たちとなります。私たちはどんどんと実っていきます。実らせていただきます。一滴一滴、豊かなキリストの命の水で満たされ、実っていきます。