大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書11章17~37節

2019-07-08 10:11:22 | ヨハネによる福音書

2019年1月6日 大阪東教会主日礼拝説教 「涙を流されたイエス」 吉浦玲子

<どうしようもない現実?>

 主イエスが愛しておられたラザロは主イエスが到着なさったときすでに墓に葬られていました。それも葬られて四日もたっていました。息を引き取ってから四日というのは、人間的に考えて、もうどうしようもない時間が経ってしまったということです。もう取り返しがつかない事態となっているということです。ここにはどうしようもない事態の中で深い悲しみに沈んだ人々がいました。困難のさなかであればまだその困難と戦うこともできたでしょう。しかしもうすでに戦いは終わっているのです。試合終了の笛はとっくになり、もう戦うべき相手すらいないのです。そして四日というのには当時として特別な意味があったようです。人間が死んで三日間はその魂が漂っていると考えられていたのです。それは聖書や教理に基づくものではなく、民間で信じられていた俗信です。その三日すらも過ぎた四日目ということになります。

  さて、ここに新約聖書の中で有名な姉妹が出てまいります。マルタとマリアです。ルカによる福音書の10章には、ことに女性には身につまされる有名な記事が載っています。マルタは働き者ではっきりとものをいう女性でした。それに対してマリアは静かに主イエスの話を聞いているような女性でした。マルタが人々の世話をするために忙しく立ち働いているときもマリアはずっと主イエスのそばにいて主イエスの話を聞いていました、それに対して、マルタは、マリアにも手伝うように言ってくださいと主イエスに言います。それに対して主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」とお答えになります。ここでは一見、マルタのように手伝いをすることよりも、主イエスの話を聞いているマリアの方が正しいと語られているように感じます。そしてまたたいていの女性は、自分は主イエスの話を主イエスの足元で熱心に聞いているマリアではなく、マルタのように大事なことを忘れてバタバタしていると思われるようです。しかし、逆に考えますと、率直なマルタはその率直さゆえにむしろ主イエスからもっとも大事な言葉をいただいた存在であったと言えるのです。「マルタ、マルタ」としっかりと呼びかけられ語られているのです。もっとも大事なことをいただいたのはむしろマリアではなくマルタだったとも考えられます。そもそも手伝いをしないマリアが良くないと思うのなら、マルタはマリアに直接言えばよかったのです。でもマルタはマリアではなく主イエスにマリアのことをどうにかしてくださいと願いました。現代でも女性同士のもめごとの仲介に男性が巻き込まれてあたふたするということがありますが、この場合は少し異なります。マルタにとって実は大事なことはマリアの問題ではなく、イエス様はどうかんがえているのか、どうしてくださるのかということでした。それをマルタは主イエスに直球で問いただしたのです。そしてもっとも大事なものをいただいたのです。

  今日の聖書箇所でもマルタは率直です。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったことでしょうに。」とマルタは主イエスに語り掛けます。これは率直に主イエスが遅れてこられたことを残念だと言っているのです。。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」続く言葉は、批判めいた前の言葉を少しフォローするようなイメージもあります。あなたの力を今でも私は信じていますと言っています。そしてまたここでマルタが「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると承知しています」というマルタの言葉には決定的に欠けていることがあります。ラザロの死ということを前にして、もはや主イエスの力も及ばないという認識がマルタにはあります。主イエスの神に願う力が及ぶのはラザロが墓に入る前のことであるとマルタは考えていたのです。墓に葬られて四日もたったというどうしようもない現状を主イエスなら変えることができるという認識がマルタには決定的に欠けていたのです。もちろんこれは当然のことです。マルタでなくても、四日前に墓に葬られた人が生き返るなんてことは考えません。死というものは決定的で不可逆的なものです。

<あなたの兄弟は復活する>

  それに対して主イエスは「あなたの兄弟は復活する」とマルタに対して答えられます。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と答えます。このマルタの答えは当時の正統的な宗教の教理に基づくものです。もっとも当時、サドカイ派は復活を信じていませんでした。が、一般的にはユダヤ人は終わりの日に死者が復活するということを信じていました。  大事な人を失って悲しむ人に対して今日でも「また天国で会える」というのはせめてもの慰めといった側面があります。悲しみに寄り添うせめてもの励ましの言葉でもあります。しかし、逆に言いますと、決定的に、もうこの地上では愛する者と会うことができないということもはっきりと語っている言葉です。ラザロを墓に葬って四日たったマルタにとって終わりの日というのは頭では理解できても、あまりにも遠く今現実にある悲しみを覆うものではありませんでした。

 それに対して主イエスはおっしゃいます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。」これは驚くべき言葉です。復活はどこか遠いところにあるのではない、頭で理解した教理とか教えではない、ここにいるわたしこそが復活なのだ、私こそが死に打ち勝つ命なのだとご自身を指し示されたのです。いつか天国で会える、その希望はいまの現実において無力なものではなく、たしかなものなのだ、なぜなら私こそが命なのだから、とおっしゃっているのです。「生きていてわたしを信じる者は」と主イエスはおっしゃいます。復活は生きている者たちにとってリアリティのある真実なのだとおっしゃっています。そしてそのことを成し遂げる者は自分なのだと自分を示されました。人間を死から救い出す救い主としてのご自分を示されました。率直に主イエスに語り掛けたマルタに対して、主イエスは救い主としてのご自身を示されました。

  さらに畳みかけるように「このことを信じるか」と主イエスはマルタに問われます。救い主である主イエスに率直に語り掛けたマルタは、救い主から問われる存在でもありました。救い主と出会った者は逆に問われるのです。「このことを信じるか」、このことを理解したか?ではないのです。私が救い主であることをわかったか?ではないのです。「信じるか」なのです。主イエスと出会った者は、主イエスからご自身を信じるか否かを問われるのです。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えます。主イエスがメシア、救い主であると信仰告白をしたのです。

 <キリストと出会うとは信仰告白をすること>

  キリストと出会うということは、キリストへ信仰告白をするということでもあります。「わたしは主イエスを救い主だと信じます」という信仰告白を伴わないキリストとの出会いはないのです。キリストを知りました、キリストを理解しました、ということではないのです。もちろん私たちは生涯をかけてキリストを知ろうと努力します。キリストを理解しようとします。しかし、そのもっとも最初にあるべきことはキリストとの出会いであり、それは必然的にキリストを信じること、そして信仰告白をすることにつながります。そこから、死で終わりではない命を生きる者とされるのです。

<涙を流される主イエス>

  さて信仰告白ののち、マルタは姉妹のマリアを呼びに家に戻ります。マリアは主イエスを出迎えることなく家の中にいました。それは主イエスがラザロが亡くなる前に来られなかったことを腹を立てていたからではなく、あまりにもラザロを失った悲しみが深く立ち上がる気力もなかったからです。決定的な死の力にマリアは打ちひしがれていたのです。主イエスは、かつて自分の足元で熱心に自分の話を聞いていたマリアの打ちひしがれた姿をご覧になり、そしてまた多くの嘆く人々の姿をご覧になります。「彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」とあります。主イエスが感情をあらわにされるのは珍しいことです。そして「どこに葬ったのか」と墓の場所をお聞きになられ「涙を流された」とあります。憤り、興奮し、そして涙を流される姿には、世間一般に考えられる宗教者の姿はありません。どのようなときにも泰然自若とした態度を取るということとは真逆の姿がここにあります。ついさきほど「わたしは、復活であり命である」と語られた救い主が涙を流されています。これからラザロを生き返らせるお方がなぜここでそのように取り乱される必要があったのでしょうか。

  主イエスは、そして父なる神は、人間の悲しみ、苦しみを共に悲しみ、苦しまれるお方だからです。墓は死の象徴です。揺るぎない死の力を示すものです。「どこに葬ったのか」と聞かれた主イエスはそこに厳然とある死を悲しまれました。しかし、そもそも死は人間の罪によってこの世界に入り込んできました。神に背く罪によって人間は死ぬべき者となりました。しかしそのような人間に対して、そして人間の死、死の力に対して、神は涙を流されるお方なのです。命と死をご支配されている方でありながら、なお一人一人の人間の痛み、悲しみ、苦しみを共に痛まれるお方だからです。自分はこれからラザロを復活させる、私の力をもってすれば死などどうにでもなる、だから今涙を流していることは無意味だなととは思われないのです。泰然自若とラザロを復活させるというのではないのです。今ここに、涙を流している人々がいる、死の力が厳然とある、そのいま現実に生きている者たちの苦しみをご覧になって涙を流されるのが救い主なるお方です。

 これから主イエスはラザロを復活させられます。それはご自身の復活のさきがけとなるしるしでした。しかし、復活したラザロは不老不死となったわけではありません。やがて死んだのです。マルタもアリアも、そしてこのとき共に泣いていた人々も今はこの地上にいません。依然として、この地上には死が存在するのです。人々が涙を流し、痛み、苦しむ世界があるのです。主イエスはその世界と人間に対して、涙を流されるお方なのです。私たちの流す涙の何倍もの涙を流され、私たちの痛む何倍もの痛みを覚えられるお方です。復活であり命であるお方は、現実の世界を生きる私たちの負う苦しみを、それも漠然とした苦しみ一般としてではなく、個別の私たち一人一人の苦しみをご存じで涙を流されるお方です。その苦しみがある意味、自分のせいで起こったことであっても、言ってみれば自業自得のような苦しみであったとしても、なお、救い主はその苦しみを共に苦しんでくださるお方です。ご自身が十字架で苦しまれたのは、人間の罪による神の怒りをお受けになるためでした。いってみれば本来は人間の自業自得といえる苦しみを十字架でくるしんでくださったのです。そのようなお方であるからこそ私たちは何もかも委ねることができるのです。自分のダメなところもどうしようもないところも包み隠すことなく、救い主の前に差し出し、ともに歩むことができるのです。

  キリストと出会った私たちは、涙を流してくださるキリストと共に歩んでいくのです。キリストとの出会いは一回きりではありません。人格的交わりという言葉をよく使いますが、私たちはどこか遠くにおられる立派な神様を拝んで歩むのではありません。復活であり命である救い主と人格的な交わりをしながら歩んでいくのです。信じた者はその豊かな交わりのうちにさらに信仰を深められながら、そして日々キリストによって慰められながら歩んでいきます。



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